第一話『九部良倫と合唱コンクール』

8/9

58人が本棚に入れています
本棚に追加
/403ページ
 教室に渦巻く空気の香りを嗅いでみても、感触としては決して悪くないように感じる。クラスメイトたちからの評判が芳しくない林の意見という部分も加味すれば、むしろ成功の部類に入るのではないだろうか。 「なあ、どう思う?」  音楽のことならダイちゃんでしょ!  単純明快な解法に辿り着いた俺は机の陰に本を隠して読書に興じる男に小声で問いかけてみた。 「ピアノを誰がやるのかってところかな」 「ピアノ?」 「合唱コンクールって例年通りだとクラス内から伴奏も選抜しなきゃいけないだろ。この曲、言っておくけど素人からすると簡単ではないよ」  手に持つハードカバーに固定した視線を一切動かすことなくペラリとページを繰ってダイちゃんは淡々と説明をつづける。 「この曲、どんな印象?」 「えーと、盛り上がるところと盛り下がるところがはっきりしてる」  我ながら実に幼稚な回答だなと思いはするものの、自分の貧弱な語彙では『夢の雫』の印象をうまく伝えることができなかった。  ひっそりと歌うパートもあればガツンと高まるパートもあって、一曲を通して抑揚が求められ、それが曲のダイナミックさやドラマチックさに繋がっているんだと感覚的に理解してる感じ。 「ま、おおむね合ってる。この曲の魅力って混声パートごとに見せ場があるところだ」 「アルトとかソプラノとか?」 「それに加えて男声で混声三部の曲だ。その各パートごとに主旋律を担当するフレーズが存在する。全員が主役。そういう考え方だ。言葉で言うのは簡単だし、聴く側からするとインパクトも残って良いこと尽くしであるように感じるかもしれないけど、単純に読み解くだけでこの曲は四回転調する」 「よ、よんかいっ!?」 「へ長調──つまりFから始まりDm、D、Gと目まぐるしくキーを変えることで、それぞれのパートに主旋律を配置してやってる。曲のテンポだって変わる箇所があったはずだ。練習時間にもよるが、”楽譜は読める”、”ピアノに触ったことがある”ってだけじゃハードルは決して低くないな……ってのが僕の意見。そんだけ」  ダイちゃんは言いたい事だけをまくし立てるように口にした。他に話すこともないだろうと、再び本の世界に舞い戻る切り替えの早さには脳内でひとつだけツッコミを入れておく。
/403ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加