4/5部 歴史の陰に女あり。

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4/5部 歴史の陰に女あり。

 徳川方は、家康、二代将軍秀忠を始め、諸大名の約20万の軍勢で大坂城を包囲し、西南、茶臼山に着陣し、攻撃を開始した。緒戦は、徳川方が豊臣方の砦を攻略し、勝利。豊臣方は、大坂城に撤退した。  そこには上田城で徳川秀忠を釘付けにした真田昌幸の子、真田信繁(幸村)や後藤又兵衞基次らがいた。家康方は思いのほか、彼等の激しい抵抗を受けた。  「大坂城に頼らず、様々な場所へ打って出て、敵を攪乱させましょう」  幸村らは、戦国慣れした武将らしく、様々な作戦を提案した。しかし、淀君や豊臣家を仕切っていた大蔵卿局の子・大野治長・治房兄弟に 「その必要はない」と取り上げらないでいた。  豊臣方は幸村らを、浪人ごときが偉そうに意見するな、という風潮が紛れもなくあった。幸村は仕方なく大坂城の外に真田丸という砦を築いた。闘いの才能は、父譲りのものがあった。大坂城内では、「幸村の兄・信之は、家康の重臣。幸村は、家康方の回し者ではないのか」と、疑われる始末。周りの目の冷たさに増して、折しも、季節は冬。寒さは、兵の気力を容赦なく、萎えさせていった。それは、老体の家康と天海には辛いものがあった。  「思っていた以上に抵抗しよりますな。もうこれ以上、長引かせるわけには避けねばなりますまいて」  「このままでは、兵の気力がもたぬわ。力攻めはやめ、敵方の戦意を喪失させるため、慌てさせてやるか」  「それは宜しいですな。兵力に物を言わせて、あちらこちらから攻めるぞ、と脅してやりましょう」  家康は、イギリスから買い入れた大砲をこれでもかと、大坂城に打ち込んだ。大砲といっても、石を飛ばし、城壁などを壊すというもの。  天海らは態とく、豊臣方から見えるように、地下通路工事を大坂城に向けて開始しさせた。連日の砲撃と、多人数での地下通路工事。豊臣方の要にいた淀君たちは、迫り来る恐怖に怯えが増していた。豊臣方の様子は、密偵からの報告で掌握していた。  「そろそろ、宜しいのでは」  「そうじゃな、寒さも増しておる、この辺りで和睦を申し出てやるか」  その誘いに、案の定、怯えを顕にしていた淀君たちは、飛びついてきた。  家康方からは、腹心の本多正純、家康の側室・阿茶局。  豊臣方からは、淀君の妹・常高院(浅井初)が出席し、調印。  常高院にとっては、感慨深き関わりだった。淀君は姉、徳川秀忠の正室・小督こと、お江与は妹。皮肉にも、姉と妹の間を取り持つ調印となった。  世間には、徳川方が豊臣方を攻めきれず、尻尾を巻いたように映っていた。  家康と豊臣方で結ばれた和睦の条件とは、  家康からは、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。  豊臣方からは、秀頼の身の安全を保障すること。豊臣方に味方した者達への責任を問わないこと。 などが主な合意条件だった。ここに家康の強かな罠が、敷かれていた。家康からの条件には、「誰が」二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めるかを敢えて、示さずにいたことだ。  受け手側の豊臣方は、すっかり自分たちの都合で行えるものと、安易に受け取っていた。一方、家康は間髪を入れず、難攻不落の大坂城を腑抜けにするための行動に出た。  あれよあれよという間に、三の丸の破壊に取り掛かり、二の丸も破壊した。これに淀君は、驚きを通り越し、激怒を覚えずにはいられなかった。  「約束は守りまするが、我らに断りもなく行うは、無礼千万。そなたらの手を煩わせるものではありませぬ。即座に引き上げられよ」  「これはこれは、失礼、致し申した。私としては、無理な条件を受けて頂いて、更にお手を煩わせるのは、忍びないと…これは出しゃばった真似を致しましたな」  「解かれば、即座に引き上げられよ」  「まあまあ、そうお怒りになさるな。折角、手配も済、着々と約束事を形にしておりまする。ここは、この家康にお任せになり、ゆるりとお休みくだされ」  やめろ、やめないの凌ぎ合い。激怒の淀君たちを、あれやこれやと理由を付け、時間を費やす家康。しかし、豊臣方は抗議はするが、実力行使に移れず、破壊工作は、着実に進められていった。  「家康のやつ、聞く耳を持たず、勝手な真似を…ああ、憎らしい」  豊臣方は、苦虫を潰した思いで、砂煙を眺めるしかなかった。  思い起こせば、方広寺の再建が時代を動かす要因になった。方広寺は、豊臣秀吉が、京の町づくりに、宗教の力を借り、人を集め、人員を掌握しようと手掛けたもの。その計画と権力の象徴となるものを建立しよとしたのが、方広寺だった。  秀吉は、方広寺に奈良の東大寺に倣って、大仏殿と大仏の造営を始めた。しかし、ほぼ完成し、開眼を待つだけという時に起きた大地震。木製金漆塗坐像の大仏は、粉々になってしまった。その後、大仏は秀頼により完成を見るが、放火されて消滅。そして、三度の完成を間近に控えていた時の出来事だった。  「家康様、私が方広寺を訪れたのは、佛の導きかと存じております」  「佛の導きとは…」  「知っておられますか、秀吉が作った大仏の話を」  「どんな話じゃ」  「町づくりに宗徒、宗教を利用し、民衆を掌握するのは、見習うべきところですが、秀吉は、ちと気が短すぎたようですな」  「分かるように説明せい」  「方広寺の鐘銘に奇しくも、国家安康と書かれたことが、火種に」  「そなたが言うか」  「そうでしたな。そもそも元を辿れば秀吉の時、完成を間近にした大仏は、開眼前に、京の大地震に見舞われ、倒壊してしまうのです。無残にも崩れた大仏を見て秀吉は、落胆と怒りを覚えたのに違いありませぬ。そのあとがいけませぬ。激怒した秀吉は「おのれの身さえ守れないのか」。そう言い放つと、大仏の眉間に矢を放ったのです。大仏を冒涜した秀吉への罰(ばち)が、時を超えて、災いとなったのでは…私にはそう思えてなりませぬわ」  「そんなことがあったのか、くわばらくわばら」  「神仏を冒涜するものは、天に唾を吐くようなもの。いずれは、自らに降りかかって参りまするゆえにな」  「そうじゃな」  ふたりは、神妙な心持ちに悲哀を感じていた。  「湿っぽくなりました。気分を変えるためにも、念願成就のお経でも唱えて参りましょう」  「おお、それは良い、頼んだぞ天海」  止む終えず急ぎ歩むことを、悔やみつつも、改めて、気を引き締めていた、ふたりだった。  冬の陣で和睦案が持ち上がった時、豊臣方は混迷の中にあった。  「戦局は我に有利であり、和議など家康の偽りなり、抗戦すべし」 と、真田幸村や新宮行朝らが言えば、  「家康は、老齡なれば和を結び時を待っておる」 と、豊臣秀頼や大野治長は、反論。  「この堅城で義を守り一致協力して戦えば、何年でも守り抜ける。苦しんでいるのは敵方である」  「その通り。和議など以てのほか。家康の手に乗ってはなりませむぞ」 と、大野治長の弟、治房や後藤又兵衛も、抗戦を訴える。苦汁を飲まされた武将や浪人たちは、抗戦を望み、高飛車の豊臣家陣営は、争いを拒むという、丁々発止の議論がなされていた。  「淀君様、聞こえて参りましょう。意見が真っ二つに分かれておりまする。一枚岩でない限り、このまま戦えば、惨めな敗戦が待ち申しておりまする。今なら和睦が叶い、秀頼様、淀君様の命と豊臣家は生き延びましょう。しかし、このまま戦を続け万が一があらば、お二方の命は勿論、豊臣の名も失せるでしょう。ここは豊臣家の為、和睦をなされましては如何でしょう」  家康が土を掘り、地下から侵入しようとしている。淀君は、地下から家康がぬぼーっと現れ、命を奪いに来る、という恐怖に押し潰されていた。その脅えを、織田信長の弟である有楽とその子頼長に匠に突かれ、淀君は和睦を受け入れる決意をした。  親孝行の秀頼は、母の淀君の苦悩解消に同意した。織田有楽・頼長父子は、既に、家康と内通していた。家康に抜かりはなかった。  和睦の条件の内、二の丸は豊臣家が。三の丸と外濠を家康方が、約束事だった。家康は間髪を入れず、数万人の人夫を大名たちから集め、三の丸を壊し、外濠を埋め立てた。その勢いで豊臣家の承諾なく、二の丸まで取り壊した。  「奴らは何をしておる」  真田幸村たちは、二の丸の破壊を目の当たりにし、血が遡った。  「あれをご覧なさい、奴が約束など守るはずがない。最初から機を見て、こうするつもりだったのだ」  「こうなれば我らとて、黙って折れませぬぞ。ここは、家康、秀忠を夜襲して討ち取り申そう」  「約條に背ことは出来ぬ」  「約條を破りしは、家康方ではありませぬか」  不毛な議論をしている内に、二の丸は倒壊させられてしまった。難攻不落の名城も今は、裸の城と成り果てていた。この工事の総監督を買ってでのは藤堂高虎だった。突貫工事を命じたものの当初、進捗状態が芳しくなかった。高虎は、責任者の官平右衛門を呼びつけ叱責した。  「なぜ、工事が捗らぬ」  「工事が工事だからのう。力が出んのじゃろう」 と、官平は、騙し討ちのような卑劣な仕事を非難して、にやりと笑ってみせた。すると高虎の顔は、一機に赤みを帯びた。  「関ヶ原で救ってやったのを忘れたか」 と、怒涛が響くと、ビシュッと音がした。官平の足元には、にやりと笑ったままの官平の首が転がっていた。それを聞いた家康は、我意を得たり、とにんまりしていた。  大坂冬の陣のあと、豊臣贔屓の巷の浪人や庶民たちは、徳川の非を口々に唱え、入城を希望する者達が城門に列をなす程だった。  これを重く見た京都所司代の板倉勝重は、直ちに家康に報告。それと並行して冬の陣で東軍に参加していたが、真田幸村が築いた真田丸で敗戦し、浪人となっていた高名な軍学者・小幡景憲を呼び寄せた。  「全軍が大坂に参集するのに五十日はかかろう。その間、秀頼が京の帝に訴え、天下に義軍を募れば一大事になる。何かとこれを阻み、浪人たちを散じる策を取れ」 と、景憲に勝重は命じた。勝重が景憲を使うのは、家康から厳命を受けてのことだった。この大役を任せる人物を家康は、探していた。そこで、勝重が白羽の矢を立てたのが、小幡景憲だった。  「のう、景憲よ。そなた名誉挽回の機を欲するとせんか」  「それは願ってもないこと」  「そうか、それなら豊臣方に入り込み、一泡吹かせて見ぬか」   「なんと豊臣に参れと申されるか」  「そうじゃ、平たく言えば、密偵じゃ」  「裏切り者の汚名を着てまでやることか…」  「そうでなければ、志、叶わぬ。その代わり、悲願達成の折には、将軍の軍学指南を用意申そう」  小幡景憲は、現状の身の程を嘆いていた。それを払拭する絶好の機会と景憲は捉え、勝重の申し入れを、背に腹変えられぬ思いで、了承した。  板倉勝重からの依頼を「これぞ、家康の窮地を救い、着せられた汚名返上の好機ぞ」と小幡景憲は、捉えた。  何食わぬ顔で、豊臣家生え抜きの武闘派・大野治房は景憲を配下に迎えるに当たって、その才覚を高く評価していた。  景憲の不安をよそに今では、浪人と変わらぬ身分。きっと家康を憎んでいるだろう、と豊臣方への寝返りを治房は、喜んで見せた。  実は、その治房の思いを知っての板倉勝重の小幡景憲への依頼だった。  まんまと豊臣方に潜入した景憲は、そこで得た情報を、京都所司代・板倉勝重に事細かく流した。  大坂勢が十万に達するや否や、焦りを隠せないでいた家康。  「大坂を明け渡し、大和か伊勢に移れ。それが厭なら浪人共を悉く追放し、元の家中だけにせよ、それさえ聞けぬとあらば直ちに攻めかかるぞ」  焦りは、露骨な挑発となって表れた。これに対して、大野治房は、三月半ば、新宮行朝を始め、岡部、塙、布施らの他に新たに召抱えの小幡をも列席させて、軍議を開いた。   「かねて予期した通り、家康の肚は豊臣家の断絶にある。此際直ちに右大臣・秀頼を奉じて上洛し、二条城の京都所司代・板倉らを追討し、帝に挙兵の次第を奏上して、天下に家康の非道を明らかにし、迎撃体勢を確立すべし」 と、新宮行長は主張した。他の者も賛同する中、小幡景憲だけは違っていた。  「百戦錬磨の家康に城を出て一戦を挑むのは万に一つの勝算もありませぬ。城に籠って固く守り時を待つのが上策である」 などの景憲の意見を悉く、行長は論破していく。  「宜しい、それでは秀頼公に進言し、直ちに出撃せん」 と、小幡景憲の雇い主の大野治房までもが行長を支持する始末。景憲は、肝を冷やしながらも反論を続けた。形勢不利の中、景憲は方針を変更。治房が反対に回る以上、執拗な反論は裏目に出ると読み、支持を得ている案の脆弱な点を突くことにした。  「出撃するにあたって先ず第一に為すべきことは、強固な一枚岩の軍勢にすること。それを達成するには、仕度金目当ての兵や実戦の役に立たない老弱兵を篩にかけ、少数精鋭で上洛を計るべし」と、解いてみせた。  経緯はどうであれ、結果として、自らが礼を尽くして招いた景憲だけに、その力説に治房は、翻弄される。家康にとっての最悪な状況を避けるための景憲の熱意は、治房にとっては我らの軍を思ってのことと、捉えさせるほどの鬼気迫る力説となった。  小幡景憲の提言を取り入れたことは、くしきも、家康の浪人追放の要求に応じることにもなった。結果、浪人や老幼兵、素性の知れぬ百姓兵を大量解雇した。十万の兵は五万ほどになり、大野勢の中でも勇猛で知られた武藤丹波守などは、二百名の兵が百五十名までになっていた。想像以上に縮小された軍勢を数え、内心「してやったり」と、小幡景憲は、ほくそ笑んでいた。    そんな折、秀頼に心を寄せる妙心寺長老から急報が入った。  「大変で御座います秀頼様。小幡景憲は、家康方の内通者で御座います。急ぎ、急ぎ、手を打たれなさいませ」  「何と、誠か…ええい、景憲を捕えよ」  しかし、時、既に遅し。大野治房が急報を受ける以前に、密偵から自らの危機を知らされた景憲は、急ぎ、伏見城に避難していた。慌てたのは、大野治房だった。  「直ぐ様、軍縮を止めー、改めて兵を募れー」  それに対し、立ちはだかったのは、他ならぬ兄・治長だった。  「待たれー。そのような事、叶わぬわ。どこにそのような蓄財があろうか。緊縮財政の折、再募集など叶わぬこと」  再募集の足枷になったのは、金銭面だけではなかった。  