前村大炊ノ介教貫(まえむらおおいのすけのりつら)

8/8
前へ
/111ページ
次へ
 教貫は憔悴していた。それは公務に追われるだけでなく、女に恋い焦がれる気持ちからでもあった。  「ご主人様。」  自宅の文机に頬杖をつく教貫に長太郎は声を掛けた。  彼は鷹揚にそれに振り向いた。  「話がつきました。」  「話し・・・」  教貫は疲れ切った声を出した。  「以前話しました伊東玄白でございます。」  「何のことじゃ。」  「武芸者の・・」  「ああその事か・・で、どうなった。」  長太郎には教貫の声が乗り気でないように聞こえた。  だが、気を取り直し、  「お会いになるそうです。」  「何時。」  「明後日正午に。」  「よきように取りはからえ。」  そう言って教貫は元の姿に戻った。  それでも、教貫は長太郎を先に、伊東玄白が逗留しているという寺院を訪れた。  その本堂で彼を迎えた武芸者は白髪に白髭の好々爺に見えた。  本当に腕は立つのか・・・教綱は疑問を感じた。  「長太郎、お手合わせを願え。」  教貫は後ろに座る従者に声を掛けた。  「貴方様では・・・」  好々爺は教貫を見た。  「儂の従者、斉藤長太郎は槍の使い手でござる。こやつを相手に貴殿の腕を見せてはくれまいか。」  教貫に促され長太郎は立ち上がった。  「それでは我が弟子を・・」  だが玄白が立ち上がることはなかった。  寺の庭が手合わせの場所となった。そこに玄白の弟子十数人が集まった。  何の某と名乗って、木剣を手に稽古用の槍を持った長太郎に打ちかかる。が、彼はそれを鮮やかに捌き、次々と打ち負かしていった。  「おやおや・・剣戟の音がすると思っていたら・・」  一人の若者がそこに現れた。  何者・・教貫は言った。  「鬼木元治と申します。  以前、大津の寺院に泊まったおり、この者の知る辺という女に推挙されました。  腕は立つという触れ込みで・・・  実際、私の弟子達は全てこの者に敗れました。  それ以来食客として同道しております。」  「お手合わせ中でしたか。」  紹介された若者は薄い唇を歪めて笑った。  「あの槍の使い手に皆負けた。」  「私がお相手いたしましょうか。」  肯く玄白を背に、若者は庭に降り、転がっていた木刀を手にした。  片手に木刀を持ち、ゆらりと若者は歩を進めた。その姿に構えはなく、木刀を持った手はだらりと下がっている。  だが槍の名手、斉藤長太郎を以てしてもその姿に隙は感じられなかった。  気を込めてかけ声を放つ、それにも若者は眉一つ動かさない。  裸足の足の指を使いじりじりと間を詰める。  それでも若者は剣を構えようとしない。  嘗めているのか・・長太郎は槍を突き出した。  だがその穂先は、ゆらりとした躰の動きに躱された。  次には突くと見せかけ槍を回した。  それは若者が片手に持った木剣に軽く弾かれた。  おのれ・・・長太郎は気を込めなおした。  その瞬間、若者の影が動き、彼の首根に木剣が突きつけられていた。  見事・・・教貫が呻った。  「私の腕など玄白様には遠く及びませぬ。」  若者はそう言って膝をついた。  「負けたな・・長太郎。」  「強うございました。  玄白殿の弟子達もなかなかの腕ではございましたが、最後の相手、鬼木元治とは隔絶の腕前でございました。」  話す長太郎をよそ目に、教貫は人混みに目を凝らしていた。  またあの女が・・・・
/111ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加