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「順調なら俺が何もしなくたって伴奏を弾けてただろうな」
「そりゃそーだ。なんたってうちの千和子は手強いからねぇ~」
おどけるような調子には温かみがあってくすぐったさを覚える。けれど、彼女の素顔を盗み見ると、表情こそ柔らかいのに、どこまでも真っすぐに貫いた瞳を携えている。
語調をどう繕っても彼女の真意がどこにどのような形で在るのかは、わざわざ触れて掘り起こさなくてもなんとなく察することができた。
「はっ、俺を誰だと思ってる? 九部良倫だぞ? 学校一の問題児だぞ?」
夏も近いらしい。じめっとした生温い風が緑に囲まれた中庭を吹き抜けて、宮本の後ろでくくった一房の髪を右に左に揺らす。
「絶対弾けるようにしてみせるよ」
「……ほーんと、すごい自信だよね」
力強く肯定してみせると宮本は空を仰いで飴玉でも舐めるようにそう零した。
改めて指摘されると昨日の夜の出来事がフラッシュバックする。米沢の荒れた息遣いが、ワイシャツを絞め上げる熱が、今にも泣きだしそうな表情が、根太い蔦のようになって俺の足元に絡みついてくる。
米沢ならなんと答えただろう。いや、答えは昨日もらったか。感心する彼女の表情をまっすぐに受け止められない理由が俺の中には芽吹いていた。
『自信なんてねぇよ』
そう口にするのは容易かった。弱気にもなりたい心持ちだった。
けれど、その本心を一度吐き出してしまえば、止め処なくあふれ出して、これ以上先に進めなくなってしまう気がしたから。
「まぁ、人としての出来が違うんだよ、出来が」
必死で悟られないように余裕のポーカーフェースを装って、側頭部を人差し指で数回つつく。
そのあと胸に拳を押し当てたりして自身で自分を鼓舞してみせる。そうして自分を保てなければ一年前に捨てた過去がすぐそこまで這い寄ってくる気がして。
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