「また、兵を募っておるようだな」  「何を今更」  「そうだ、都合のいい時だけ、雇入れ、要らなくなれば、お払い箱」  「本当だ、馬鹿にしやがって、やってられるか」  解雇された者達の中には、豊臣家に不信感、反感を抱く者を産んでいた。  命を預けている。なのに、これでは、忠義を果たせる訳がない。そう思う者も、少なくなく、再参加を躊躇する者もいた。  豊臣家への不信感。  家康側は、この好機を見逃すはずはなかった。  京都所司代の板倉勝重は、各藩に厳命して、再募集への警戒線を張り巡らせた。徒党を組んでいた兵も各地に拡散していた。その兵が再集結するという情報を掴んでは網を張り、その網にかかった者は容赦なく、切り捨てていった。  豊臣方は、不用意に、小幡景憲を参入させてしまった。それにより、家康への攻めの好機を逃しただけではなく、兵力を半減させてしまった。  難攻不落の大坂城の外堀をまんまと埋めることに成功した家康。  ある目的を達成するために、遠まわしに相手の急所を抑える、それを「外堀を埋める」と言う。これは、家康が行った大坂城攻めに由来するもの。  和平申し立てを、「家康の罠だ」と、真田幸村や木村重成らが猛反対した。しかし、大坂城で実権を握っていた淀君や大野治長は、老獪な家康に騙され、和平を承知してしまった。  大野治長は、豊臣家と淀君に最後まで付き従った摂津国大坂藩の武将。治長は関ヶ原の戦いでは、東軍家康方に味方していた。徳川家に叛意が無い姿勢を示してみせたのである。その後、大野治長は一貫して秀頼の側近として、大坂城で外交・軍事の指揮を取るようになっていた。  大坂の陣で治長は、真田幸村(信繁)と激しく対立した。ここでも、関ヶ原の戦い同様に、闘志を剥き出しにする武断派の武将と、交渉に重きをおく文治派の武将との対立が浮き彫りとなっていた。  豊臣家の誤算は、前田利家だった。  家康を強く牽制してくれると信じていた加賀100万石の前田利家が家康よりもかなり早くに病死してしまったのは亡き秀吉の誤算だった。  利家の後を継いだ前田利長や前田利常(利長の弟)では家康に全く敵対することが出来なかった。さらに不幸なことに、秀吉の子飼いの武将と言って良い加藤清正、池田輝政、浅野幸長らも病死してしまったことだ。家康は、和平を成立させると、即座に将軍・徳川秀忠に指令を出した。  「秀忠よ、そなたが指揮を取り、直ちに外堀、内堀を埋めてしまえ」  「それでは、約束が…」  「甘い、甘いぞ。天下人とは機を逃さぬことじゃ。勝てば官軍よな、秀忠」  秀忠は、父の姿を見て、改めて将軍たるものの自覚を重く受け止めていた。秀忠は即座に、松平忠明・本多忠政(忠勝の子)・本多康紀に埋め立て工事を命じた。  将軍・徳川秀忠の監督の下で1615年1月19日までに大坂城の堀の埋め立て工事が完成。難攻不落の大坂城は、家康方の暴挙によって、軍事防衛的な観点からほぼ無力化されてしまった。  屈辱的な講和条件を呑まされた豊臣方は、大混乱。徳川方への不満・怨恨が日に日に積もっていった。  「ええーい、家康め、好き勝手をしおって。亡き秀吉公にどのように顔向けできようぞ」  「その通りで御座います。このままでは、天下に豊臣家の不振をしらしめるようなもので御座いますぞ」  と、不満を鬱積させる武将や浪人衆は騒ぎ立てた。   1615年3月、豊臣秀頼・淀君は、ついに意を決する。  家康の許可を得ることなく、大坂城の城壁の修理と、埋め立てられた堀の掘削を行った。  豊臣方は、大坂城の防衛能力を回復させながら、残った財力を用いて、再び多くの兵力を駆り集め始めた。勿論、徳川軍との戦いに備えるために。  この動きに、家康が黙っているはずもなく家康は、直ぐ様、豊臣方に使者を遣わした。  「何故、浪人をそんなに多く雇っておる。戦でもお考えか。もし、そのつもりでないとしたら、秀頼が大坂城を退去して大和か伊勢に移ること、もしくは集めた浪人の軍勢を解散・解雇することを命じると告げたはず」  しかし、江戸幕府と家康に対する敵意を募らせる豊臣方では、この命令を無視。更に軍勢を掻き集める行動に出た。これを知った家康は、「してやったり」と、にやりと笑い、決起する。  「難攻不落の大坂城もいまは、裸同然、叩き潰してやるわ」  1615年4月4日には「四月五日までに淀城に入城せよ」と命を出す。家康は駿府城を18日出て、京都二条城に入った。  秀忠も4月10日に江戸を出て、21日には伏見城に入った。家康は、豊臣秀頼に最後通牒を突きつけるも、それを拒絶され、大坂・夏の陣の口火が切って下ろされた。  家康の動きに対して、豊臣方の動きは、鈍かった。  家康が三月の下旬から動いたのに対して、豊臣方が動いたのは、四月三日のことだった。  夏の陣の軍議は、大坂城千帖敷で開かれた。豊臣秀頼は、家康の横暴を目の当たりにし、今回は、闘志に満ちていた。  「事ここに至っては最早やむを得ぬ。潔く決戦して、雌雄を争い、刀折れ、矢尽きるとも、太閤の子として諸将と共に屍を戦場にさらす覚悟である」 と、決意のほどを顕にした。これを受けて、主戦派の真田幸村が続いた。  「秀頼公が自ら大軍を率いて上洛なされる。そして、二条城を攻略し、伏見の敵を追い落とす。東西の連絡を経たせるため宇治、瀬田の橋を焼き申そう。更には、豊臣恩顧の諸将に檄を飛ばし、兵力を増強し、やがて城南に地の利を占めて大戦を行う」 と、半年前の家康の内通者だった小幡景憲に、急増軍の隙を突かれ、反故にされた新宮行長と似た作戦計画を提案した。  「それこそ正に男の死花ぞ」 と、後藤又兵衛、長曽我部盛親ら歴戦の武将たちが、諸手を上げて賛同。  しかし、織田長頼だけは、心痛な思いでいた。そんな長頼が、唐突なことを言い出した。  「軍には統制が何より肝要である。この際、余が総司令官に就任したい」  これには、一同驚愕至極。冬の陣以来の彼の行動を見ていた諸将たちは、呆れ顔だった。それには理由があった。織田長頼は、淀君の従兄弟にあたる。血筋的には許せる範疇だろうが、皆が知る長頼の見方は違った。  冬の陣の折、有馬豊氏が来襲すると戦わずして撤退。谷町口の攻防戦でも病と称して兵を指揮しなかった。悪い噂や行動に事欠かない。遊女を(はべ)らせていたらしい…遊女を赤備えに武装させ、大勢の番兵を率いて城中を巡視して、眠っている者を斬り捨てたという。  自分自身の怠慢ぶりを棚に上げ、傍若無人の振る舞いで、味方の戦意を殺いでいた。加えて、家康の内通者だった小幡景憲が、信頼できる者のみ残そう、 と兵力を削減させる和議に一役買っていた。さらには、飽く迄も噂ではあるが、片桐且元の駿府行きを理由に秀頼を追い出した後、従兄弟の織田信雄を大将に担いで、織田家再興を企てていた、という風聞まで飛び出す人物だった。夏の陣に際して、豊臣秀頼、真田幸村らの言動に士気上がる最中に淀君の従兄弟である織田長頼が、唐突に総大将を名乗り出た。  「何をほざくか、身の程を知れ!」 と、誰もが口に出すような人物の奇行だった。すると、不穏な空気を悟った長頼は機微を返すように言い放った。  「信長の甥である余が総軍を指揮するのに何故いけないか、それなら余が城にあっても仕様がない」  そう言って、激怒したふりで席を立ち、そのまま京に脱走した。さらに千利休の高弟・七人衆の一人でもあった茶人・織田長益である有楽斎長益も逃走した。彼らにしてみれば、そもそも織田家の家臣である。豊臣のために、命を掛ける必要があるのか、馬鹿馬鹿しく思えても仕方がなかった。ましてや、籠城に堪えない城、半減した兵力、それこそ素性の知れない雇われ兵が派閥を築く中、勝ち目のない戦い。  総大将の提言も、長頼なりの小芝居で、面子を潰されたことで、大義を立て、己の保身を保ったのに過ぎなかった。有楽斎長益も師である千利休を死に追いやった豊臣への恨みこそあれ、恩義もなく、これ幸いと長頼に便乗したものだった。身内に見捨てられ、逃げられる虚しさ。その虚無感から淀君は、半狂乱となり、床に伏す有様。  秀頼の動揺も軽いものではなかった。織田家の血筋の者の相次ぐ逃亡。死花を咲かせると誓った兵たちの心意気は、立ち向かおうとする敵の大きさを改めて思い知らされ、意気消沈の空気を漂わせていた。  「これでは、どうにもならぬ。仕切りなおそうぞ」  秀頼は、揺らぐ気持ちを沈めるように、決戦予定地を一巡し、兵たちの士気を高めつつ、自らの決意を強めていった。手薄な京都進撃の兵達を、秀頼自ら見送った。前衛に後藤又兵衛、木村重成、続いて金瓢の馬印に愛馬太平楽に跨った秀頼公。中軍には真田幸村、長曽我部盛親。後衛に大野治房、新宮行朝らが住吉神社から天王寺、岡山一帯の地形を一見して帰城。その夜は、全軍に豪勢な酒肴が振舞われた。  少しは気焔(きえん)もあがったが、兵力は冬の陣の半数にも満たないものであり、大野治房は、宴会の片隅でひとり悩んでいた。  「大義のために、親を滅ぼす」  財政難を理由に、兵力増強に反対する、兄・治長。治房は大義のためならば、「兄・治長を暗殺してでも、将兵を掻き集めようぞ」と、悲壮なほど、追い詰められていた。    大野治房が悩むのと同じく、秀頼も亦、育ての親の片桐且元、母が誇りとする織田一門の逃亡とも取れる離脱に心を痛めていた。  いま、頼りになるのは、真田幸村や後藤又兵衛などの豊臣恩顧の武将達。  秀頼は、その者たちに直面する戦いの見込みを聞いてみた、すると「二十万の関東勢に対し、裸城と僅か五万の兵では…」と、皆が落胆の色を隠せないでいた、それが現実でだった。  秀頼は、窮状打開の手として、自ら筆を取り、故太閤と縁の深い浅野長晟に参戦を要請した。しかし、今では浅野長晟は家康の婿。その文を読むにつれ、長晟の顔は見る見る紅潮した。  「何と参戦せよと申されるか、馬鹿げたことを。今の大領主となれたのは、家康公のお陰なり。秀頼殿、血迷ったか」  家康の気性を思えば、反逆児とも成り兼ねない秀頼からの接触に浅野長晟は、躊躇うことなく、使者をその場で切り捨てた。  浅野長晟は、冬の陣の和睦後も、家康から北山一揆の徹底討減を厳命され、熊沢兵庫に兵を増派していた。熊沢兵庫は、北山、西山郷一円の残党を追求。主要な人物の首級数十を若山にいた浅野長晟に送り、鎮圧の報告とした。それを聞いた家康は、熊沢、戸田らに恩賞を与えるほどに上機嫌。  しかし、その裏では湊、津守ら残党の多くは、巧みに追手の目を逃れ、大坂に帰り着いていた。逃れた者から、まだ多くの同士がいることを聞いて、豊臣方の大野治房は、  「これで、秀頼様の許しを得て、作戦を敢行できる。今となっては、許してくだされ、(新宮)行朝殿。あの時、(小幡)景憲にまんまといっぱい食わされ、そなたの意見を取り上げなかった。本当に申し訳ない。そなたの作戦をいま、この治房が、敢行致しまする」 と、喜ぶと共に希望の膨らみを実感していた。  四月二十六日の夜、突如、暗峠を(おびただ)しい篝火(かがりび)で血塗られた。闇夜の炎花(ほのうばな)に度肝を抜かれたのは筒井定慶陣営だった。  「大変で御座います定慶様。峠を大坂勢と思われる大軍が迫ってきております」  「な、なんと、大野治房か…。おのれ~豊臣方への参戦要請を断った仕打ちか」  大野治房軍は、大和郡山城(一万石)を一機に包囲した。大野軍は、城下町に火を放ち、退路を絶つ作戦にでた。  「このままでは、太刀打ちできませぬ。敵は二千余りの軍勢、当方は与力三十六騎。これでは、戦いようも御座いません」  「うむむむ」  筒井定慶らは、たちまち臆病風に吹かれ、戦わずして、大和郡山城を放棄し、逃亡。定慶らは、福住城に落ち延びた。  大和郡山城は、大野軍の箸尾勢によって、攻略された。その勢いのまま大野軍は二十七日には、東北の村々を焼き立て、次に奈良を目指した。それを知った奈良の町人たちは、地に足つかず大騒ぎ。  「これは一大事。手立てを打たねば、この都が大変なことになる」  町人衆は、長を立て、焼き討ちせぬように直談判を試みた。それこそ、命懸けの申し立てだった。名酒十樽を献じて、「何かとご勘弁を」と懇請(こんせい)するのが精一杯。大勢に綻びなしと悟るとその足で恐怖の余り、春日山に逃げ込んだ。  秀頼の大坂勢の勢いは、目を見張る物があった。この勢いのまま秀頼が大軍を率いて上洛して、京、伏見、奈良を一時的にも制圧するのは容易なものに誰の眼にも見えた。  その頃、家康は、大坂城一点に目標を絞っていた。豊臣方は、周辺を制圧することにより、家康軍の合流路を断ち、兵力を押さえ込めれば、また朝廷への申し入れで、存続の道を手繰り寄せるられると考えていた。  織田一門の裏切りがなければ…、士気の低下がなければ…、軍配の行くへは変わっていたかも知れない。  僅かな綻びが、勝機を決める。大事の前の小事、その小事を見極める目が、武将の資質を顕していた。  戦わずして大和郡山城を放棄し、福住城に落ち延びた筒井定慶は、後に自らの逃亡を恥じて、切腹した。しかし、そ真意は闇に葬られた。一説には、福住村に逼塞したとも伝えられている。武士として恥ずべき行為。それに対して家康が見向きもしていない。ましてや不自然なほどの敗退。それもその筈、実は、家康が豊臣方の出方を見るために、家康の指示による、仕組まれた敗退だったからだ。それは、筒井定慶の辞世の句に見え隠れしている。  「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな」  後に、筒井家は、尾張国に行ったとも言われている。  では、なぜ筒井家は、捨て駒のように扱われたのか?。   それは、冬の陣にまで遡る。冬の陣の折、大坂勢が射放った矢の中に、筒井の紋の入った矢があったのが理由だった。用心深い家康は、筒井家への疑心を深めていた。これを知った者たちは、筒井家に深く同情する者もいた。郡山城を攻略した箸尾勢の細井兵助もそのひとりだった。  箸尾勢には細井以外にも筒井家の旧臣が多く参加していた。郡山城の城下町を焼き立てたのも、大袈裟にし、「逃げるのも仕方なし」と思わせる温情から来るめくらませの可能性が否めない。勿論、家康の指示によるかは定かではない。二千の兵力と与力三十六騎。圧倒的な兵力の差がありながら、見す見す城主を取り逃すはずもなく、火事の喧騒を利用して、逃したのではないか…。筒井定慶のその後が不明瞭なのは、幾多の思惑が交錯しての出来事だった。  