物理の穂積さん

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 楠木さんのバイト先は地下2階地上4階の大型書店だ。まず地下1階自然科学フロアに行く。医療書コーナーで本を探す。そのまま穂積さんが担当しているはずの物理書、地学書、科学系新書コーナーを歩いたが誰もいなかった。  奥の整理カウンターで作業している男女がいた。男の方がバックルームに入って行く。顎髭に眼鏡のガタイのいい男、あれが「物理の穂積さん」だろうか。確かに登山やってそうな風貌だ。10分程フロアをうろついて待ってみたが男は姿を現さなかった。  品出しがないときはレジに入ると、楠木さんが言っていたのを思い出した。レジは2箇所。まず地下2階のレジをのぞいた。カウンターには女二人と男一人。男は長身のイケメンだ。さっきの男ではない。若いから明らかに院生ではない。本を会計してもらいながら名札も確認したが「物理の穂積さん」ではなかった。  もう一度地下1階を確認したが誰もいないので、1階の総合レジに向かう。レジには十人ほどスタッフがいて四人が男だった。読みもしない雑誌を手にして会計の列に並んだ。ここにも「物理の穂積さん」はいなかった。  2階にも3階にもいない。最後に4階のコミックスコーナーでさっきの顎髭の男をみつけた。マンガを探すふりをして近くづく。間近で見るとTシャツの上からでも大胸筋と三角筋がわかる。半袖から伸びた上腕二頭筋、それに続く腕橈骨筋も硬くていい形をしていた。筋トレで作った肥大した筋肉じゃない。やっぱりこの人が穂積さんなのかと名札を確認する。  穂積さんじゃない。  俺、何してるんだろう。こんなところまで来てコソコソと。リハビリの本なんて学校の生協で買えるだろ。  「物理の穂積さん」を見て何がしたかったのだろう。寝癖でだらしない穂積さんを見てくだらない男に引っ掛かったもんだと溜飲を下げたかったのか。知的でワイルドな穂積さんを見て楠木さんを諦めるきっかけが欲しかったのか。  諦めるも何も、一方的に近づいて来るのは楠木さんで、一方的にしゃべるのも楠木さんだ。  ただ気づいた時には、楠木さんの柔らかそうな髪の毛とか、よく笑う口元とか、俺を見つけた時の嬉しそうな笑顔がちらつくようになってしまった。  楠木さんの気持ちを確認するのが恐くて、無駄な自尊心が邪魔をして、うやむやにして逃げていたら、他の男に取られていた。情けなさ過ぎる。  これ以上考えたって仕方がない。今夜は缶酎ハイを飲んで寝てしまおうと駅に向かって歩いていると声がした。 「遠藤君!」
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