忘却ステイルメイト

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「兄さん、二人のペナルティの原因は、きっと僕なんだろう」 「……」 「兄さんは、グレッグのお母さんから話を聞いたんでしょう?」 「あまり、他人の家族事情をペラペラと話す気にはなれないな」 「じゃあせめて、ペナルティについて教えてよ。やっちゃいけないことって何なの」 「……」 「兄さん、僕、同じ失敗はしたくないんだ。頼むよ」  私はここで少し、言葉を躊躇ってしまった。それは弟が、二人の話をきっかけに、一つの可能性に気が付いてしまうかもしれないことを恐れてからだった。  弟が自分の記憶について、とある可能性に気付き、兄の過去の所業を訝しんで、過去について踏み込んだ質問を私にするかもしれないと。そしてそれが、私の首を絞めるかもしれないと、考えなかったわけではない。記憶がないのだからあるわけがない、とも思えたが、それでも言葉は喉に引っかかった。静まり返った食卓で向かい合い、捨てられた犬のように眉尻を下げ、弟は私の言葉を待った。 「……やっちゃいけないことは、約束を破ることだ」 「約束?グレッグとの約束のこと?」 「そうじゃない、納税をするときの約束だ。納税してはいけない記憶があるんだ」 「……その約束を、二人は破ってしまった?」 「そう」 「僕がソニアを会わせたから、破ることになった?」 「そう、だな」  ふとした瞬間に、真相にたどり着いてはっと息を飲むのではないかと、気が気ではなかった。おかげで目の前のシチューは味がまるでわからなかった。スプーンで運んで、歯触りでようやく肉を口に入れたことを知り、飲み込んで初めて舌の火傷に気付く有り様だった。慣れたスプーンが酷く冷たい気がして何度も指先で擦り、弟の顔などろくに見れたものではなかった。  妙なところで鋭い彼が、どうか気づいてしまわないようにと願いながら、それが叶わないならいっそ全てを吐き出してしまいたいとも思っていた。優しい弟なら許すだろうと見越した考えを張り巡らせていた。浅ましくも自分の身可愛さに、そんな情けないことを考えていた。 「……わからないや、納税してはいけない記憶って何」 「知らなくていい、お前がこれで失敗することはもうないから」 「僕とアレーシアさんの記憶はよくて、あの二人がダメな理由を知らなきゃ、僕はまた同じ過ちをしてしまうかもしれない」 「……それは、二人がとても特殊だっただけで」 「お願いだよ兄さん、教えて」 「……差し出してはいけない記憶は、家族とだけで過ごしている時間だ」 「……?」 「彼らは、異母兄弟だったんだ」 「……そん、な」  たとえ知っていても、避けることはできそうになかったのだと慰めると、弟は私に食い下がった。不慮の事故なのだから、わざとじゃないのだ、制約を破ったことを許してもらえはしないか、と。彼は納税時に書く面倒な書類たちを知らない。その中に、記憶は二度と戻らないことを諦める、という誓約書がある。ペナルティも同様だ。あまりに日常的で、そしてどう足掻こうとも記憶はなくしてしまうものだと、納税になれた国民なら皆が知っている。慣れてしまった署名を後悔しても、取り戻すことはできない。尤も、条件を飲んで納税しても、抗って滞納しても記憶は奪われるのだ。ちょっとした手違いで起こったミスであろうと、どれだけ手を尽くして焦がれた記憶を取り戻そうとしても、人の手でそれを取り戻すことは叶うことはない。  弟は私が首を振ると、謝罪を零した。グレッグたちへの言葉かと思いきや、私への言葉だと言われ、すぐには理解できなかった。 「だって、兄さんはやっちゃいけないことを知ってたのに、グレッグとの計画を止めなかったものね」 「止めていればよかったな」 「ううん、結局僕が悪いんだ。たくさん知り合いはいたのに、ソニアを選んでしまった僕が悪い」 「……お前は、悪くないよ」 「悪いよ。どんな理由であれ、僕は償いきれないことを二人にしたんだ。友人を失って悲しいだなんていう資格もない。赦してなんて、言えるはずもない」  スプーンから滴るシチューが、テーブルクロスとズボンを汚していく。温くなった白い濁りを拭いながら、次に私は何を言えばいいのかとその丸いシミをじっと見つめる。その実、自分と同じ愚行を犯した兄を、弟はどのように見るのだろうか。 「兄さん、どうしたの?」 「……お前は、」 「……」 「自分の子供の頃の記憶が全くないことを、おかしく思わないか?」  押し留めていたかった言葉が、酸素を求めた際に隙間をするりと抜け出てきた。一度綻びが生まれれば、あとは不安が後押ししていく。おかしいだろう、大きく記憶を失う事象と原因を、今お前は知ったんだぞ。違和感はないか、目の前の兄を、疑ったりはしないのか。  まるでそう疑ってくれと言わんばかりに、何度も脳でシミュレートされた言葉がするすると零れた。 「まさか!兄さんは頭がいいもの、そんなことやりっこないよ。でしょ?」 「……」 「それに、仮に兄さんのせいだとしてもわざとじゃないでしょ、僕と同じように。だって双子だもの、やることが似てしまうこともあるかもよ」 「……」 「何より兄さん、言ったじゃない。僕の記憶がないのは、それしか納税するものがなかったからだって」  今にも泣きそうだったブルーグレーの瞳が、その長い睫毛で影を落として静かに閉じていくのを見て、ようやく体内外の気体を交換するだけだった口が弧を浮かべた。愚かしい兄を信じる盲目な弟。同じ色をしていても見てきたものがまるで違うこの目を細め、何かに気が付いた弟が嬉しそうに語る言葉を待つ。 「兄さんの言っていたことがようやくわかったよ。兄さんがあれだけ悲しそうにしていた理由も」 「……そうかい?」 「うん、家族のことを聞きたがった僕に、父さんと母さんにずっとべったりだったって教えてくれたじゃない」 「うん」 「だから家族との記憶を納税するしかなかったって、泣いて謝ってくれたよね兄さん。あれって、ペナルティが起こるのわかっててやったから、泣いてたんだね」 「……ああ、あの時は本当に悪かった」 「ううん、兄さんのことが分かって嬉しい。ありがとう、兄さん」 「いいのか、そんなに私に甘くて」 「兄さんは僕を想ってくれてるでしょ?それがわかって嬉しいよ」  私よりくせっ毛な、ミルクティ色の髪を撫でる。この下にある白磁の骨に守られた脳が、私の言葉を容易く信じてしまうことに安堵し、笑みが深くなる。もしこの納税がこの国の呪いで、ペナルティが神の御業だとするなら、真っ先に私に天罰が下るだろう。そうならないことで、この法律が人間によるものであることを感謝しながら、真実を話すつもりは毛頭なかった。  そうだ、そう思い込むよう長い年月をかけて話し続けた。度し難い己の罪をひた隠し、それでも懺悔の想いは真実だと恥ずかしげもなく涙ながらに伝えた。お前のためだったと。やはり鉄槌でも下りそうな、腐った懺悔をしていた。  弟の優しい笑みを見て、私はようやく思えるのだ。弟は幸福だと。
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