四月中旬、大野治房、新宮行朝は、極秘で後藤又兵衛と真田幸村を呼び寄せた。  「今度の戦いは、思い切った詭道(きどう)を取らねば万に一つの勝算はない。そう考えている。そこで、秀頼様に郡山城攻略の承諾を得たが実は…」  大野治房は、すくっと立ち上り背中を向けた。  「実は、なんで御座りまするか?」  幸村は、目を輝かせ、期待感を滲ませていた。  「ここからは私目がお話申す」  話を引き継いだのは、筒井浪人だった。浪人は、秀頼が難色を示すのに悩む治房の心境を察し、自らの考えを述べ、士気を削がれるの阻止しようと語り始めた。  「この流れで一機に、伊賀上野を落とし、更には家康、秀忠出陣後の伏見城、二条城を焼き討ちにするつもりで御座る」  「それは面白い」  「既に古田織部(茶人大名)らに承知して頂き、家老・木村宗喜を将とする五百余人で留守の伏見城・二条城を焼き討ちして頂く」  「ほーそれでそれで、我らは何を致せばよいのか」  背中を向けていた大野治房が振り返り、浪人の配慮に意を決した。  「後藤殿、真田殿には、大坂城から精鋭二万の兵を率いて、迫り来る家康、秀忠を挟み討ちにして頂きたきたい」  「それは、痛快で御座いますなー」  「ほんに痛快で御座る。奇襲作戦は、是非とも身共らに」  「おお、しかとお引き受け致しまするぞ」  又兵衛と幸村は、満面の笑みでお互いに見合わせ、胸を躍らせていた。  古田織部の次男・九八郎は、秀頼の寵臣として仕え、織部の娘は、新宮行朝の妻だった。それだけに今回の家康の余りに卑劣なやり方に我慢ならず、古田一族を挙げて、太閤の恩に報いることを約束していた。そこに吉報が入った。  「取り急ぎ、ご報告申す。大和郡山城を攻略。上野も同夜決行の予定であったが、折り悪く大雨のために二十八日夜に伸ばすことに致した。しかし、成功は疑いなしと信じ申す」  その知らせを受け、一段と大野治房らは、勇み立ち地元郷土と呼応して、東軍の先鋒として佐野を目指している浅野勢・五千を潰滅させようとした。 二十六日深夜  治房は、塙団右衛門、新宮行朝らの勇将と共に出撃。一方、後藤又兵衛と真田幸村は、家康・秀忠の首を討ち、一挙に勝利を手に入れんと、綿密に偵察活動を展開していた。出撃前夜、新宮行朝の心は高ぶっていた。  「裏切り者は全て去った。今、将兵の団結は固く、雄心まさに勃々」  これが成功すれば、戦局は一変する。その手応えを新宮行朝は、噛み締めていた。  後藤、真田らの偵察活動は、柳生十兵衛ら伊賀・甲賀の謀略部隊に「動きあり」を印象づけた。  不穏な動きありの情報を得た柳生十兵衛は、直ちに謀略部隊に情報収集を強化させ、敵方の泣き所を探った。  世に出せぬお家事情、不義密通、借金、何でも良かった。火のない所に煙は立たず。非がなければ、非へと誘う。噂をばら撒き煙を立てて追い込む。手段は、選ばなかった。  情報に基づき、関わりある人物を洗い出した。その結果、浮かび上がってきた人物がいた。それは、御宿勘兵衛だった。  御宿勘兵衛は、豊臣秀頼から、戦に勝ち天下を取り戻せば、越前一国を与える、との書付を貰っていた。気を良くした勘兵衛は、この時より、越前守を名乗っていた。御宿勘兵衛は冬の陣において、蜂須賀への夜討など、大いに活躍していた老将だった。御宿勘兵衛は、行灯の明かりの元、書物を読んでいた。その時だった。  「御宿勘兵衛殿とお見受け致しまする」  どこからか、声がした。  「何者ぞ」  と、辺りを見渡したが誰もいない。天井を見ようとした時、再び声がした。  「そのまま、身動き、なさりませぬように。動かれればお命なきものと、お覚悟なされよ」  「そなたは何者じゃ」  「私は柳生十兵衛と申す」  「何と柳生十兵衛とな」  「名を明かした以上、返答次第ではお命、頂き申す」  「こんな老兵の命を奪って、何の得があると言うのじゃ」  「問答を繰り返している時間はありませぬ。単刀直入に申し上げまする」  「なんじゃ」  「御子息が、江戸で禁獄され申した」  「なんと」  「御子息の身元が明らかになり、即刻、斬首のご沙汰が出る次第」  「それは…なんとか、助けられぬのか」  「それには、それ相応の見返りがなくてはなりませぬ」  「ご覧の通り、金数などは用意できませぬ」  「そのような物は要りませぬ。金数目当てであれば、勘兵衛殿を松平忠直様に引き渡せば良いだけ」  「それは、どういうことか」  「勘兵衛殿が越前守を名乗っているのを忠直様がお知りになり、大変なご立腹のようす。勘兵衛殿の首に五万石の賞金を出されておりまする」  「そのような…それは誠か?」  「誠で御座います」  「そのようなこと…」  「ですから金数などお気遣いなきように。勘兵衛殿の首を差し出せばよいことですからな」  「ならば、この老兵に何を求めると言うのじゃ」  「はっきり申し上げます。大坂勢の動きを然るべき所で、然るべき方に明かして頂きたい」  「なんと、私は何も知らぬ、買いかぶるのも程になされよ」  「そのようなやりとりは、御無用になされよ。こうして、私が出向くは、確信があってのこと。調べはついておりまする」  「…」  「勘兵衛殿の面子も御座いましょう。一晩、お考えになり、明日、早朝に京都所司代の板倉勝重殿をお尋ねくだされ。それを見届け次第、御子息のご沙汰を憂慮致しましょうぞ」  「京都所司代へ参れと申すか」   「はい」  「そのような、まどろっこしいことを言わず、そなたが今ここで聞けば良いではないか」  「お話頂けるのですか」  「それは…」  「これでも私なりに敬意を表しているつもりで御座います」  「敬意とな」  「家康様がこうおしゃっておりました。大坂勢で侍らしいのは、後藤又兵衛とあなただと。その敬意で御座います」  「家康公が…そのようなことを」  「後は貴殿にお任せします。一晩ごゆるりとお考えくだされ」  御宿勘兵衛は、徐に立つと障子を開け、中庭に目をやった。獅子落としの水たまりに月が、映し出されていた。その月をしばし見つめて、天を見上げた。月は、凍りつくような光を放ち、何事もないように、静観していた。  「十兵衛殿、月が美しく御座るぞ」  その問いかけは、虚しく夜風に(さら)われていった。  二十七日早暁。  大野治房は、塙団右衛門、新宮行朝らの勇将と共に出撃。一方、後藤又兵衛と真田幸村は、家康・秀忠の首を討ち、一挙に勝利を手に入れんと心が高ぶっていた頃、御宿勘兵衛は、京都所司代の前にいた。  周りを見渡しても、誰もいなかった。しかし、十兵衛は言っていた。見届ければ、ご沙汰の停止を進言すると。大きく息を吸い、意を決して門を潜った。  「頼もう、御宿勘兵衛と申す。板倉勝重殿に、お目通り致したい」  板倉勝重は、何も聞かされていなかった。勘兵衛は、昨夜のやりとりを、十兵衛から固く口止めされていた。捕縛し、自白させるより、自らが出向き、告白する。そうしなければ、家康からの好印象を得られないと、十兵衛の考えからだった。勘兵衛は、十兵衛の心使いに感謝し、約束を守ることにした。驚きつつも板倉は、冷静に勘兵衛に自分の所に来た仔細を聞いた。  「私は子にほだされてここに参った。私の子が江戸で放埒な事を仕出かし、禁獄されたと聞き及んだ。どうか我が子をご赦免頂きたい。その為に私は、侍として相応しくないことをこれより述べ申す」  「はてさて、何で御座いましょう」  「大坂勢の動きで御座います」  「何と」  板倉は、体が震え、驚きを隠せないでいた。そんな板倉を尻目に、御宿勘兵衛は坦々と話始めた。  「明日二十八日、家康公、秀忠公の両御所様が、京より大坂に向けて御動座なされると聞く。これにより防御が手薄になった所を、大坂方は古田織部と申し合わせ、京、伏見を焼き払う計画を立てている」  体の震えが止まらなかった。突然、現れた御宿勘兵衛の告白によって、京都所司代・板倉勝重は、驚嘆の時を過ごしていた。 「秀頼公より過分の御恩に預かっておりながら、このような密告をするのは武士の本意でないこと、よく存じております。しかし、これは我が子を救いたい一心でのことで御座いまする」  御宿勘兵衛は、正座した袴の膝頭を強く、握り締めていた。その拳は、しわがれながらも、板倉には、赤鬼のように思えた。  「勘兵衛殿のお心、お察し申す。御子息の事は、私から家康様にお伝え申し、願い叶うよう、取り計らいましょうぞ」  「(かたじけ)なく、存じまする」  そう言うと、御宿勘兵衛は、その場に泣き崩れた。板倉は、その姿を見て、勘兵衛の密告を信用に値するものと確信した。勘兵衛を京都所司代で丁重に匿うよう家臣へ支持を出し、直ぐ様、家康の元へ早馬を飛ばし、馳せ参じた。  「大変で御座います。取り急ぎお伝えしたき事が御座います」  「何事ぞ、勝重」  家康は、板倉から事の次第を聞き、血の気が一機に失われた。直ちに、家康は出兵の中止を命じた。次いで、柳生十兵衛の率いる謀略部隊に探らせていた大阪勢の動向を元に、伊賀城下の二十余人、二条城、伏見城を狙っていた古田勢の五十余人を一網打尽にすべく、厳命を出した。  それを聞いた藤堂高虎は、驚愕しつつも、直ぐ様、伊賀上野に部隊を走らせ、辛くも全員を捕らえた。古田家の家老・木村以下も間一髪でことごとく検挙した。  「これにて、天運、尽き申したか」 と、古田織部は、無念の涙を飲んだ。  京都所司代・板倉重勝は、御宿勘兵衛の身を案じていた。  「家康様、この度の危機回避、御宿勘兵衛殿の大義で御座います。何卒、何卒、寛大なご配慮をお願い申し上げまする」  家康は、不思議と、勝重の訴えが心地よいものに思えていた。敵方の突然の申し出をここまで信じるには、ふたりのやり取りが尋常ではなかったのに違いなかろう。もちろん、柳生十兵衛から、ふたりのやりとりは、聞き及んでいた。十兵衛とて、勘兵衛が寝返るという確信などなかった。また、勘兵衛の願いを勝重が真摯に受け取る、かもだ。十兵衛は、勘兵衛に掛けていた。  勝重の心を打たねば、情報の真実性に影を落とす。そう十兵衛は考えていた。勘兵衛の悲哀は、見事に勝重の心を打ち抜いた。その願いは、子を思う親の心を改めて思い起こさせるものだった。  親子、兄弟であっても、無情に戦わなければならない戦国の世。凍りつくような戦国の世の中を、一縷の熱き川のように、不信感を無条件に払拭させる血の通ったやりとりだった。  感化された勝重の熱意は、家康の心にも充分に浸透していた。お家の為とは言え、今は敵方の大将となった豊臣秀頼に嫁がせた千姫のことを重ねたからだった。  「御宿なら小田原にいた頃から存じておる。この度の忠節、息子だけでなく御宿本人も許し、このまま我が陣に留まり、奉公させよ」  「寛大なご判断、悼み入りまする」  その言葉を胸に抱き、板倉勝重は、急ぎ、京に戻った。  「御宿勘兵衛殿、この度は大義で御座った。家康公におかれましても、事の次第ご理解頂き申した。付け加えて、お許しのみならず、そなたの身を案じ、このまま奉公致されよ、と申されておりました」  「うむ…。お気遣いは有り難いが、これでも私は、秀頼公より深い恩顧を頂いておる。この上はせめて秀頼公のため、この身を捨てるしかないかと…。願わくば、私の代わりに息子を召し抱えてやって頂けないか」  「うむ、容易い事。しかし、それで宜しいのかな」  「この通り、お願い申す」  勘兵衛は、深く頭を沈めた。  「しかと、しかと、お聞き申した」  板倉は、これからの勘兵衛の立場を思うと、目頭が熱くなった。裏切り者となっても、恩顧を重んじる。この門を出れば、また敵側の者として合間見れることになる。それを承知の別れだった。  勘兵衛は、息子の身を案じながら、重き足取りを伴って、大坂へと帰っていった。  その年老いた背中は、悲哀の重圧に押しつぶされん如く、小岩のように勝重の目には映っていた。  五月七日、御宿勘兵衛は、天王寺・岡山合戦で、最後の忠節を全うし討たれ、帰らぬ人となった。  かつて豊臣に仕え、藩政が意に沿わぬと浪人となった気概のある人物。  しかし、再度、高待遇で取り上げられるも出る杭は反感と妬みを買うもの。うつつを抜かし、松平忠直の怒りを買い、多額の賞金を掛けられる嵌めになるとは夢にも思わなかった。末路として、敵方ではなく、怒り収まらぬ、越前松平家の手の者に打たれるとは、天罰?いや、因縁の成せる態か。  一方、御宿勘兵衛によって、計画が露見された新宮行朝は仕方なく、山口など周参を兼ねて、気落ちする遊撃隊を励まして廻った。その後、落胆の色を隠せない大野治房と大坂へと帰った。帰坂した行朝を待ち受けていたのは、「伊賀上野、二条城焼き討ち計画が露見し、伊賀、木村以下五十余人が捕まり、茶道大名の古田織部父子も伏見に曳かれた」という悲報だった。  家康の指示を受けた京都所司代・板倉勝重は、柳生十兵衛と忍びの者を中心に情報収集の網を張った。それを元に、計画に携わった浪人たちを、徹底的にあぶり出し、遺恨、残すは宜しくないと、容赦なく、粛清を行った。  二十八日、家康、秀忠が、京より大坂に向かう。  豊臣方の計画では、手薄になった京、伏見を、大坂方は古田織部と申し合わせ焼き払い、上洛案を拒まれた新宮行長の起死回生を狙う策だった。義父・古田織部を口説き落とし、ようやく掴んだ計画だった。それだけに軍略家の行長の落胆は、お押して図らずや、の状態だった。  「もはや人力ではどうにもならぬ、豊臣家の式運の尽き」 と長い溜息を漏らすしかなかった。折角、占領した郡山城の箸尾勢に豊臣方は使者を送らざる得なかった。  「作戦を中止して帰城せよ」 と、言う悲痛な指令が出されたのは、四月二十九日のことだった。  二千の将士は、断腸の思いで足取り重く、帰路に就いた。  元和元年(1615)四月末日、企てが露呈し、全てが白紙に戻された秀頼は落胆の中、諸将を集め軍議を開き、意を決した。  「城は、濠を埋め立てられ裸城となった。今となっては籠城は出来ぬ。さりとて、広大な野戦で大軍を相手にしては、勝算は乏しい。残るは、地の利を活かして戦う策のみ。家康は、冬の陣と同じく大和路から来るであろう。我が軍は、国分の先の天嶮で迎撃すべし」  この決意は、後藤又兵衛の読み。秀頼の意を補足として引き継いだ。  「籠城は不可能。敵は大和路から大坂城南を目指してくるだろう。亀瀬・関屋を抜けてきた徳川軍を国分辺りで叩く。山地の狭いそこを利用すれば十中の内、七・八は勝つだろう。