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「ふぃ~」
場所は変わって自分の教室。昼休みの時間すべてを食い潰したお説教を終えて、扉をくぐったところでようやく一息ついた。
午後の授業の予鈴も鳴って、昼明けの眠たい授業の準備をする生徒の姿が見受けられる時間帯。吐き出して吸い込んだ空気の美味さを思い知る。
閉ざされた環境。暑苦しい男からの説教。心がナイーブになるコンボを受けていたものだから、教室に帰ってくるだけでも確かな解放感を如実に味わうことができる。
きちんと窓の備わった教室は最高この上ないことだ。開かれた窓から侵入した柔らかい風がカーテンをパタパタとはためかせている。
「で、呼び出しはどうだったんだ?」
ふらふらとした足取りで自席に漂着すると、無造作に開かれたハードカバーを手に、読書に明け暮れる男が愛想もないぶっきらぼうな声音で訊いてきた。
「反省文書いてお小言もらって終わり。ま、いつものパターンだな」
「そうか」
男はそう短く漏らすと納得したのか意識を書籍へと戻す。この無口な男こそが先ほど話題にもあげたベーシスト。名をダイちゃんという。
プロのジャズギタリストの父を持ち、母も音大出身というエリート音楽一家の一人息子だ。
中学二年の時点でピアノにギター、ベース、ドラムというロックの主要楽器をさらっと弾きこなし、金管楽器まで網羅し、近頃は民族楽器にまで手を出している音楽の化け物だ。
『才能』という言葉で片づけるのは好きじゃない。たゆまぬ努力を重ねられることを才能と呼びたいし、いずれ手を伸ばさなくなる場所が才能の境地であるのなら、それほど寂しいことはないから。
それでも、ダイちゃんの才能を前にすると自分が凡人であることを嫌でも理解させられる。俺は、追いかけても詰まらない距離を今日も追いかけるのだ。
なんて。ダイちゃんの逸話も話し出すとそれはもうキリがないのだが、あまり持ち上げるとあまりの突出ぶりに腹が立つので今日はここまでにするとしよう。
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