忘却ステイルメイト

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3. 取引の納税  弟は、失ってもいい記憶をずっと求めていた。兄想いの弟は、家族の記憶をなくすことを心から拒んだ。かといって、友人と楽しく過ごした記憶も無くしたくはないと言っていた。幸福であるあまり、この国では生きづらい男だ。何も失いたくないと怯える弟に、私は過去を何一つ話せない。ただその願いが叶うよう手を尽くすことしかできない。  弟がその願いのために足掻くことについて、私は協力を惜しむつもりはなかった。家族の記憶も友人の記憶も失いたくない弟は、グレッグの計画を、今度は友人を巻き込まずに行うことにした。後腐れがない赤の他人に協力者を探した。知り合いの知り合いの、その知り合いだと知ればすぐに別の人を探した。  そうしてようやく見つけたのが、アレンという男だった。弟は彼についてようやく私に話してくれた。何度も確かめ、彼に血のつながる人がいないことを知り、ようやく納めるために記憶を作る約束を取り付けてきたというのだ。 「でね、兄さん。前にも話したけど、お願いがあって」 「ああ、わかってる。アレンのことを私も覚えておこう」 「ありがとう」  アレンとのやりとりを納税して、そのまま、約束していたことまで忘れてしまわないようにと、弟は私にもアレンのことを話した。次の約束でまた、二人は初めましてを交わすことになる。その儀式が崩れてしまわないように、私は二人を見守り続ける役目を請け負った。  家族を大事にする弟は、休日の昼間にアレンと出かけ、時間数に満足すれば夕方までには家に帰ってきた。時間が満ちればそのあとは話さない。忘れる分以上の記憶を抱えて、アレンと友人になるのを防ぐためだった。夕食は、兄弟水入らず。弟は納税の日が近づくと、よくアレンの話をした。  どんな話をしたか、どこへ出かけたか。何を食べて、何を買ったか。今度は兄とも行きたいから、忘れないでいてくれと祈るように話すのだ。私はそれを取りこぼすことがないよう、全てを書き記し残している。その願いはただ一つとして叶うことはない。次の納税後に同じ話をする弟に、私は相槌を続ける。  だが、慎重に慎重を重ねて選んだはずの、彼との契約までもが綻んだ。一つ目の兆候は、六回目の納税の数日前のことだった。  いつものように弟に、納税する時間を聞こうとしたときに、弟はそれを拒否した。いつもなら自分から話に来てくれる弟が、そんな風に拒むのは今に始まったことではない。小さい頃から弟は、とびきり楽しかった記憶は忘れたくないと、こうして沈黙して駄々をこねていた。そんな子供のわがままを諭すように口を開こうとしたとき、弟は、アレンの申し出を話し始めた。 「アレンが、僕の分の記憶納税を代行してくれるって言うんだ」 「どうしてそんなことを」 「アレンは僕と全く反対なんだ。アレンは、忘れたいことが多すぎる」 「だからって、なんで他人のお前のためにそんなこと」 「アレンの身の回りには、敵が多すぎるんだ。僕が友人になってからのこと、アレンはずっと覚えてくれてた。僕に、アレンのことを忘れてほしくないって、それで頼まれたんだ。代行、させてほしいって」 「……任せても大丈夫なのか」 「アレンはペナルティのこともよく知ってた。兄さんと同じくらい賢いんだ。僕はアレンを信じる」 「わかったよ、お前のしたいようにするといい」  記憶納税の代行は、それを仕事にする人間も一定数いるほどで、それ自体は罪に問われることはない。だが、一日の中で失っても構わない、一人でいない時間と言うのはそう簡単に捻出できるものでもない。だから大抵は、馬鹿にならない金額が支払われるという前提がある。  使い方によっては遊んで暮らせる大金も手に入るような手段を、アレンがどうして弟のために使いたがるのか理解できなかった。私はすぐに、弟に聞いていたアレンの連絡先にメッセージを送った。なぜ弟にそのようなことを申し出たのか、忘れたい記憶とは何か。翌朝、一番に返ってきた画像だけの返事に、私は全てを飲み込んだ。この国は、不幸な人間の方が生きやすいようにできているのかもしれない。ならば、私こそ。  弟はその後もアレンと会い続けた。アレンとはただ楽しく過ごすようになり、さらにはアレンの身の上の不幸を聞くようにもなった。だがそれ自体も、やがてアレンは忘れていく。アレンの不幸は、二人の会話の、思い出の中だけに残るようになった。そうして、疲弊した顔で弟は帰ってきて、アレンのことを私に話す。血のつながりのない親だから、家族でもないから忘れてもペナルティもないのだと、力なく笑うそうだ。全部忘れてしまいたいと、辛そうな彼に自分ができることは何かないかと、弟は自分に蓄積される悲しい、他人の記憶について私に相談をするのだ。  これについては懸念がなかったわけではない。忘れても構わない他人から、忘れたくない友人へ。これについてはアレンの事情があるために、問題はないように見えた。問題は、それについて弟が手を差し伸べたいと願うことにあった。この国は、不幸な人間が生きやすい反面、優しい人間には生きづらい。弟はいつも、息苦しそうに呼吸をしていた。 「僕、アレンはあまり記憶を失わない方がいい気がするんだ」 「それはどうして」 「だって、アレンの新しい傷がどんどん酷くなっている。きっと上手に避ける方法まで忘れてしまっているんだよ。彼は自分を守るために、必要な記憶は残すべきなんだ」 「そうか」 「不幸から逃げ出して、自然に忘れられるほどになってから忘れるならいい。けれど今は、アレンを守るために、逃げる準備のために残しておいてほしいと思う」 「……うん」 「兄さん、一度だけ、アレンの記憶納税を僕が代われないかな」 「アレンと相談するならいい、が、お前は忘れたくないことが多いだろう」 「だから、一度だけ。アレンをちゃんと逃がすために、チャンスを大事にするから」 「……アレンの分は私が代わろう。その代わり、お前の分はお前の記憶からにしなさい」 「ありがとう、兄さん」
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