先頭を破れば、後ろの隊は郡山に退くはず。その後のことはまたそこで考えれば良い」 というものだった。  徳川軍の襲来間近の大坂城で行われていた軍議は、白熱していた。  真田幸村は、大坂城南の四天王寺辺りで、集結した徳川軍を迎え撃つことを主張した。それに対し、後藤又兵衛(基次)は、交通の要所で山に囲まれ道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力を発揮できないようにするのが一番、と譲らなかった。結局、幸村は、冬の陣で又兵衛から真田丸の陣営を譲ってもらった恩もあり、又兵衛に同意することで、国分方面への出撃を決意した。  前衛は、後藤、薄田ら約六千四百が。本陣は、真田、毛利、福島ら約12.000が。別働隊として、河内街道を南下する敵に備え、若江に木村の約五千、八尾へ長曽我部ら約六千が出撃し、側面を突くことになった。  秀頼は、豊臣の将として陣頭指揮を取り、兵たちを鼓舞した。  「総勢三万に近く、全軍の精兵を傾けての第一決戦と、皆に伝えよ」  5月1日、先ず、前衛の後藤又兵衛と薄田隼人(兼相)、井上時利、山川賢信、北川宜勝、山本公雄、槇島重信、明石全登隊ら約六千四百は、平野に野宿し、本隊を待っていた。  本隊は真田幸村、毛利勝永、福島正守、渡辺糺・小倉行春(作左衛門)・大谷吉治・細川興秋・宮田時定隊、約一万二千は天王寺を目指した。幸村は、家康のいる本陣奇襲作戦を是が非とも敢行する強い意識を内に秘めていた。  「家康、秀忠の動向を詳細に探れ~。本当に本陣に入ったか、どこから入るのか、ふたりが同行するのはいつか、漏らさぬよう綿密にだぞ」   決戦の末路はそう遠くない。現状、不利なのは変わらない。  「窮鼠猫を嚙む」か…。もはや合戦に興味はない。目指すは家康と秀忠の首の身み。そう決意を固めた幸村は、自らの忍び隊を八方に手配し、万全を軋た。その意気を抱いて5月5日、幸村と勝永の二人は、又兵衛の陣を訪れた。  「道明寺で合流し夜明け前に国分を越える。狭い場所に誘い込み、大軍を分散させる。兵力を削いで、それを討つ」  「徳川軍を迎え討つ、これは、武者震いが致しまするな」  「おー、我ら三人が死するか、家康・秀忠の首をとるか、どちらになるにせよ、思う存分、闘うまでよ」 と誓い、訣別覚悟の盃を酌み交わした。  一方、徳川軍は、水野勝成を総大将とする大和路方面軍先発隊、約三千八百が5月5日の申の刻(午後4時頃)には国分に着き、宿営した。  「勝成殿、陣営は、この先の小松山に置くのが良いかと」  「小松山を陣営にすれば、狭き場所ゆえに敵襲を支えることは難しゅう御座るぞ。このまま国分に陣を敷、もし敵が狭き道の小松山を取ったのなら、回り込んで挟み撃ちにしようぞ」 と、水野勝成は、諸将の意見を一蹴した。夜になると、伊達政宗軍一万、本田忠政軍五千、松平忠明軍三千八百が到着した。勝成の意向を知った政宗は、家臣の片倉重長に  「小松山の山下に一隊を伏せさせ、夜通し警戒なされよ」 と、指令を出した。この頃、この隊の後列である松平忠輝軍の一万二千は、まだ、奈良にいた。5月6日、子の刻(午前0時頃)、豊臣方、後藤又兵衛隊、二千八百は平野を出発し、夜明け頃には藤井寺に着いた。そこで、真田幸村隊らと合流する手はずだったが待てども、全く現れる気配がなかった。  実はその頃、真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人が大半で行軍に慣れてなく、大幅に足並みが遅れていたのである。  「遅い、遅いぞ。真田隊らは何をしておる。このままでは勝機を逃すではないか」  後藤又兵衛は思案し、決断を下す。  「このままでは勝機を逃す。我らは、真田隊らを待たずして、誉田経由で道明寺を目指そうぞ」  ここで又兵衛は動いたことで、敵方徳川軍が国分まで進出していることに気づく。それを見て、又兵衛の隊は、石川を渡ると水野勝成が避けた小松山を占領。寅の刻(午前4時頃))には、片山方面から攻撃を開始した。  一方、水野勝成が率いる徳川軍も丑の刻(午前2時頃)には、後藤隊を発見し、動向を監視していた。それを知らない徳川方、奥田忠次軍は未明に小松山を登ろうとした所で、後藤軍と衝突、激しい銃撃戦が勃発した。徳川方、豊臣方の戦いの火蓋が切って降ろされた瞬間だった。  地の利を得た後藤軍は、その勢いで奥田忠次を討ち取った。続いて北から攻撃してきた松倉重政軍と衝突。松倉軍は、後藤軍の平尾久左衛門ら200を討ち取った。  しかし…。  松倉軍も力尽き、全滅の危機に晒されていたが、徳川方の水野勝成・掘直寄が援軍として駆けつけ辛うじて、松倉軍は救われる。  後藤軍は、山を下り銃撃戦に切り替えた。それを受けてたったのが伊達政宗軍だった。政宗は、予め伏せさせていた片倉重長隊を起き上がらせ、銃撃戦に応戦した。  辰の刻(午前9時頃)、伊達政宗本隊も小松山に登り攻撃に参戦。次いで、松平忠明軍も東からの攻撃を始め、山を駆け登った。  徳川方の猛攻撃にあい、後藤軍の先鋒隊は壊滅。後藤軍は隊を立て直しつつ徳川軍を撃退し、70~80人を倒した。しかし、北・東・南の三方向から迫り来る十倍近い敵を相手に苦戦は、余儀なくされた。  「うぅぅぅ。もはや、勝ち目はない」  そう悟った後藤又兵衛は、究極の決断を下す。  「死にたくない者は今から去れー」  又兵衛は、勝敗が軋た今、無駄死にを好まなかった。しかし、又兵衛を慕う兵達の殆どがその場に留まった。  「有り難き者達よ。ならば思う存分、戦おうぞ」  又兵衛は、最後の戦いと受け止めつつ、徳川軍の手薄の西を下って、平地に出ると、隊を二分し、徳川軍に突撃した。捨て身の後藤軍は、徳川軍1~2隊を打ち破る。一息もつかぬ間に後藤軍は、丹羽氏信軍に側面を攻撃され、対陣をあっさり崩されてしまう。再度、分断された隊陣を立て直そうと奮闘するも伊達軍の数千もの鉄砲隊の前には、風前の灯火である事には変わりなかった。後藤又兵衛自身も、隊を立て直す為、先頭に立った際、鉄砲隊に胸を撃たれ負傷。倒れこむ又兵衛を近くにいた金方某は、連れ去ろうとするが重たくて動かせない。最後を悟った又兵衛は金方某を案じ「構うな、首を刎ねろ」と、金方某に命じた。  死して恥を晒すより、首を刎ね、身元を隠蔽することが、又兵衛を守ることと金方某は、自分に言い聞かせ、無念の思いで又兵衛の首を刎ねた。その首を陣羽織に包んで、涙ながら土に埋めた。  牛の刻(正午)、将を失った後藤軍の残党)が道明寺方面へ退却するのを追って、徳川軍も川を渡り、追撃した。  後藤隊の敗残兵を収容したのは、豊臣軍の第二軍だった。第二軍には、薄田兼相(隼人)・井上時利・山川賢信・北川宣勝・山本公雄・槇島重利・明石全登隊がいた。第二軍に助けられた後藤隊は、追ってきた徳川軍も連れてきた。薄田兼相は誉田で徳川方・水野勝成軍と戦い討ち死に。井上時利も討たれた。  「見よ、豊臣方が撤退を致すぞ」  「この期を逃すではない。一気に討ち倒しましょうぞ」  「おおー、この期を逃すべからず、攻めるぞ」  「そうだ、一網打尽じゃ、攻めて攻めて攻めまくれー」  徳川軍の水野勝成、松平忠輝、一柳直盛、本多忠政らは、一斉攻撃を勝機と捉えて強く主張した。  「いや、待たれー!」  意気上がる将を怒涛のごとく、引き止めたのは、伊達政宗だった。  「このまま、深追いすれば、我らにも多くの犠牲者が出る。見よ、朝から戦い、兵たちの疲れは尋常ではない。ここは、兵たちの回復を一番と考え、我らも、体制を立て直すのが、次なる戦いを有利にするものぞ」 と、政宗は、断固、追撃を拒否した。  それを聞き、改めて冷静に本多忠政らは、意気上がる気持ちを抑え周りを見渡せば、兵たちの疲労度を改めて思い知り、酷使できぬは必定かと、思えた。結局、幾多の戦場を指揮してきていた政宗の判断に、諸将は、渋々ながらも従い、追撃を諦めることとなった。  豊臣軍敗北の伝令を出す羽目になった八尾・若江の戦いとは…。  豊臣方・木村重成隊四千七百兵は、霧の道明寺方面から激しい銃声が轟く中、闇夜の中をか細い提灯の灯りを頼りに進軍していた。玉串川に陣営を敷いたのは、日の出間近だった。一挙に家康本陣を突き、死に花を咲かさんと覚悟し、敵を待った。  河内口の徳川軍は総勢十二万の大軍。重成の判断通り、前夜、家康は星、秀忠は砂田に泊まっていた。夜明け前には、国分方面で銃声が轟き、八尾・若江方面でしきりと人馬の土を駆ける音が響き渡っていた。  藤堂高虎は、徳川秀忠の指令を仰ぐ為、砂田に向かった。その時、運命の悪戯か霧が晴れたのだ。そこで高虎が目にしたものは、八尾・若江一帯の豊臣方が、徳川方の側面を突かんとする姿だった。直ちに高虎は、右先頭の良勝、高吉や氏勝、左先頭の高刑ら藤堂勢に指示を出した。  「これより、右転し、あの敵方を攻撃致す!」 と命じた。藤堂勢の戦力は、部将、騎士将校440、鉄砲隊士500、弓50張、総計五千。鉄砲の数は、豊臣方・木村重成隊の倍であった。  木村重成もまた、若江の本陣から藤堂勢を見ていた。  重成は隊を三分して、右翼隊は藤堂勢に備え、本隊と左翼隊は、十三街道を進んで来る井伊直孝隊三千八百への攻撃に備えていた。圧倒的に不利だった右翼隊だったが、死を覚悟した意気込みが藤堂良勝以下の大半を討ち取った。  「勝ち運は我らにあり、これを逃すまい、進撃じゃー」  「いや、待たれー、進撃はならん。勝ち続けるためにも、ここは、午後からの決戦の為、体を休めることよ、休息じゃ、休憩致せー」  重成もまた深追いは危険なものである事を経験から知っていた。気の流行るに任せて好き進めば、墓穴を掘る事を。ここは、無理をせず、確実な戦いを優先させた。  木村隊に続き、久宝寺から八尾を目指していた長曽我部盛親隊六千は、藤堂勢が迫るのを見て、長瀬川堤に兵を伏せさせ、槍を備えて、待ち構えた。  八尾一帯は冬の陣で豊臣方によって焼き払われ、僅かに家康の侍僧・金地院崇伝ゆかりの地蔵堂(常光寺)だけが焼け残っていた。  戦いの中心は、長瀬川と地蔵堂で、展開。  長曾我部盛親勢の先鋒を鉄砲隊で撃破した藤堂高刑は、その勢いに乗じて、残りの盛親勢を追撃。そこにいたのが、長瀬川堤に伏せて待つ盛親勢だった。目先に目を取られ、足元に気を配ることはなかった一気盛んな藤堂高刑隊は、足元から一斉に槍で突き上げられた。真っ先に討たれたのが、元、盛親の家臣だった桑名一考だった。  藤堂勢は、高刑、氏勝以下、多数を失い敗走する嵌めに。高吉らは、本隊から遠く離れた地蔵堂で孤立していた。  大坂勢は藤堂勢の名のある将6人、騎馬60、兵200余りを討ち取った。更に藤堂の援軍も打破し、長瀬川堤上で凱歌も高らかに午後の戦いに備えていた。  午後の緒戦で木村隊らは、井伊直孝隊3.200の勇将・川手良則、山口嘉平治を討ち取った。しかし、続々と南下してくる徳川勢の大軍に、徐々に押され始めていた。10時間に及ぶ激戦に木村隊の重臣は兵たちの疲れを実感し、敗色を深めていた。  「今日はここまで。明日に備えて城に引揚げを」  「何を申す、家康の首を取るまでは断じて引かぬ」 と、重成は重臣の意見を跳ね除けた。重成は、ここを死に花を咲かせる場所と決めていた。しかし、現実は敗色が色濃く覆い被さっていた。  「うぅぅぅ、ここは、一旦、引けー、引くのじゃ」  部下を苦渋の決断で引かせたが重成の気持ちは治まる事はなく孤軍奮闘で挑んだ。気力に体力が、ついて来ない。振るう刃が空を切る。周りへの注意力が失せていく。不意を衝かれ危うく、痛手を負う危機を幾度となく逃れた。しかし、遂に、力ここに尽きた。  最期は、名も無き若者に首を捧げることになった。重成の首は、出陣前、新妻の青柳が、涙ながらに香を焚きしめた兜に覆われていた。芳香の漂う美しき首を見た家康は  「生かして置けば天晴な名将となったであろうに。何とも惜しい若者を死なせたものよ」 と深く嘆き讃えた。家康は、重成が和議の使者として来たのを覚えていた。  渡辺勘兵衛は、敵を追って辿りついた平野を占領し、この場で道明寺から退却してくる西軍を襲撃しようと考えていた。しかし、これに藤堂高虎は、激しく反対を唱えた。  「兵は疲れておる。深追いなどせず、八尾へ戻られよ」  「あああ、何故じゃ、こんな好機を、みすみす逃せと言うのか」  勘兵衛は、膝を叩き割らんばかりに、悔しがった。しかし、指揮権は高虎にあった。不服でも、その支持に従わざるを得なかった。  夜には渡辺勘兵衛は、地蔵堂の縁に五百余りの敵の首を並べ、悶々とした苛立ちを抑えつつ実見していた。  「敵とは言えこれ程の亡骸を前にすると、我が運命を恨めしく思う」  勘兵衛は複雑な思いで、戦没将兵の冥福を祈り、通夜を営んだ。兜首は取ったものの名のある士はなく、戦果としてはなく不貞腐れていた。  「これ程の思いをして、この成果か。割が合わんわ」  旧知の仲だった高虎は、それを見て気軽に話しかけた。   「こりゃ勘兵衛よ、えらく不貞腐れ居るがのう、年を考えて見よ。互いに六十になろうが。わしも久しぶりに槍を取って泥田の中を飛び廻ったがこれ、この通りじゃ」 と、脚の槍傷を見せて、さらに続けた。  「小事は大事、と諺にもある。襲撃せんとした、あの兵を誰だと思う。あの兵こそが、あの家康公さえ危うかった真田幸村じゃ。なまじ目先の勝ちを誇ってかかって見ろ、今頃はその首が飛ぶ大事に至っておったのに違いないぞ」  「ほーあれが幸村か…」  「そうじゃ、冬の陣で真田丸で我らを手こずらせたな」  「猪口才な…窮鼠猫を噛む、と云うからな」  「口が減らぬのう」  傷を負いながら戦った戦国武将ならではの戒めだった。  伊達軍援軍の参戦を尻目に、西に退去した真田幸村。とは言え、道明寺決戦で一万余りの伊達の鉄砲隊を完敗させていた。  「関東百万の兵の中に一人の男児なきか」 と豪語して悠々と引き揚げてきた真田隊は、天王寺茶臼山に陣を構えた。幸村は激戦の疲れも見せず、将士を労うために陣地を回った。そこに総司令官と云うべき大野治長が、慌ただしく姿を見せた。  「今こそ最後の戦いになろうぞ。そこで皆の意見を聞きたい」  日頃、温和な幸村が、激しい口調で口火を切った。  「最後の決戦となり申そう。なれど敵は、百戦錬磨の老将に率いられた我に三倍する天下の大軍だけに、容易な事では勝利は望めませぬ。