忘却ステイルメイト

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4.代償の納税  人の痛みを全て受け止めようとする、弟の信念の強さは、時として心のキャパシティを考慮しないことがネックだった。自分の痛みをそっちのけで手を伸ばせば、やがては限界がくることを弟は顧みない。だから、半分だけの肩代わりのつもりだった。  待ち合わせ場所に行き、三人で話をした。弟の考えと、これから彼がどこへ逃げるべきかを。身を守る術を忘れてしまわないよう、私たちが考えた計画を。 「僕と兄さんとで、必ず君を助けるから。一度だけチャンスをくれないかな」 「どうして、俺にそこまで」 「友達だから」  お人好しの言葉は理解しがたいだろう。目を丸くした後、アレンは俯いてしまった。何度も説得して、彼が信じられそうな言葉を探した。季節外れの分厚い長袖に隠した腕を撫でながら、アレンは必死に断った。一日では頷いてはもらえず、四日ほどかけた頃、ちょうど納税の締切日でもあったその日に、私たちは最終手段に出た。自分たちの未納を人質にかけたのだ。未納もまた、ペナルティがあることを知っていた彼はようやく首を縦に振ってくれた。無事にアレンの意地を折ることに成功した私たちは、時間ギリギリの役所に駆け込んだ。  これが失敗だった。アレンの代理として私が手続きをしている間に、弟は自分の分を済ませていた。手順はあらかじめ伝えていたから不備はない。だが、どの記憶を納めるつもりだったのかを私は確認しなかったのだ。弟はまた、私のせいで大きな記憶を失うことになった。  アレンを客室に連れていき、さてこれから手続きに忙しくなると、一緒にもらってきた資料の束を一瞥して苦笑いする。少しは弟に手伝わせてやろうかと、夕食の準備をしていた彼の元へ半分ほど持っていき、テーブルに並んだサラダの傍に置く。 「お前が言い出したことだからな、手伝ってもらうぞ」 「うん、わかってる。任せてよ」 「できるか?たくさん難しい文を読むことになるぞ」 「子ども扱いしないで、ちゃんと頑張るから」  少し焦げたステーキを皿に盛り、テーブルの上を圧迫していく。客が来ることなどなかった、広いだけだったはずの夕食の席は、これから少しの間賑やかになりそうだ。 「こっちがお前の分だ。小難しい部分は気にしなくていいから、アレンとアレンの家族との接触についての文面だけしっかり読んでおいてくれ」 「うん」 「今日のことだけはアレンには忘れないよう、よく言っておかないとな。彼が諦めれば、私たちに手出しはできなくなるから」 「うん」 「ああ、わからないことがあれば後回しにしてくれて構わない。あとで私も手伝おう」 「……うん?」 「荷が重いか?できる範囲で構わないよ」 「これをしっかり読めばいいんだね?大丈夫だよ」 「ああ、頼んだよ。そろそろアレンを呼んできてくれるかい?」 「……アレン、は客室にいる?」 「ああ」   ワインを開け、少しは気が晴れるかと三人分のグラスを満たす。そういえばアレンの年はいくつくらいなのだろうか。よもや未成年ではないだろうが、席についてから聞けばいいかと一応の代替のためにジュースを出しておく。  いくらか時間のかかった二人は、随分暗い顔つきでリビングに戻ってきた。こんな日になんて顔をと、何があったか問うより先に、弟が口を開く。 「兄さん、この人兄さんのお客さんだよね?」 「え……」 「あの、これは一体、どうして」 「なあ、お前、今日いったい何の記憶を納めたんだ?」  手に持っていたぶどうジュースが滑り落ち、足元に赤黒い水たまりを広げていく。スリッパに染みて、じんわりとした冷たさを感じても私は動くことも、何かを言うことも叶わなかった。  びちゃびちゃになったスリッパを放り出して、弟の部屋にあるであろう、証明書を探した。