1/1
前へ
/6ページ
次へ

 彼が自販機の前に辿り着いた時、既に彼女はカフェオレを飲みながら外を眺めていた。 「ちっす」  一瞥してそう声を掛けると、彼女は軽く視線を合わせ、会釈を寄越す。  あのコーヒーの一件以来、彼と彼女は軽く言葉を交わす仲になった。  大抵は挨拶をして終わりだが、たまに機嫌の話などをすることもある。  ただそれだけ、と言えば、それだけの関係だ。    彼が硬貨を自販機へ入れている時、向かって右手にある窓がパッと明るくなり、遅れて地響きのような音が聴こえた。  花開くそれを見て、色々と感じていた違和感がつながった。  今日は花火大会だ。  だから、周囲の同僚も浮足立ったように退社していったのか、と納得する。  彼は彼女の方を軽く振り返った。  様々な色に照らし出される彼女の顔は、どこか痛むような、何かに耐えているような、そんな表情を浮かべている。 「誰かと行く予定はなかったのか?」  気付くと彼は、そんな言葉を彼女に掛けていた。  彼女は少しばかり目を丸くして、彼を見ると、やや自嘲気味に笑う。 「そしたら、今ここにはいないでしょ」  そう言って、彼女は再び窓の外を見た。その手はカフェオレの缶をしきりにこすっている。 「仕事、忙しいのか?」  会話を続けた彼に、彼女は胡乱げな表情を向けた。  今まで、彼が彼女のプライベートに分け入るような質問をすることはなかったため、怪しんでいるのだ。 「忙しいって言えば、忙しいのかも」  彼女は少し迷った後、絞り出すように言った。  なぜ、そのような曖昧な物言いをするのか、彼女自身もわからなかった。  彼は呆れたように息を吐いた。 「あんた、毎日ここにいるじゃん。明らかに疲れてるでしょ」  ブラックコーヒーを持つと、ベンチに掛ける彼女の隣に座る。 「本、読まなくていいの?」  珍しい彼の行動に彼女が尋ねると、 「いい」  彼は缶に口を付けた。 「……就職が決まった夏にね、彼氏と別れたの」  ぽつりと。唐突に。  彼女がそう言った。  コーヒーを飲み下すと、彼は彼女の横顔に目を向ける。 「彼は就職活動が上手くいってなかったみたい。  私が志望の業界に入ると決まった時、酷く怒って、詰られた。  それで、私もカッとなって、『甲斐性なしの癖に』って言っちゃったんだよね。  それがきっかけで、別れちゃった」  彼女は少し笑みを浮かべた。 「今ね、私、そのことを凄く後悔してるの」  こめかみに流れたひと房を、耳へと掛ける。 「希望の業界に入ったけど、全然上手く立ち回れない。最初に培った知識は枯渇して、すぐ新しいことをしなきゃいけないのに、それも間に合わない。残業も多くて、見ての通りいつも午前様。  結婚すれば楽になるかと思うのに、恋愛する時間もない。大学時代の友だちは、皆結婚したり、子どもを産んだりしてるのに。  仕事をしている時も、友だちと会う時も、自分がどうしようもなく独りだって、思い知るの」  彼女はそんなことを、淡々と彼に話した。  ――あの夏、あの人に吐いた言葉が、今の自分を痛め付ける。  最後に小さく、そんな言葉を吐いた。  彼は彼女の瞳を静かに覗いた。  今にも零れ落ちそうに、瞳に薄い水の膜が張っているのが見えた。  花火を映すその膜は、とても美しい。  彼は尋ねた。 「仕事、嫌いなのか?」  彼女は首を振る。 「仕事は好き。だからこそ辛い」  そういう彼女をみて、彼は自分の手を組んで頭の後ろに回した。そして、唸るような溜息を吐き出した。 「俺は逆のクチだからなぁ……」 「逆?」  彼女は不思議なものを見るような目で彼を見た。 「ああ。昔、やりたい仕事があってな」  彼は手元のコーヒーに口を付けた。  そして少しその口を話すと、言葉を続ける。 「父親が、その仕事だったんだ。その姿にどうしようもなく憧れてな。大学時代、試験を受ける予定だったんだ。  けど、ちょうどその年……――俺の場合も夏だったな。  親父が死んだんだ。仕事の最中にな。  お袋は酷く悲しんだ。それで、その仕事をするのは止してくれ、って俺に縋ってきた。  それで諦めた」  彼も、淡々とそんなことを話した。  その目は、花火に照らし出される自販機を見ている。  いつもは自販機の稼働音の響くその場所も、今は花火の破裂音や、人々の歓声に満たされている。  彼は続ける。 「俺は、仕事はできると思う。他人にも褒められるし、手を抜く気もない。  けれど、今でもどうしようもなく、虚しくなるんだ。  あの時、母親の言うことを振り切って、試験を受けていたら、どうなったんだろうってな」  彼は缶を一気に煽った。  そして、立ち上がって缶をゴミ箱へと落とすと、 「人は、無いものねだりなんだよ」  吐き出した。  彼女は、言うべき言葉が思い浮かばず、沈黙が流れる。  また一つ、尺玉が花開いた。    音に釣られるように、彼女は窓の外を見た。  彼も、その視線の先を追った。  銀色の筋が、ある一点を中心にして、幾筋も下へと落ちて行く。  下の声も、その散り様に感嘆するように、大きくなった。    見入っていると、彼女の声がした。 「ねぇ、賭けをしない?」  彼が彼女を見る。  その表情は、どこか清々しさを浮かべていた。 「何、賭けるんだ?」  彼女が彼を見た。 「缶飲料一本」  彼は内心、随分安い賭けだな、と感じたが、彼女に先を促した。 「二人とも、天邪鬼に生きるの」 「は?」  彼の口から、思いの外素っ頓狂な声が出た。その声に、彼女はくすくすと笑う。 「あなたは好きなことをする。そして、私は好きなことを止める。勝った方が、負けた方に缶飲料を奢って貰える」  彼女の楽しそうな声に、彼は面食らったようだった。  少しの間、考え込んだ後「望むところだ」と、白い歯を見せた。  そして、すぐに歯を引っ込めると、「ところで」と真面目な声を出した。 「好きなことを止めるって、あんた何をするんだ?」  そうすると、彼女は再び窓の外に目を向けて「さあ」と呟いた。 「わからない」  そう言う彼女に、「言い出しっぺの癖に」と彼は非難するように溜息を吐いた。  彼女が腰を上げた。  首から提げたネームプレートが揺れている。  壁掛け時計は、九時四十分を指していた。  花火が終わったのか、休憩スペースもいつもの仄明るさを取り戻している。 「じゃあ、賭けね」  彼女の声は少し弱弱しかった。  そうして、ヒールの音を響かせながら、エレベータへと近づいていく。 「おい」  その声に、彼女が彼を見た。  彼は真剣な色を浮かべて言った。 「好きなこと止めたら、ボルダリングしろよ」  今度は、彼女の口から「は?」という素っ頓狂な声が漏れ出る番だった。 「あんた顔色も悪いし、腕も細っちい。スタイルはいいのに猫背だ。だから、そんな疲れた顔になるんだよ。少しは運動しろ」  命令するようなその口調に、彼女はぶすくされた顔をした。 「……運動苦手なの」  彼が、ニヤリと笑みを浮かべた。 「ちょうどいいじゃねぇか。『好きなことは止める』。それだったら、ちょっと嫌なことやってみろ」  恨みがましさを浮かべていた彼女の目元が、ふと和らいだ。  そして、少し口角を上げると「それもそうか」と言った。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加