その為には是非とも秀頼公の出馬を願い、大馬印を四天王寺の城頭に揚げて、親しく将士に激励を賜る事が絶対必要と思われます。恐らく敵は、天満や船場から攻めず、全軍ことごとく城南の平野方面から襲来する事は必定。よって、我が軍は天王寺、岡山口に集結して、可能な限り敵を手元に引き寄せる。そこを船場に配した明石殿の精鋭が、今宮から瓜生野に潜行し、狼煙を合図に全軍一斉に家康・秀忠の本陣を挟み撃ちにし、両将の首を挙げる策以外に勝算はありませぬ」 と、強く主張した。それに対して笑みを浮かべ大野治長は小さく頷いた。 「流石は真田殿の軍略、確かにその他の方策はありますまい。宜しい、身共はこれより直ちに帰城し、必ずや、秀頼公の出馬を願い申そう」 と、固く約束し、席を立った。真田幸村の挟み撃ちによる家康・秀忠、両将の首を挙げる策に、   「おーおー、これで我らの願いは叶えられるぞ」 と、総司令官と云うべき大野治長も賛同した。諸将も意気揚々、持ち場に急ぎ、戻っていった。   岡山口の総指揮官・大野治房は直ちに配下の部将を集めた。  「みなの者、最後の決戦じゃ。決して茶臼山、岡山口より前に兵を出してはならぬぞ。充分に引き寄せて、一斉に猛撃し、敵本陣を突くのじゃ。諸将はよく軍法を守り、決して勇に逸して、軽はずみな抜け駆けはせぬよう、部下にしかと申し聞かせー。万が一、軍法に背く者あらば、直ちに切って捨てー」  大野治房は、鬼の形相で、自信に満ちた厳命を言い渡した。新宮行朝も最前線の陣地に帰ると、治房の厳命を将士に強い言葉で伝え、聞かせた。  「今となれば、戦機の至るのを待ち遠しい限りじゃ」  諸将も皆、同じ気持ちで、機運は高まりを見せていた。この頃、家康は、松岡を出立して道明寺戦跡を見て、平野へと進軍していた。  「茶臼山には儂が参ろう」  茶臼山は、最も難戦と思われる戦場だった。用意周到な家康は、「万が一、自分が討たれても秀忠がいる」そう自分に言い聞かせ、自らがその難所に出向くため、桑津に向かった。  一方、西軍は隊伍整然と開戦の時を待っていた。だだ、豊臣秀頼の姿はそこにはなかった。大野治房・真田幸村らの悲願虚しく、つむじ風。  家康は常に、秀頼出陣による結束強化を警戒していた。  「半蔵、本腰を入れたはずの秀頼は、まだ、出馬しておらぬのか」  「そのようで、御座います」  「あ奴、戦いを前に怖じ気づきよったか」  「それは何とも…」  「まぁ良い。奴に使者を出せー。いま、講和に応ずるなら、国、二つを与えるとな」  側近にそう指令を出すと、不敵な笑みを浮かべた。家康は、戦い回避の救いの手は施した。それに従わぬは、豊臣方に非がある。万が一にも、講話に応じてくれば、それこそ、豊臣の終焉を天下に知らしめることになる。  兵力で優勢に立つ家康は、豊臣方への牽制を怠らなかった。自分にとっての利益、相手を追い込む術を、幾多の戦いで家康は、学んでいた。  一方、焦りの色を隠せないでいたのは豊臣方だった。  「秀頼公はまだか」  痺れをきたした幸村は、秀頼公出馬の要請を長男・大助に託した。  「父上、大助は父上と共に死にとう御座います」  「よく、言ってくれた。父は嬉しく思うぞ」  「ならば、父上…」  大助は大粒の悔し涙と嗚咽を漏らしながら、言葉を絞り出していた。  「だからこそ、重要な役目を申し渡すのじゃよ」  大助の気持ちは、幸村には頼もしくも、また、これからもある若い命を無駄とは言わぬが討ち捨てるような決意に悲壮感と一種の憐れみを感じていた。  最後になるやも知れぬ大助の姿を瞼に焼き付け、大助の肩に手を置き、諭すように優しく言った。  「いくがよい、大助。必ずや秀頼公にご出馬を願うのじゃ、頼んだぞ」  幸村は大助の無念さを心に刻み込んでいた。息子と力尽きるまで戦う。武士身寄りに尽きる思いを抑え、秀頼の傍でその思いを遂げることを願った。大助もまた父の瞼の奥の決意が痛いほどに沁みてきていた。  「承知…、必ずや秀頼公の御出陣を叶えると共に、お守り致しまする。父上におかれましては、心置きなく…、家康の首を討たられることを…、では」  大助は、自分自身の気持ちを強靭な気力で奮い起こし、その勢いで、振り返ることなく、一心で大坂城へと急いだ。  伊達軍援軍の参戦を尻目に、西に退去した真田幸村。とは言え、道明寺決戦で一万余りの伊達の鉄砲隊を完敗させていた。  「関東百万の兵の中に一人の男児なきか」 と豪語して悠々と引き揚げてきた真田隊は、天王寺茶臼山に陣を構え、激戦の疲れも見せず幸村は、「大義だった。来る戦いに備えよ」とひとりひとりの将士を労うために陣地を回った。そこへ慌ただしく総司令官と云うべき大野治長が姿を現した。徒ならぬ雰囲気に陣営にピーンと緊張感が走った。その緊張感を打破したのは幸村だった。  「最後の決戦となり申そう。なれど敵は、百戦錬磨の老将に率いられた我に三倍する天下の大軍だけに、容易な事では勝利は望めませぬ。ここは、是非とも秀頼公の御出馬を願い、大馬印を四天王寺の城頭に揚げて、親しく将士に激励を賜る事が絶対必要かと。恐らく敵は、天満や船場から攻めず、全軍ことごとく城南の平野方面から襲来する事は必定。よって、我が軍は天王寺、岡山口に集結して、可能な限り敵を手元に引き寄せる。そこを船場に配した明石殿の精鋭が、今宮から瓜生野に潜行し、狼煙を合図に、全軍一斉に家康・秀忠の本陣を挟み撃ちし、両将の首を挙げる策以外に勝算はありませぬ」 と強く主張した。それに対して大野治長は、挟み撃ちによる家康・秀忠、両将の首を挙げる幸村の策に、総司令官と云うべき大野治長も賛同し、「見事なり、これで我らの願いは叶えられるぞ」と頷いてみせた。  「流石は真田殿の軍略、確かにその他の方策はありますまい。宜しい、身共はこれより直ちに帰城し、大助と共に必ずや、秀頼公の出馬を願い申そう」 と固く約束し、すぐさま席を立った。  諸将たちも意気揚々と希望を抱いても、持ち場に帰った。岡山口の総指揮官・大野治房は直ちに配下の部の将を集めた。  「みなの者、最後の決戦じゃ。決して、茶臼山、岡山口より前に兵を出してはならぬぞ。思い切り引き寄せて一斉に猛撃し、敵本陣を突くのじゃ。諸将はよく軍法を守り、決して勇に逸して軽はずみな抜け駆けはせぬよう、部下に充分申し聞かせー。軍法に背く者は、直ちに切って捨てよ」  改めて決意を伝えた。念を押したのは、これが取るべき最後で最善の策。言い換えれば、この策が少しでも綻びを見せれば、希望すら打ち砕けるに違いないと確信していたからだった。  最前線の陣地に帰った新宮行朝は、将士に治房の厳命を伝え、戦機の至るのを今か今かと待ちわびていた。この頃、家康は松岡を出立して道明寺戦跡を見て、平野へ。  「茶臼山には儂が参ろう」  茶臼山は、最も難戦と思われる戦場。家康は、自らがその難所に出向くため、桑津に向かった。  一方、西軍は隊伍整然と開戦の時を待っていた。家康が最前線に自ら出るのに対して、依然と豊臣方の秀頼の姿はそこにはなかった。  「半蔵、本腰を入れたはずの秀頼は、まだ、出馬しておらぬのか」  「そのようで、御座います」  「あ奴、戦いを前に怖じ気づきよったか」  「それは何とも…」  「まぁ良い。奴に使者を出せーぃ。いま、講和に応ずるなら、国、二つを与えるとな」  兵力で優勢に立つ家康は、豊臣方への牽制を怠らなかった。  「秀頼公はまだか」  業を煮やした真田幸村は、長男の大助を出馬要請のために秀頼公の元へ走らせた。その頃、秀頼は、幸村たちの願いを知ってか知らずか、武士の血が騒いだか、桜門を旗本三千を率いて、天王寺に向かおうとしていた。そこに立ちはだかったのは淀殿だった。  「秀頼、待たれよ」  「何事で御座います、母上」  「いま、家康からの使者が来ておる。講和の条件を携えてな。出陣は、その話を聞いてからでも遅くはあるまい」  秀頼の脳裏に、兵の数の差、自軍の減少を危惧する思いが淀んでいた。  「ここで出陣を遅らせるは、士気に影響を与えかねまする」  「おなごの私が口出すことではありませぬが、話を聞くことが、どれほどの影響を与えようものか」  「聞くこと自体が結束を乱すこともありまする」  「私には分かり申さぬ。壮絶な戦いに兵を送り出し、命を落とさせるほうが大将として、如何なものかと」  「みなはこの戦いを最後の戦いと思い、死の覚悟を持って挑んでおりまする」  「ならば問いまする。なぜ、そなたは戦うのか」  「それは、豊臣の存続、敷いては復権で御座いましょう」  「ならばなおさら、兵はより多く有り申した方が、今後のためにも良いのではありますまいか」  「…」  「話を聞くことに、それほどの大差はありますまい。是非ともここは、私の思いを聞きとどめてくれまいか。話を聞き、それでも出陣するとなれば、止めはせぬゆえ」  秀頼は、和平の道を模索しない訳ではなかった。しかし、秀頼の思いに反するように戦況は、対立の道へと邁進していた。  母・淀殿に出陣の出鼻をくじかれた秀頼は、冷静に自分の思いや周囲を見直すことにした。勢いを削がれた心の葛藤が、秀頼を揺さぶり、出した回答は、玉虫色のものだった。  淀殿の制止を受け、大馬印だけを使番に持たせ、先に天王寺へと向かわせ、秀頼自身は、大坂城に留まると言うものだった。  無謀な戦いに一縷の望みを見出し、強く結束を誓った折り、「今更の使者など捨て置けー」と、勇ましく戦に挑む姿を誰もが信じていたに違いない。母を思う優しい気持ちは仇となり、死を覚悟する将士たちの志気を萎えさせる失策となった。  東軍では、家康が陣頭指揮と鼓舞を呈していた。兵力で勝りながら、前の戦で苦渋を舐めた、本多忠朝・小笠原秀政・越前忠直らを呼び出した家康の顔は、怒りに満ちていた。「そなたら、昼寝でもしておったか」と、扇子を膝に打ち付け、檄を飛ばした。屈辱を受けた、本多・小笠原・越前らは汚名をそそぐべく、心に強く誓い、その視界は、西軍を捕らえていた。  「これぞ、汚名返上の絶好の機会」  「いや、開戦を待ての支持は如何致す」  「そのようなこと、敵は少数、迷う必要はなかろう」  汚名を着せられた彼らは、必死だった。自分たちの存在を鼓舞するために細かな策など無用の長物。なり振りなど構っている余裕など、微塵もなかった。討ち死に覚悟の進撃、それしか彼らには、選択肢がなかったのです。 東軍、本多・小笠原・越前らは汚名を返上すべく、視界に入った西軍・毛利勢、福島・吉田隊に、ここぞとばかりに襲いかかった。  家康の「待機せよ」の指示より、気分的に追い込まれていた本多忠朝隊らは目前の敵しか目に入らなかった。有難いことに毛利勢は見た所、小勢に思え、組み易しと考えていた。  本多忠朝らにとってみれば、絶好の獲物だった。案ずるより生むが易い、微塵の迷いもなく、即座に銃撃を開始。その攻撃は凄まじい勢いで、毛利隊を急襲した。毛利勢、福島・吉田隊らにとっては、すこぶる厄介な場面に出くわしたことになる。山道を歩いていて、いきなり熊に襲われるようなもの。  その熊を目前にし、毛利勢、福島・吉田隊らは軍法で「明石軍の狼煙の合図があるまでは、手を出すな。出す者あらば、切り捨てろ」と厳命されていたから困惑の色を隠せないでいた。  しかし、防戦一方では、壊滅の憂き目を見るのは必然の状況だった。  「このままでは、持ちませぬ、応戦致しましょう」  「それでは軍法に背くことになりまするぞ」  「背くも何も、このままでは全滅致します、応戦を」  その間にも、東軍の襲撃は容赦なく、毛利勢に襲いかかっていた。  「仕方ありませぬ、隊を失えば軍法も泡と消えましょう。しかし、あくまでも軍法を遂行することを念頭に置いての応戦ですぞ」  「分かっておりまする、皆の者、応戦はするが、深追いはなさるなーよろしいな、しかと申しつけたぞー」  毛利勢の福島・吉田隊は、止む終えず、本多隊の銃撃に応戦した。東軍、本多・小笠原・越前隊らと、西軍・毛利勢、福島・吉田隊の銃撃戦は、双方の大将の支持を覆した想定外の戦いとなった。その激しい銃撃音は、天王寺口に陣を敷いていた将軍・秀忠にも、緊迫感を与えるものだった。  「何事ぞ」  「ご報告致しまする。忠朝様ら毛利隊に銃撃を開始されたの事」  「なんと、忠朝様らが…。あれほど、開戦の指示を待てと申し付けたのに…」  「察するに、家康公に咎められたことが、勇み足となったかと」  「忠朝様らが…、軽はずみなことを…」  秀忠は、あくまでも策を通すか否かを考えようとしていた。しかし、考える間も与えない激しい銃撃音は、収まり所を完全に見失っているように思えた。行くも地獄、帰るも地獄。秀忠の心は焦りと昂ぶりを覚えていた。  「えええい、この期に及んでは仕方あるまい、毒を食らわば皿までじゃ、攻撃じゃ、攻撃せーい」  世の中、絵に描いた事が運ばぬが常。関ヶ原の遅刻と言う失態が頭をよぎる。秀忠にとってみれば、敵に背を向けるより、意地でも敵を壊滅に追い込み、大義の申し開きの道を選ぶしか、体面を保つ術がなかった。  「家康公はお怒りになるだろう。しかしながら、敵に背を向けたとあらば、武士としてあるまじきこと。この場を預かるは我、秀忠なり。忠朝らの行いを忠義として捉えるのは必然。のちのことは後で考えようぞ。そのためにも、この戦い、必ずやものにする」  秀忠の心は、一点の曇りもなく、ここに定まった。  西軍の計画の鍵となる明石隊は、東軍の勢いを止め難く、応戦する毛利勢を後方支援するしかなかった。  軍法に背き、動けば、戦略は水の泡と消えまうか隊列を崩されるか分断される恐れがあり、配置など就けるはずもなかった。  困惑の中、西軍にとって戦況は、悪化の一途を辿っていた。  東軍・前田隊は、戦闘突入を肌に感じ、高ぶっていた。  「我ら隊は、大野治房隊を攻めー」  号令と共に前田隊は、敵方参謀を討たんと、攻撃を開始。その頃、藤堂隊と井伊隊は、「本多隊を援護せい、天王寺口へ向うぞ」と、秀忠らの元を離れて、援軍に向かった。秀忠が支持を出したのではなく、暗黙の了解の上でのこと。経験と戦場の気配が体を動かしていた。秀忠もそれを肌で感じ、「藤堂も井伊もあっ晴れ」と頼もしくさえ思っていた。  血気盛ん、経験豊富な武将を束ねる苦労が、東軍の本多忠朝にはあった。それ故に自らが陣頭に立ち気概を見せ、毛利隊に立ち向かった。  その3気力に押されたのか西軍・毛利勝永は苦戦を呈していた。  「射方、止めー」  正面突破してくる本多隊の勢いは凄まじかった。  