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四
あれから一ヵ月ほど経つ。
あの日を境に、男が休憩スペースに現れることはなくなった。
丹代は相変わらず、残業を続けていた。
薄明りの中でベンチに腰掛けるのは自分ばかりになっていた。
男の仕事の内容が変わって、あの時間に休む必要が無くなったのだろう、と彼女は思うことにした。
そうでなければ、「変な女」だと思われたのだろうと、そう自虐気味に笑みを浮かべた。
一方で、丹代の周囲も少し変わった。
会社で時短社員の募集が行われたのだ。
雇用形態もすっかり変わることから、同僚は『体のいい人件費削減だ』とけんもほろろだった。
丹代も以前だったらそう思っていたのだろうが、何故かその募集に応じることにした。
給料は今までよりも減り、その分、出勤時間も週四回に減る。
あと二週間ほどすると、その形態が始まるので、今は自分の代わりにメインでアカウント担当に就く社員への引継ぎ資料を作成していた。
同僚たちは丹代を心配したが、彼女は寧ろせいせいした気持ちだった。
「丹代さん」
突然声を掛けられて、そちらを見た。
完璧なナチュラルメイクの女性が一人立っていた。
どこかで見たことがある気がしたが、思い出せない。少なくとも、同じ部署では無かった。
「はい」
ひとまず返事をすると、女性はメモを差し出した。
「男性がいらっしゃって、このメモを丹代さんにって」
その段になって、彼女はようやく女性が誰かを思い出した。
会社の受付担当だ。
「あ、ありがとうございます」
「堂場さんとおっしゃってました」
「堂場?」
覚えのない名前だった。
取引相手にも、そういった名前の人物はいなかったと思う。
女性が去って、丹代はメモを開いた。
『ネームプレート、チラ見しました。すみません。
今日付けで会社を辞めました。
改めて警察官を目指します。
賭けは私の勝ちでしょうか。
追伸 家の近くに、良いボルダリングの練習場があります。
よろしければ、で結構ですが、一緒に行きませんか?』
メモの末尾には、連絡アプリのIDが記載されている。
読んでいる途中、丹代は「あ」と声を上げ、胸元に手を当てた。
あの日、自分は首から提げたネームプレートをどうしていただろうか。
窓の外に目を向けた。
まだ暑さは残っているが、しかし、空は高く、薄く水を掃いたように澄み渡っている。
いつの間にか、秋が目の前に迫っていた。
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