28人が本棚に入れています
本棚に追加
三
彼が自販機の前に辿り着いた時、既に彼女はカフェオレを飲みながら外を眺めていた。
「ちっす」
一瞥してそう声を掛けると、彼女は軽く視線を合わせ、会釈を寄越す。
あのコーヒーの一件以来、彼と彼女は軽く言葉を交わす仲になった。
大抵は挨拶をして終わりだが、たまに機嫌の話などをすることもある。
ただそれだけ、と言えば、それだけの関係だ。
彼が硬貨を自販機へ入れている時、向かって右手にある窓がパッと明るくなり、遅れて地響きのような音が聴こえた。
花開くそれを見て、色々と感じていた違和感がつながった。
今日は花火大会だ。
だから、周囲の同僚も浮足立ったように退社していったのか、と納得する。
彼は彼女の方を軽く振り返った。
様々な色に照らし出される彼女の顔は、どこか痛むような、何かに耐えているような、そんな表情を浮かべている。
「誰かと行く予定はなかったのか?」
気付くと彼は、そんな言葉を彼女に掛けていた。
彼女は少しばかり目を丸くして、彼を見ると、やや自嘲気味に笑う。
「そしたら、今ここにはいないでしょ」
そう言って、彼女は再び窓の外を見た。その手はカフェオレの缶をしきりにこすっている。
「仕事、忙しいのか?」
会話を続けた彼に、彼女は胡乱げな表情を向けた。
今まで、彼が彼女のプライベートに分け入るような質問をすることはなかったため、怪しんでいるのだ。
「忙しいって言えば、忙しいのかも」
彼女は少し迷った後、絞り出すように言った。
なぜ、そのような曖昧な物言いをするのか、彼女自身もわからなかった。
彼は呆れたように息を吐いた。
「あんた、毎日ここにいるじゃん。明らかに疲れてるでしょ」
ブラックコーヒーを持つと、ベンチに掛ける彼女の隣に座る。
「本、読まなくていいの?」
珍しい彼の行動に彼女が尋ねると、
「いい」
彼は缶に口を付けた。
「……就職が決まった夏にね、彼氏と別れたの」
ぽつりと。唐突に。
彼女がそう言った。
コーヒーを飲み下すと、彼は彼女の横顔に目を向ける。
「彼は就職活動が上手くいってなかったみたい。
私が志望の業界に入ると決まった時、酷く怒って、詰られた。
それで、私もカッとなって、『甲斐性なしの癖に』って言っちゃったんだよね。
それがきっかけで、別れちゃった」
彼女は少し笑みを浮かべた。
「今ね、私、そのことを凄く後悔してるの」
こめかみに流れたひと房を、耳へと掛ける。
「希望の業界に入ったけど、全然上手く立ち回れない。最初に培った知識は枯渇して、すぐ新しいことをしなきゃいけないのに、それも間に合わない。残業も多くて、見ての通りいつも午前様。
結婚すれば楽になるかと思うのに、恋愛する時間もない。大学時代の友だちは、皆結婚したり、子どもを産んだりしてるのに。
仕事をしている時も、友だちと会う時も、自分がどうしようもなく独りだって、思い知るの」
彼女はそんなことを、淡々と彼に話した。
――あの夏、あの人に吐いた言葉が、今の自分を痛め付ける。
最後に小さく、そんな言葉を吐いた。
彼は彼女の瞳を静かに覗いた。
今にも零れ落ちそうに、瞳に薄い水の膜が張っているのが見えた。
花火を映すその膜は、とても美しい。
彼は尋ねた。
「仕事、嫌いなのか?」
彼女は首を振る。
「仕事は好き。だからこそ辛い」
そういう彼女をみて、彼は自分の手を組んで頭の後ろに回した。そして、唸るような溜息を吐き出した。
「俺は逆のクチだからなぁ……」
「逆?」
彼女は不思議なものを見るような目で彼を見た。
「ああ。昔、やりたい仕事があってな」
彼は手元のコーヒーに口を付けた。
そして少しその口を話すと、言葉を続ける。
「父親が、その仕事だったんだ。その姿にどうしようもなく憧れてな。大学時代、試験を受ける予定だったんだ。
けど、ちょうどその年……――俺の場合も夏だったな。
親父が死んだんだ。仕事の最中にな。
お袋は酷く悲しんだ。それで、その仕事をするのは止してくれ、って俺に縋ってきた。
それで諦めた」
彼も、淡々とそんなことを話した。
その目は、花火に照らし出される自販機を見ている。
いつもは自販機の稼働音の響くその場所も、今は花火の破裂音や、人々の歓声に満たされている。
彼は続ける。
「俺は、仕事はできると思う。他人にも褒められるし、手を抜く気もない。
けれど、今でもどうしようもなく、虚しくなるんだ。
あの時、母親の言うことを振り切って、試験を受けていたら、どうなったんだろうってな」
彼は缶を一気に煽った。
そして、立ち上がって缶をゴミ箱へと落とすと、
「人は、無いものねだりなんだよ」
吐き出した。
彼女は、言うべき言葉が思い浮かばず、沈黙が流れる。
また一つ、尺玉が花開いた。
音に釣られるように、彼女は窓の外を見た。
彼も、その視線の先を追った。
銀色の筋が、ある一点を中心にして、幾筋も下へと落ちて行く。
下の声も、その散り様に感嘆するように、大きくなった。
見入っていると、彼女の声がした。
「ねぇ、賭けをしない?」
彼が彼女を見る。
その表情は、どこか清々しさを浮かべていた。
「何、賭けるんだ?」
彼女が彼を見た。
「缶飲料一本」
彼は内心、随分安い賭けだな、と感じたが、彼女に先を促した。
「二人とも、天邪鬼に生きるの」
「は?」
彼の口から、思いの外素っ頓狂な声が出た。その声に、彼女はくすくすと笑う。
「あなたは好きなことをする。そして、私は好きなことを止める。勝った方が、負けた方に缶飲料を奢って貰える」
彼女の楽しそうな声に、彼は面食らったようだった。
少しの間、考え込んだ後「望むところだ」と、白い歯を見せた。
そして、すぐに歯を引っ込めると、「ところで」と真面目な声を出した。
「好きなことを止めるって、あんた何をするんだ?」
そうすると、彼女は再び窓の外に目を向けて「さあ」と呟いた。
「わからない」
そう言う彼女に、「言い出しっぺの癖に」と彼は非難するように溜息を吐いた。
彼女が腰を上げた。
首から提げたネームプレートが揺れている。
壁掛け時計は、九時四十分を指していた。
花火が終わったのか、休憩スペースもいつもの仄明るさを取り戻している。
「じゃあ、賭けね」
彼女の声は少し弱弱しかった。
そうして、ヒールの音を響かせながら、エレベータへと近づいていく。
「おい」
その声に、彼女が彼を見た。
彼は真剣な色を浮かべて言った。
「好きなこと止めたら、ボルダリングしろよ」
今度は、彼女の口から「は?」という素っ頓狂な声が漏れ出る番だった。
「あんた顔色も悪いし、腕も細っちい。スタイルはいいのに猫背だ。だから、そんな疲れた顔になるんだよ。少しは運動しろ」
命令するようなその口調に、彼女はぶすくされた顔をした。
「……運動苦手なの」
彼が、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ちょうどいいじゃねぇか。『好きなことは止める』。それだったら、ちょっと嫌なことやってみろ」
恨みがましさを浮かべていた彼女の目元が、ふと和らいだ。
そして、少し口角を上げると「それもそうか」と言った。
最初のコメントを投稿しよう!