「これでは、持たぬ。隊を立て直す。これより、隊を二つに分け、敵方を左右から挟み撃ちにせ~い」  この機転が功を制した。本多忠朝らは、左右の敵に挟まれ、蜂の巣状態に陥った。毛利勝永隊の右隊は、奮戦して敵を潰走させ、左隊は、何と形勢を逆転させ、本多忠朝を討ち取った。  最も恐れていた勇み足。その報告を真田幸村も天王寺口で受けていた。幸村の心情は計り知れず、焦りの色を隠せないでいた。すぐさま、幸村は、毛利勝永に使者を送った。  「明石の騎馬隊の狼煙のあるまでは撃ってはならぬ。呉呉も無理をなさるな」  しかし、その報告が毛利勝永に届いたのは、激戦真っ只中の頃。  「無理も何もあるまい。やらなければ、やられるではないか。ここは無理やり乗せられた船であっても、死の覚悟を持って、乗り切るしかあるまい」  毛利勝永は、意を決していた。  東軍、本多・小笠原・越前隊らの勇み足とも言える西軍への奇襲。双方陣営とも思惑に相反する形で戦いに突入する羽目に。  ここに、大坂・夏の陣がのまさに銃撃音と共に繰り広げられた。  徳川秀忠は現場を見て、突き進むしかないと判断し、攻撃を選択。一方、西軍の真田幸村は、軍法厳守でことを運ぶようにと願った。  本多隊らに奇襲された毛利勝永は、死に物狂いで応戦した。東軍、本多忠朝の敵は組みやすしの自らの予想に反し、命を落とすことになった。  毛利勝永は、徳川方・本多忠朝隊を撃破。その勢いで、東から攻めてきた幸村の兄である真田信吉隊、西から攻めてきた松平忠直隊などの徳川方を撃退した。本多忠朝と親戚関係にあった真田信吉は、叔父幸村が豊臣方の中核にいて活躍していたため、徳川方では、耳障りな噂や疑いを持たれ、肩身の狭い思いをしていた。真田兄弟は、戦場の右翼の先鋒に、叔父幸村は、左翼との戦闘となったので、真田親戚対決は奇しくも避けられた。  真田幸村は、本多隊の攻撃に会い、致し方なしとは言え、毛利隊の応戦を快く思っていなかった。「大事の前の小事」を毛利勝永が貫いて事前に敵方の気配を察知し、身を潜める位の配慮ができなかったのか、そう思うと、悔やんでも悔やんでも、悔やみ切れなかった。それ程に、この度の策には、慎重の上にも慎重を機する必要性を感じていたのです。  毛利隊の勢いは、凄まじいものがあった。しかし、幸村は、一過性のことだと、気に止めることはなかった。次から次へと繰り出される援軍に、今の兵力で、最後まで耐えられるとは到底考えられなかったのが現実。  この期に及んでは、一致団結し、命尽きるまで戦うのみ。その中の一縷の希望が姿を現すのを祈るばかりだった。そのためにも、秀頼公の出陣が欠かせなかった。幸村は大助を送り出した場面を回想していた。  幸村は、息子の大助を呼び寄せた。幸村の気配から、ただならぬ物を感じ取っていた大輔は唐突に言い放った。   「父上、この大輔、父上と共に死にとう御座います」  大助は、計画が破綻した今、新たな志が欲しかった。幸村には、息子であっても、その気持ちは嬉しかった。その幸村の視線の先には、大野治房の陣があった。そこには主のいない故太閤歴戦の瓢の馬印だけが、空しく翻っていた。虚しかった。心にあいた穴を、隙間風がひゅーひゅーと摺り抜けるように。  幸村の落胆の色は、隠せないでいた。故太閤歴戦の瓢の馬印の主は、ここにはいない。息子の大輔でさへ、「父上と、死にとう御座います」と、この父と幼き命を灯を消そうとしているに。  我らはいったい誰のために戦っているのか、何のために戦っているのか、時折、疑問に感じるようになっていた。この思いは、我にだけにあらず。局面が追い込まれれば、なぜ戦っているのか、誰もが起源回帰するだろう。その時、主がそこにいれば、再度、迷いを拭えるにちがいない…。幸村は、同じ志で戦うものを惑わせたくなかった。  「大輔、お前は大坂城に戻って、今一度、秀頼公にご出馬を乞え」  「父上…」  「あれ程、願っても出馬されぬは、父の謀反を疑って居られるからでは…。だとするならば、そなたが人質になり、秀頼公の不信を払拭せよ。それでいて、何としても、秀頼公のご出馬を願うしかあるまい」  「父上…」  大輔の気持ちは揺れていた。激戦の続く戦場から息子である自分を遠ざけよう、そんな気持ちからではないことは分かっていた。確かに、真田家は徳川、豊臣に分かれる苦しい立場にあった。それは、少なからずや大輔も胸を痛めることはあった。しかし、こうして戦場の先頭に立ち、戦っている。秀頼公が我ら親子に、疑心暗鬼になっているなど思えなかった。出馬に至らない理由がわからない今、何とか理由をつけ、秀頼公の重い腰をあげさせようという父の思いを大輔は痛く感じ取っていた。しかし、大輔は父と共に戦う決意を捨てきれないでいた。その気持ちは幸村の心を痛いほど握りしめていた。  「お前が父と共に死ねば誰が、謀反の疑いを晴らせよう。行け、行って秀頼公と生死を共にせよ。これが最後の父の命じゃ」  「父上…」  大助は、言葉を詰まらせ、大地を握り締めていた。その手の甲に大輔のお粒の涙が滑り落ちていた。大輔に背を向けた幸村も泣いていた。  「早う行け、早う…」  振り絞るように大助を走らせた。大輔は、父の背中に今生の別れとなるやもしれない一礼を行うと、一目散に大坂城を目指し、駆け出した。幸村は、遠ざかる大輔の足音を、胸に刻んでいた。  「父上、必ずや秀頼公のご出馬を叶えましょう」  「頼んだぞ、大輔。秀頼公を必ずやお守り申せ」  言葉にならないふたりの心の会話は、風のみが知っていた。  死を覚悟した父の思いを痛切に感じ、永遠の別れになるやもしれない指示を大助は、深く噛み締め、一縷の望みを抱き、走った。伊木遠雄は、幸村親子のやりとりを傍らで聞いていた。  「諸事ことごとく食い違い、最早、どうにも手の打ちようが尽きたようで御座る。この上は家康本陣に突入して家康の首を取るか、討ち死にするほかなさそうじゃ」 と、ぼそっと呟いた。  「どうやらそのようで御座いますなぁ。今生の思い出に、家康の白髪首を狙ってみますか」  伊木は苦笑いを浮かべ、黙って愛馬に跨った。幸村には、もう迷いはなかった。主がやらねば自らがやる。崇高な思いからくる決断ではない。悲壮感と喪失感からくるものだった。息子の大輔に一縷の望みを託した。単体の戦いには勝算があった。それに対し、多勢の兵力には、結束を高めて戦うしかなかった。幸村の決死の突撃が、実行に移された。死神に魂を引渡し、鬼と化した。  目指すは家康の首。  「真田のはね槍」と呼ばれた十文字槍。真田隊は、家康を追い込んだ恐るに勝る知名度を得ていた。その幸村の名を敢えて各勇将に名乗らせ閃かせた。この三軍縦隊突破作戦を楠木正成は、後世に残している。「十死一生ノ戦法」と名付け、「真田日本一の兵」として…。  越前忠直の大軍を真一文字に突き破り、左右に分かれ再び合流。そして突き破っては合流して、体勢を整えた。その怒涛の攻撃は、鯨波で敵の肝を脅かしていた。東軍はその迫力と手際の良さに圧倒され、防戦必死の状態だった。その勢いを受け邁進する姿は、赤い死神に東軍には思えた。  優位に戦を進める真田軍。幸村は、東軍の士気を削ぐように叫んだ。  「目指すは、家康本陣ぞ!」  「おお~」  一方、数で圧倒する徳川方の本多忠朝は、物見遊山だった。  「あれを見るがいい。何も出来ず、身を潜めておるわ。ここは一つ、揺さぶってやるか」  その行動に真田隊に緊張感が走った。  「殿、松平、本多勢がこちらに向かって進撃して参りました」  「まだ動くでない」 と、真田隊は、策に重きを置き耐えていた。最前線に到着した本多勢の鉄砲隊が、豊臣方を誘き出そうと一斉に威嚇射撃を開始。それに業を煮やしたのは毛利勝永だった。  「もはや、狼煙の合図など、待てぬ、出陣じゃ」  勝永指揮下の寄騎は、銃口を本多忠朝に向けて放った。  狼煙の合図とは、豊臣方の策。徳川方を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、解隊し順次叩く。敵を四天王寺に丘陵地に引き寄せ、横に広がった陣形を縦に変えさせ、本陣を手薄にさせる。そこで、別働隊の明石全登を迂回して、家康本陣に突入。それが叶わない場合は別働隊が、敵本陣の背後にまわった所で狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟い場所で攻撃し、宿敵・家康を討つ。と、言うものだった。  「殿、毛利勢が出陣致しました」  「何と、毛利殿は何ゆえに待てぬのか…」  幸村の思惑とは裏腹に、東西の戦いの幕は切って落とされた。豊臣勢の体制が整う前の合戦開始。狼煙を待っての攻撃の策が、破綻のほころびを見せた。合戦はこれまでにない、兵力と火力がぶつかりあった。戦場は、幾多の誤報、噂が飛び交う混乱を見せていた。  豊臣方・毛利勝永勢は、徳川方・本多忠朝を討ち取り、先鋒本多勢を壊滅させた。本多隊の敗北に家康は、業を煮やしていた。  「何をしておる。えええい、もう容赦はならぬ、一機に叩き潰せぇー」  激怒した家康は、最前線に本隊である小笠原秀政、小笠原 忠脩((ただなが))勢を駆けつけさせた。  「申し上げまーす。殿、家康本隊が動き出しました」  「それを待っていた、出撃じゃ」  幸村も参戦を決断した。家康の差し向けた小笠原秀政、忠脩勢は、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明らによって、側面からの攻撃を受け、小笠原忠脩は討死。小笠原秀政も重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。  二番手・榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱。これらの徳川方の先鋒・本多、二番手・榊原らの敗兵が酒井家次の三番手に雪崩込んできた。  家康は高台に陣取って、戦いを見守っていた。よもや苦戦するなど考えもしなかった徳川方は、苦戦を強いられ、混乱の渦の中に陥っていた。  鉄壁に思えた軍勢は、砂城が崩れるように陣形が崩れ、家康本陣は、瞬く間に無防備になっていった。しかし、家康は合戦に興奮していたのか、自らの陣営が手薄になっていることに気づいていなかった。    松平忠直勢15.000は天王寺口にいた。忠直は、功を焦っていた。その目前に、徳川家を幾度も悩まさせた隊がいた。  「あの赤の馬印は、真田幸村で御座いますぞ」  「おう、天が私に下さった好機であるぞ」  やるか、やられるか、その戦が真田隊を飲み込んでいった。幸村は即座に対処し、隊を先鋒、次鋒、本陣など数段に分けた。幸村は多勢の松平忠直勢と天王寺口で一進一退の激戦を展開。しかし、劣勢であることは変わりなかった。  「若様、このままでは本願成就は難しいことになりますぞ」  「何か手立てはあるまいか…」  そこへ幸村の配下の忍びが駆け込んできた。  「幸村様、浅野長晟が松平忠直軍の備えの跡を通っておりまする」  浅野長晟は今岡より兵を出し、松平忠直軍の跡を追って軍を進めていただけだった。しかし、それは、戦場にいる者からはそのまま直進し、あたかも大坂城に向かっているように見えたのです。  「それは使えるかも知れない。忍びに申し付けよ。浅野長晟は徳川を裏切り、大坂城に入ると、噂を流せ、と」  忍びは敵味方が分からない足軽に偽装して、虚報を流した。  「浅野が裏切ったぞー」  「何、浅野が逃げただと」  「浅野が攻めてくるぞー」  「紀州殿の裏切りか」  「浅野殿の寝返りか」  その支持は、たちまち徳川方に動揺を与えた。特に反応したのが松平忠直勢だった。  「何~、裏切りだと…。許さぬ」  忠直は真田勢との戦いより、一路、浅野長晟の後を追い、大坂城を目指した。  「今だ、隊列が乱れておる、分断し、攻めたてぇ~」  松平忠直勢の混乱の隙をつき、真田隊は松平勢を後左右、三方から飲み込むように撃破し、そのまま毛利隊に苦戦する徳川家康本陣へと向かった。  浅野の裏切りの噂で、一枚岩に亀裂が生じ、動揺を隠せない徳川軍。  「目指すは家康本陣!」  幸村の号令で真田隊は一気にに家康への強行突破に挑んだ。  まず、幸村は越前、松平勢と激突した。それを見ていた家康は「なかなかやりおるではないか、真田の小倅目が」と、まだ物見遊山の気持ちでいた。 (幸村は四十半ば。それでも、家康から見れば、幸村の父・昌幸の息子という印象が強かった)。  幸村には、策があった。  決死の強行突破にあたって、まず自らが囮になり、別部隊が、家康の後方から襲撃するものだった。口では強がってみせていた家康の心中は、穏やかではなかった。その目先に幸村はが大きく立ちはだかる壁として、存在感を固辞して見せた。家康の警護隊は、その幸村に飛んで火にいる夏の虫と軽率に立ち向かったその時だった。  「何?」  「あちらから」  「いや、こっちだ、こっちだ」  「いやいやいや、あああああ」  四方から現れし複数の幸村。  警護隊は、狐に化かされたように混乱の渦の中に叩き込まれた。たちまち隊列は乱れ、警護どころではなく、狼狽えるだけとなった。  幸村の影武者たちは、家康を警護する兵の多くをあちらこちらに引きつけた。幸村の思惑通り、家康の警護は見る見る手薄になっていった。迫り来る幸村の殺気に初めて家康は劣勢を実感した。  「おおお、攻めて来るぞ、攻めてくる…」  狼狽え右往左往する家康を警護に当たる重臣たちは、緊迫した情勢の中、「命あっての物種よ」と、決断を下す。  「ここは退却を。お急ぎくだされ」  「馬印を下げー」  家康一行は、幸村と一定の距離を取りながら、追っ手から、必死とも思える形相で逃げ出した。  「急ぎなされー、真田が攻めてきますぞ」  真田隊は、警護隊を強行突破し、家康を追い詰めていた。  「更に、距離を取れー」  家康は、警護の数が減る度に死の恐怖に怯えていた。  真田勢の攻勢によって家康本陣は大混乱。  戦意を失った約500名の旗本が戦線離脱。旗本の中には三里も逃げたという者もいた。  混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した。その際、旗奉行は不覚にも家康を見失ってしまった。後にこの旗奉行は、詮議され、閉門処分となった。