夏の終わりのプレイボール

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 甲子園に心を奪われた日を、私ははっきりと覚えている。  中一の夏休み。ソフトボール部の練習はお盆休みに入っていた。  居間のテレビを付けてソファーに座ると、妹が楽しみにしていた教育番組が、その日は野球中継に変わっていた。 「ママー、プロ野球やってる」 「プロ野球じゃなくて高校野球」  よく見ると、画面の右下には学校らしき名前が表示されている。 「あら、投手戦ね」と台所から母が顔を出した。  試合は0-0のまま、既に九回表に入っていた。  ピッチャーの顔がアップになる。  ノーアウト満塁のピンチ。  二度首を振った後、頷く。玉のような汗が頬を伝い落ちた。  画面が後方に切り替わる。  背番号1。  足が上がり、クイックモーション。  左利きだ、と私は思った。  長い腕が横から鞭のようにしなる。  サイドに近いスリークォーターのフォームは、ソフトの投手にほんの少し似ていた。  スパン、とアウトハイ。バットは空を切った。  空振り三振! アナウンサーが叫ぶ。  引き締まった表情のまま返球を捕り、ぐるりと野手を見渡して人差し指を立てた。  まずは一つ、という解説が重なる。  マウンドへ戻っていく。  真っ直ぐなシルエット。 「お姉ちゃん、近いよ」  妹に言われるまで、前のめりになっていたことに気付かなかった。  あの投手の名前は、もう覚えていない。  けど、甲子園。  私は初めてその名前を知った。  そして同時に悟った。  ソフトボールではそこへ行けないということを。  ベンチに女の子が一人だけ座っているのを、私は見逃さなかった。  選手と同じベースボールキャップをかぶっている。  なのに、セーラー服。    試合終了後、整列して、アルプススタンドの応援席に頭を下げる時。  彼女の膝丈のスカートが、わずかにひらりと揺れた。  どの瞬間よりも、目に焼き付いた。  高校に入ったら、同じクラスに野球部志望と一目で分かる坊主頭の子がいた。  伊坂くんだった。  ソフトボールをやっていたと自己紹介で言ったら、放課後、マネージャーをやらないかと訊いてきた。  言われなくても、そのつもりだった。  甲子園に行けると信じていたわけじゃない。  切符を、ちゃんと持っていたかった。  たった一人の女の子のための、特等席。
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