「馬印も打ち捨てられた」と大久保彦左衛門忠教は自伝に書いた。「浅野長晟裏切りの噂のために裏(後方)崩れが起きた際、両度までも、はや成るまじと御腹をめさんとあるを…」と戦記にさせるほどだった。  天王寺・岡山での最終決戦の朝、徳川家康は本陣に馬印を置き、自身は白い小袖を着て玉造方面の谷間に入った。  家康は、死を覚悟した。  家康の脳裏には、後に豊臣方に捕縛され、詮議され、晒し者にされる屈辱を思い描き、恥じた。威厳を損なう。それは、自己否定であり、決して認めたくなかった。天海が一番心配していた家康の弱点が顕になっていた。  「もう、駄目じゃ。駄目じゃ。捕まって恥を晒す。ならば、恥を晒すより、儂は自害する」  「何を弱気な。勝敗は期しておりませぬぞ」  「そうですとも、敵方にも負傷者が多く出ておりまする。救援隊がつくまでの辛抱で御座いますぞ」  騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走る始末。家康は、二度も自害しようとした。それを黒衣の宰相と呼ばれた二人の僧侶・金地院崇伝と南光坊天海が家臣の先頭に立ちまた身体を張って、必死に制止していた。僧侶が高位の武士を体を張って抑え込む。その光景は、戦場では後にも先にもこの時だけだったに違いない。  九死に一生を得た家康は、常に同行していた探偵の導きにより、安息の地に辛うじて辿り着くことができた。探偵らは、真田勢の行った幸村の影武者同様に家康の影武者と馬印を用いて攪乱したものの、多くの探偵らが犠牲になった上の代償の命拾いだった。  合戦は、援軍に駆け付けた本多勢と毛利勢の戦と変貌していた。  真田隊は家康を追随するも、家康本体を見失い隊列を軟弱化させていた。  徳川方、酒井・内藤・松平などは「固まれー、それにて敵を包囲しろ。離れるでないぞ」と号令を掛け、急ぎ体勢を立て直していった。  豊臣方による損害は思ったより少なく数で勝る徳川方は、援軍の到着もあり、戦局を挽回し始めていった。  大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も、陣を立て直し、豊臣方を側面から攻め立てた。次第に、真田隊、豊臣方は逆に詰め寄られていった。  「若様、ここは一機に家康の首を」  (真田十勇士と呼ばれた者にとって、幸村は若様のままだった)  「…。無念、無念なるぞ…」  「若様」  「見ろ、皆、疲れきっておるわ。ここは引こうぞ」  「若様…」  十勇士らは幸村を取り囲み、幸村の胸中を察した。  「皆の者、体制を立て直す。無駄に死すは真田にあらず」 と、幸村は家臣に高らかに指示を伝えた。幸村一行は、失意を抱え、重き足取りを大坂城へと向けつつ、休息を取れる場所を探していた。夢も希望もない帰路に、ひと足毎に膝が崩れそうになりつつ辿り着いたのは、茶臼山の北にある安居神社だった。  「皆の者、ここにて、しばし休まれるが良い」  兵たちは、重い腰をつるべ落としの如く、その場に沈めた。  「才蔵(雲隠才蔵)、若様はどうされるつもりかのー」  「甚八(根津甚八)、決まりきったこと言うな。家康の首を討ち取るのみよ、そうじゃろう小助(穴山小助)、そなたもそう思うじゃろ」  「然り。援軍さへ来なければ、間違いなく、家康の首はこの手にあったはず」  「そうよ、そうよ」  三好清海入道、三好伊入道は、息を荒げて、自らの手を眺め、力強く、握りこぶしを作ってみせた。  「しかし、何故、秀頼殿の出陣が適わぬのだ」 と、望月六郎は、合点の行かない疑問を口にした。  「そうよな、元はと言えば豊臣の戦。ならば、何故ゆえにその総大将である秀頼殿が出陣なされぬのか…分かり申せぬわ」  由利鎌之助は、握りこぶしを膝に叩きつて悔しそうに言い放った。  「まぁ、豊臣には豊臣の事情と言うものが、御座いますのでしょう」  「十蔵(筧十蔵)、何を言う」  三好清海入道は、十蔵に食ってかかった。それを制しながら、海野六郎が割って入った。  「十蔵が言いたいのは、豊臣など頼りにならぬ、この戦は真田の戦であると、言いたかったのじゃ、のう十蔵」  「豊臣が我らの申し出を聞き入れておれば、戦況は如何せんじゃ」  十蔵は、憤りに任せて、言い放った。一同は、その無念さに鉛のように重たくなった体と心を憂いだ。  沈黙が、闇を包んだ。  ぱたぱたぱた…。  数羽の鳥が繁みを突き破った。  「脅かすな、ふむ…、若様の姿が見えぬが何処へ」  雲隠才蔵が、重い空気を平静に戻した。  「幸村様は、一人になりたいと言われて、姿を消されました」  幸村の付き人・護衛のような役割を果たしていた、猿飛佐助が言った。  「よもや、若様、失意のあまり…」  「鎌之助、取り越し苦労がすぎますぞ、若様に限ってそのような」  「そうじゃ、そうであれば、討ち死に覚悟で家康本陣に突き進んでおるわ。こうして、休息するは次なる戦への望みを思ってのこと」  「悪かった悪かった、許されよ、許されよ、ほれこの通りじゃ」  そう言って鎌之助は、大袈裟に頭を垂れて見せた。一同が一抹の不安を抱えていた中での確認行為だった。口にし、皆がその不安を払拭するための確認だった。皆が同じ心であることを改めて認めあった上で、いまこのひと時は、和みとなっていた。真田十勇士たちが休息と心を交わす頃、幸村は、安居天神の前に、ひとりで佇んでいた。  木々を擦りぬける風の音、山の匂い、静寂に幸村は包まれていた。  幸村は家臣の前では気概を見せていたが、真意は、絶望と憔悴で立つことも適わない程、疲れきっていた。安居天神の祠の前に、ゆったり鎮座し、誰と話すでなく、淡々と、見えぬ相手に語りかけていた。  「これでよかったのかも知れませぬぞ、父上…。誠を申せば、無念の一言…で御座いまする。なれど、家康を追い詰めた武将の一人として、天下に真田家ありを知らしめたのではなかろうか。これで、家康の天下となっても、兄上とその子らが立派に、真田家を守ってくれることでしょう。今となっては、家康を傷つけなかったことが幸し、肩身の狭い思いを掛けた兄上にも幾分かの慰めとなりますでしょう…そう、願っておりまする」  幸村は、回想していた。眼下に雲霞の如く群がる関東方の軍勢。それを真紅の甲冑に身を包み、真田丸、茶臼山から眺めている自分を。幾多の戦が走馬灯のように流れては過ぎ消え去っていった。  「思い起こせば、九度山の蟄居先で父上が世を去られたのは、もう四年も前になりますな。臨終間際、父上は、徳川と豊臣が手切れとなった時の豊臣必勝法をそれがしに語られましたな」  「父上が語られた必勝法は、全国を巻き込む大戦でしたな。それは、父上であればこそ、実現させられたやも、ですよ」  幸村は当時のことを思い出し、薄笑いを浮かべていた。  「私は父上ではありませぬ。また、全国を巻き込む戦を民は最早望みますまい。それは、関ヶ原で家康に挑んだ義父上、治部殿も同じ思いのはず。あくまで豊臣政権を支え、世の安寧を守るために、石田三成、大谷吉継は立ったのですから…」  幸村は、懐かしいふたりの温顔を思い浮かべていた。  「それがしは、父上のように全国にいたずらに戦火を広げずして、この大坂周辺で家康と雌雄を決するのが望むところでした。如何でしたか、父上。父上直伝の真田の兵法、天下に知らしめたのではないかと…そう、受け止めてくだされ」  意気消沈した幸村の記憶に、鮮明に蘇る場面があった。  「我らが目指すは家康の首ただひとつ、遅れを取るでないぞ」    勇ましく鼓舞する自分自身の姿だった。いまは、その面影もなかった。項垂れた幸村を睡魔が襲ってきた。前のめりに屈しようとした時、木々を突き破る鳥たちの羽ばたく音で我に戻った。茂みの中を彷徨う男がいた。真田家に仕えていた下級武士・向井佐平次は、戦の最中、群れから離れ、死に場所を探していた。そこに一頭の馬の足音が聞こえ耳を澄ましたが、その他に足音は聞こえなかった。馬に乗るのは上級武士、それもひとりで。佐平次はその主を確認するために近づき、敵方であれば一矢報いようと考えていた。馬は木に繋がれていた。そっと近づいてみると、何と幸村の矢倉ではないか。孤独と死の狭間で見つけた一筋の光だった。   「幸村様、幸村様でありますまいか」   幸村にとって、聞き慣れた声だった。   「幸村様」   「おお、佐平次ではないか、如何しておった」   「隊とはぐれ、死に場所を探しておりました」   「そうか、そうか、近くに寄れ、ほれ、ここへ」   「無念で御座います…」   「そうよな…。何もかも終わった」  佐平次は、幸村の懐で嗚咽を漏らしていた。そこに、複数の慌ただしい足音が静寂を切り裂いた。  再会を果たした真田幸村と向井佐平次の前に現れたのは、徳川勢の追っ手たちだった。佐平次は幸村を庇うように立つと、槍先を追っ手たちに向けた。  「大坂方じゃぁ」  佐平次の問いかけに返事はなかった。敵方と確信した佐平次は、常軌を逸して、槍を突き出し、追っ手たちに目掛けて飛びかかった。乾いた銃声が数発、木々を騒がせた。幸村の目に飛び込んできたのは、銃弾を受けて間近に倒れこむ絶命寸前の佐平次の姿だった。佐平次に近づこうとする幸村に、追っ手たちの銃口が向けられた。    「静まれー、静まりなされー」 と、幸村の恫喝は、緊張感を静寂と変えた。  「手向かいは、いたさん」  幸村の迫力に押され、兵たちは、小刻みに震えていた。幸村は、重い体を引き摺り、佐平次の元へ近づいた。佐平次を抱えると幸村は優しく語りかけた。  「以前、汝とは共に死ぬような気がすると申したのぅ」  「ゆ・幸・村様」  「それが誠となったのう、死ぬる場所は同じじゃぞ」  「ゆ・幸・村様」  佐平次の命は幸村の手の中で散った。幸村は、佐平次の亡骸を抱えながら、自らの定めを悟った。  「どなたか知らぬが、手柄とされよ」  「名は…」  「真田左衛門之助幸村」  「な・なんと…」  追っ手たちはその名を聞いて、たじろいだ。大物だったからだ。  「其れがしは、松平忠直家臣、鉄砲組、西尾仁左衛門と申す」  それを聴き留めると、  「兄上、左衛門之助幸村は、かく相成りました。父上、これでよろしゅうございますな」  そう言い残すと幸村は、自ら命を絶った。  真田左衛門之助幸村、四十九年の生涯をここに閉じた。幸村の首を討ったという知らせはすぐに広まった。直ちに、その首が幸村のものかどうか、大将が確認する首実検がなされた。  首実検には、幸村の叔父にあたる真田信尹が呼ばれた。信尹は、じっくりとその首を検証して「人相が変わっており、分かり申さぬ」と、場の空気を読めない返答を行った。更に、首を持っていた西尾仁左衛門を見て仰天した。声には出さなかったが「こんな男にあの幸村が…有り得ますまい。本当にこの首は、幸村なのか疑わしく思えてきたわ」。その疑惑は、他の武将も同じように抱いていた。それでも、兜での確認や首の口を開け、欠けていた前歯二本を確認し、幸村であると判断した。  〈幸村を討った男〉となった西尾は、家康から尋ねられた。  「それで、幸村の最後はどうだったか?」  「誰とは存じませんでしたが、人間業とは思えない奮戦ぶりで戦う男を見つけたので、あれやこれやと、なんとかして最後にどうにか討ち取れたので御座います」  「有りの侭を語るが良い…もう良い、大儀じゃった、下がれ!」  家康は、叱責しつつも西尾をとにかく褒めて退出させた。西尾の姿が見えなくなると、家康は笑ってみせた。  「…まあ…幸村ほどの男があやつごときと戦って、「あれやこれや」で討ち取られただと、そのようなことはあるまいな…。武道に通じぬ者の申し様じゃわ…」  家康は、西尾の話を全く信じなかった。細川忠興などは、戦後に国元に送った書状の中で、「古今にこれなき大手柄」としつつも、「負傷し、草むらに伏していたところを討ち取ったわけだから、手柄でもあるまい」と、残している。更に、幸村に関してもこう残してる。「徳川家の旗本は逃げない奴のほうが少なかった。その中で幸村の戦いぶりは見事だった」と書くなど、徳川軍についていながら、幸村を賞賛した。  首実検には「幸村の首です」として、別人の首が差し出されていることが多かったこともあり、家康は、真田信尹に確認させた。その真田信尹は、それっぽい首があれば一件落着させる為、「これぞ甥の首でござる」と、言えばよいところを生真面目さからか「死んでいると、人相が変わってしまうので、幸村か確認しろって言われても…難儀なことで御座います」と、言い出す始末。  「死んでいても、甥の顔くらい判別つくだろ」  幸村が生きていたら気が気でない家康は、この信尹の発言に苛立ち、不機嫌になったのも当然のことだった。「信尹の真面目さが仇となりよったわ」と、怒りを隠せないでいた。  戦国武将には影武者の存在は、当たり前。事実、家康を追い込んだ時も複数の幸村の影武者が存在した。しかし、体格、顔立ちまでが瓜二つの影武者がいたのかは定かではない。だからこその影武者だから。  不思議なのは、安居天神で幸村が絶命する前に向井佐平次が数発の銃弾を受けて絶命した時のことだ。銃声は、付近で休息する真田衆に聞こえないはずがない。銃声のする方向に馳せ参じて入れば、幾ら鉄砲隊と言えども山の中。接近戦となれば、真田隊の勝ち目が濃厚。仮に真田幸村の命を救えなかったとしても、その亡骸を人目につかないように葬るのは戦国の世では必定。真田の死を誰もが疑った。  話を聞けば聞くほど、合点のいかない事実が浮かんできた。弱りきった幸村を鉄砲隊が討つのは有り得る。しかし、付近に真田衆がいる限り、容易く幸村の首を持ち帰るのは難しいのではないかと思われた。それを持ち帰らせた。それは、影武者の首であったから、西尾仁左衛門らに追っ手が掛からなかったのではないのか。最早、真実は、闇の中に深く沈み込んでいた。  貧しく山奥での暮らし、白髪が増え、背も曲がり、歯も抜け落ち、加えて、激戦の最中での変貌も真田信尹の判断を鈍らせていた。  「真田幸村は、生きている」そんな噂は面白おかしく、密かに広まった。西尾仁左衛門(西尾宗次)が主張する幸村の首を家康に届けた。その際、家康は誇張報告をした西尾を叱咤した。家康にしてみれば、自分を死の淵に追い込んだ相手がこんなにも容易く、討ち取られるなど、信じがたいことだったからだ、いや、無念にさへ思えていた。名だたる武将には、それに相応しい死に様と言うものがある。それがこのような結末を迎えること事態、家康は、認めたくもなく、許せないものだった。  幸村を討ち取った喜び、安堵感よりも、その不甲斐なさを自分のことのように思い馳せらせ、家康は落胆していた。  家康の怒り、苛立ちは、幸村死す、の事実を突きつけてきた西尾仁左衛門に向けられた。漁夫の利で得たような功績を、家康は無視しようと思った。その思いは適わない事態にまたもや心を痛めた。  直前に、同じ越前松平隊所属の野本右近が、首を持参し、それに褒美を与えていたため、建前上、仕方なく、公正を期するため、同様の褒美を与える羽目になった。下級武士の名誉など正直取るに足らず。しかし、それを家臣に持つ大名への配慮は別だった。  「真田の小倅は、不運な最後を遂げよったわ」  戦場で逃げ惑う名前だけの武将も少なからず存在した。だからこそ、勇敢な武将を家康は敬意を払い好んだ。事実、幾度も手を変え品を変え、幸村を傘下に収めようとしていた。手に入れたくても、手に入らない。とかくこの世は思うようにいかぬもの。その歯痒さゆえに、その思いは過度に募っていった。  敵ながら、戦略も、その勇敢さ、家臣の優秀さを認める幸村の最後の不憫さを家康は、隠せないでいた。西尾仁左衛門は、徳川家康及び秀忠からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜り、700石から1800石に加増された。  ※さて、真田幸村の件は、これにて一件落着…とはいかないのが歴史の奥深さ。幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』。  しかし、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には、幸村の兜首が3つも出てきたと記されている。その中で、西尾仁左衛門(久作)のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされた。  しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者・望月宇右衛門の首であったとのこと。西尾の主人・松平忠直は、将軍秀忠の兄・秀康の嫡男であり、その忠直が、幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった、と記している。  豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃(えい)郡の浄門ケ嶽の麓に住んでいたという。幸村の兄・信之の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説についての調査を行った。その結果報告を見た肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸(ゆんまい)」は「幸村」の名に由来するという後日談もある。  大坂城内は、騒然としていた。伝令がつぶさに戦況を伝えに舞い戻ってきたものの秀頼への配慮なのか、情報の曖昧さに秀頼は、苛立っていた。  「ええい、構わぬ、直に報告、申せ」  「しかし…、大谷様、如何に」  「構わぬ、御目通りを許す、申し上げよ」  「はぁはー、早速、申し上げまする。真田様、後藤様、明石様、塙様、それに…それに…大谷吉治様、無念の離脱」  「吉治もか…。秀頼様…我らの往く末、極めて困難」  「えええい、もう良い、良いは、このままでは、あの狸親父の思うままではないか。何か手立てはないのか」  「母上、こうなれば、私、自ら出陣し、討ち死にしようとも豊臣ここにありを、天下に知らしめとう御座いまする」  「な、何を申すか。そなたがいなくて何が豊臣ぞ」  「しかし、母上、戦果は決しておりまする」  「そうじゃ、千姫は如何しておる。千姫に家康との交渉を…」  「母上、この期に及んで命乞いで御座いますか。それこそ、豊臣家を汚す行為とお感じになりませぬか」  「どうあっても血筋を絶やすわけには行きませぬ。恥だろうが、お家再興も生きていればのことよ」  そこへ、現状を案じ、千姫が現れた。  「母上様、この千姫、母上様のお気持ちをお察し、致しまする」  「おお、そうか、ならば急ぎ」  その言葉を千姫は断ち切った。  「お恐れながら、この千姫、秀頼様と共に生きる覚悟で豊臣のご加護を受けて参りました。もう、徳川とは縁無きものと決めておりまする」  「恩、少なからずや思うておるなら、その恩、この場にて返すが良い、それが、秀頼のためにもならいでか」  千姫は、唇を噛み締め、悲哀と嘆きに堪えていた。  一方、戦の勝ちを確信した家康には、気掛かりな事があった。それは、孫娘である千姫のことだった。豊臣家は何としても絶つ。絶たねば遺恨が蔓延り、火種を残す。老い先短し、己の命を思えば、それだけは避けたかった。自らの命の灯火を実感すればこそ、孫娘の命が惜しかった。豊臣を討てども、千姫まで殺すは忍びない。  「城を焼き尽くせ、豊臣を滅ぼすのじゃ。但し、我が孫・千姫は殺してはならん。無事救い出した者には、お千を嫁につかわすぞ」  それが、新たな悲劇を引き起こす。その頃、豊臣方でも千姫の処遇が話し合われていた。  「千姫は徳川の血筋。いかに豊臣家に嫁いだとて道連れにするのは、如何なものか」  重鎮たちは、今後のことを踏まえ、淀殿を上手くあしらい、結論をだした。  「千姫を徳川の陣に送り届けましょう」  秀頼もそれに賛同した。その役目を堀内氏久が申し遣った。  「千姫様、秀頼様の命により、徳川家にお送り申す」  「なんと、徳川へと…私は豊臣の」  「みなまで申されますまい。秀頼公のお気持ちを察し、ここは、我らと共に…お願い申す、この通り」  氏久は、深々と頭を垂れた。千姫は、氏久と秀頼の気持ちを敬い、静かに従った。千姫の処遇が話し合われていた頃、坂崎直盛は、誰よりも早く千姫を奪還しようと、大坂城に入り込んだ。城内は、戦火を感じ、我先に逃げる者と、豊臣家を死守しようとする者、生きても地獄、死ぬも地獄を覚悟した浪人たちが、交錯していた。  「千姫はおられるか。千姫は何処(いずこ)何処か」  直盛は、躍起になっていた。願ってもない立身出世の千載一遇の機会。直盛にとってこの時までは、千姫を出世の道具としてしか考えていなかった。刃向かう者は遠慮なく、切り捨て、千姫詮索に邁進していた。躍起になり千姫を探す直盛に堀内氏久は気づいた。  「そこもとは徳川の者か」  「左様、坂崎直盛と申す。して、貴殿は」  「私は、堀内氏久と申す。伺えば、千姫をお探しかと」  「左様、貴殿は千姫の居場所をご存知か」  「秀頼様の意向により、千姫をお引渡し申す」  「何と、千姫を引き渡すと申されるか」  「左様、しいては極秘にお引渡ししたい所存」  「承知、して、如何せよと」  「この先に小部屋が御座います。そこでお待ちくだされ」  「…」  「疑われるも、然り。信じるも、信じぬもそなたの勝手。敵方と知りても、刃を抜かぬをどう見るか、お任せ致す」  直盛はしばらく考え、得体の知れない男に掛けてみた。  「では、お待ちしておりまする。あとはよしなに」  「聞き留めて頂き、騙じけなく、存じます、では」  そう言うと、氏久は、直盛に一礼すると、その場を後にした。直盛もまた急ぎ、支持された小屋へと向かった。  千載一遇の機会を得た坂崎直盛は、罠かも知れぬ緊張感と出世が約束された期待感で、落ち着かないでいた。しばらくして、襖がそ~と開いた。そこには、千姫と思えし二十歳程の若く美しい女性が立っていた。氏久はその側で跪いていた。  「お恐れながら、千姫で御座いまするか」  千姫は、小さく頷いた。坂崎直盛は身分を証、経緯を短く説明した。  「坂崎殿、何卒、千姫を無事、お届けくだされ。城を出られるまで、我らも警護致しまするゆえ」  「騙じけない。命に変えても無事、千姫をお届け致す」  その頃、火の手が上がった。火の手は、千姫らにも迫ってきていた。火柱の欠片が千姫らを容赦なく、襲ってきた。それを直盛は我が身を挺して、千姫を守った。その甲斐もあってか、直盛はやけどを負ったが千姫は無傷だった。  火の手と混乱の中でも、城内に詳しい豊臣方の手助けもあり、無事に千姫を大坂城から連れ出すことが叶った。直盛は護衛に就いてくれた武士たちに一礼し、急ぎ、千姫の父である徳川秀忠の元へと向かった。その道中、直盛に心境の変化があった。千姫の気品の高さ、立ち振る舞い、美貌に心を一掴みされたのだ。出世の道具としてしか思わなかった直盛は、千姫に一目惚れをした。  無事、千姫を大坂城から連れ出すのに成功した。直盛は、戦国一の美男子と言われた名高い宇喜多秀家の従兄だったこともあり、見栄えの良き男だった。ただ、無骨者で女心を理解していない無骨物だった。直盛は秀忠の元へ向かう道中、思いの丈を千姫に告白した。  「家康様は、千姫様を助け出したものに褒美として千姫をくれてやると、お約束くだされた。しかし、今、こうして、千姫様をお見受けし、心を奪われておりまする」  千姫は、目を閉ざしたまま、微動だりしなかった。先日まで秀頼と仲睦まじい夫婦だったのに、無理やり別れ離れに。しかも、秀頼は死ぬのが明白な今、今生の別れの時。千姫にしてみれば、直盛の身勝手な感情の押しつけは、無骨と言うより、無神経な輩として強く印象に残った。  直盛は女性に不慣れで、と言うことはなかった。身勝手なだけだった。宇喜多姓を捨てることになったのも、素行に問題があり、宇喜多秀家と喧嘩したことが原因だった。  それはそれよ。今は無事、千姫を秀忠のもとに。それだけだった。場を読めない直盛の気持ちは葉で拵えた剣先のようだった。ことは、留まる隙を与えず 直様、千姫は、家康と対面する運びとあいなった。  「おおお、お千、久しぶりじゃのう、もう、安心じゃ」  「千は生きながらえとう御座いませんでした」  「これ、お千、たわけた事を申すではない」  「秀頼様と死ぬ覚悟でおりました所を坂崎出羽守が要らぬことを」  「姫様」  「黙らしゃい、そなたの顔など見とうない」  「よし、よし、では、坂崎、座を外せ」  坂崎直盛は、無念の表情でその場を退いた。  「私は、秀頼様に輿入れした時より、豊臣家の女で御座います」  「まぁ、良い。今は気が高ぶっておるのじゃろう。ゆるりと休み、落ち着くが良かろう」  家康は、お千が自害などせぬように、四六時中、監視をさせ、現状を飲み込めるまで、穏やかに過ごさせるように配慮した。  時は過ぎ、千姫に再婚話が持ち上がった。  この時代、一度離婚したからと言って、武家のお姫様が実家に長居することは殆どなかった。中には、伊達政宗の長女・五郎八姫のように「私は(松平)忠輝様の妻ゆえに、再婚など致しませぬ」と、生涯言い続けた強者もいた。これには政宗の親バカと言う一面もあるが、忠輝への後ろめたさもあったとされる。千姫は、将軍の娘であるために、仲の良い弟とは言え、将軍の地位にない家光たちと暮らすことは許されなかった。家康は、千姫の落ち込む姿を見かね、再婚話を推し進める。その再婚相手探しを依頼したのがよりによって、「千姫を助けた者に千姫をやる」と口約束した坂崎直盛だった。  救出そのものは坂崎直盛のみに依頼したものではなかった。結果として、手柄を上げたのが直盛だった。家康は、功績は認めるものの、ほとぼりが冷めると格式に拘った。直盛もまた腸が煮えくり返る思いをぐっと抑え、ここで得る褒美に我が身を置くことで、気持ちを沈めさせていた。  直盛は異論を唱えることなく、また千姫を口説き落とすことなく、家康の命令通り、再婚先を探すことに勤しんだ。そこには一定の配慮が施されていた。  武家に嫁げば、今回のような問題が発生するやも知れない。そこで、ある公家との縁談話が浮上した。縁組は、速やかに進み、儀式を待つまでになっていた。しかし、この話は突然、破綻を迎えることになる。  「千は本多忠刻(忠勝の孫)に嫁がせるゆえ、あの話はなきものとするが良い」  家康の一言で、坂崎直盛の苦労は無下にされてしまった。流石にこれには、直盛は怒りを覚えずにいられなかった。一度ならず二度までも虚仮にされた。その怒りは、直盛の闘争心に火をつけた。  直盛は抑えていた感情をむき出しにし、ある計画を思案した。それは、本多家へ向かう千姫の行列を襲撃し、千姫を奪おう、とする誘拐計画だった。それを知った直盛の家臣たちは、直盛の幕府への反逆行為に恐れを成していた。  家臣たちは、直盛の寝込みを襲い、首を討った。その首を直盛の計画と共に、家臣たちは幕府に差し出した。家臣たちは自害と見せかけたが、幕府は、それを認めず、 坂崎家は改易処分を受けた。後に、これは「千姫事件」と呼ばれる。  直盛の構築した縁談を破棄した家康の本意は…。  かつて自害させた長男・信康の娘、熊姫。家康からすれば千姫と同じ孫娘に応る。その熊姫が、忠刻の母だった。その熊姫が、父の自害の理由から、将軍家の血縁というだけでは、お家の安泰を図れないと、常日頃から思い悩んでいた。そこで、お家安泰を目論んだ熊姫は「千姫を是非とも忠刻にくださいませ」と、頼み込んだ。それを家康が、受け入れた、と言うものだった。  輿入れに至って千姫は、京都から伊勢桑名藩へと移った。  千姫の若さが立ち直りの速さに繋がったのか、割り切り方が優れていたのか、忠刻との間にはすぐ一男一女を授かり、幸せな生涯を迎えようとしていた。しかし、運命の悪戯と言うべきか、波乱の波は、容赦なく千姫を飲み込んでいった。  長男・夫・姑・母親と立て続けの不幸に見舞われ結局、千姫は、江戸に戻る嵌めことになる。千姫、三十歳の頃だった。  江戸に戻るなり、自らの運命を憂い、清めるために出家した。その名を天樹院と改めて、仏門に救いを求めた。その後は、娘に子が生まれたり、弟・家光の子供の世話をしたりしつつ、やっと、穏やかな時を過ごした。  表舞台、裏舞台で豊臣派を追い込み、事実上の徳川政権の樹立を構築した家康は、政権維持のための策に取り込むことになる。  それは、秀吉の政権の軟弱な部位を見直し、強化することで安泰と言う名を目指すことになる。  
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