引き出しにあったのはアレンと話した事柄のメモの束と、折れた証明書。何日分かの記憶を細かく分けていたが、それらの時刻を見て理解する。平日深夜の、二時から五時まで。  弟なりの考えだったのだろう、ペナルティに関わることを説明しなかったことを後悔しても遅い。どこまでの時期かと、どれほどの事柄を忘れたのかを確かめなければと、リビングに戻ろうとした瞬間、階下から大きな物音が響いた。 「どうして、君のことを思いだせそうなのに、どんどん忘れていってしまうみたいだ……!」 「落ち着いて、俺は」 「君はアレン!僕の友達で!でもどうしてここにいるの?どうして僕は忘れていくの!君が代わりに納税してくれたせい?僕にペナルティが降りかかっているの?君のせいなんじゃないの?君は、誰なの?」  絶句するアレンを椅子に座らせ、弟を落ち着かせようメモの束を弟に渡す。おそらくはアレンとのことを忘れないよう、自分でも日記を書いていたのだろう。何度も文字をなぞり、私とアレンの顔を交互に見やる。ぼろぼろと大粒の涙が零れ、顎を伝い床に落ちる。力なく首を振り、弟はそのまま気を失ってしまった。昔、私が失敗したときと同じ様相だった。 「……あの、俺は」 「ああ、わかっているとも。私の責任だ」 「え……」 「弟の納税はいつも私が一緒に引き受けていてね。ペナルティなんかについてはあまり詳しくないんだ」 「それじゃ、今日のことで」 「どうやら寝ている時の記憶を納めたらしい。一人でいるときの記憶はダメだと、伝えていなかった私のミスだ」 「すみません……俺が、彼と関わってしまったから、こんなことに」 「君のせいじゃないよ。この国は、弟みたいに優しい人間が少し生きづらいだけだ」 「……」 「食事は部屋へ持っていてもらって構わない。床が汚れてしまったからね。客室に戻るといい」  水溜まりの傍に倒れ込んだ弟を抱えて、部屋へと連れていく。薄い色の髪がジュースで染まっているのが、まるで血に染まっている致命傷のようで皮肉的だった。タオルで少し拭って、握りしめたメモの束を、リビングに戻ってゴミ箱に放り投げる。見れば手付かずの食事と、床の水溜まりだけは綺麗に跡形もなく掃除されていた。アレンは、部屋へ戻ったらしい。  アレンのために用意した資料の山は、ファイルにきちんと納めて棚へとしまう。もう随分と増えてしまった記録の束は、私が思い出せないことも字列で残されている。実感のない事実をなぞる。いつまでも続くこの日課は、棚のまだ空いているスペースが終わりのないことを告げている。だがそれも、忘れてしまえば一時の苦労だ。記憶は記録になり、私の中に残ることはない。 記録の束から三冊、最近のファイルを取り出して、弟がアレンと関わっていた時間帯を確認していく。弟が苦しんで悲しんだ、今日のことも次で納税しなければ。アレンと弟が関わっていた時間帯を細かく計算して消していき、あのペナルティは私のせいにしなければ。あまりにお前が出かけないから、時間数が足りなかったと。一人の時間の納税も、ダメだと改めて教えなければ。そうすれば、困ったようにまた弟は許すだろう。  あと何人、友人を失っても弟はまたアレンのような友達を作るだろう。苦しみたくなくて、失ってもいい記憶のためだけの相手を友人にするほどだ。小学校の頃の友人は、もう根絶やしにしてしまっただろうか。そんなことも、忘れてしまえば苦しむこともないのだから、やはり弟は幸福な男だと私は思うのだ。愚かで優しく、お人好しで悲しい、幸福な私の弟。この国で最も生きづらい男を、私は生かさなければならない。  翌日、客室にアレンの姿はなく、ベッドに一枚の手紙が残されていた。自殺を仄めかすその手紙には弟の幸福を願う一文が添えられていた。自殺のペナルティも彼は知っているのだろう。起きてきた弟に見られないよう、そっと破りキッチンの火にくべる。昨日徹夜した納税の予定は、どうやら不要になったらしい。 「兄さん、昨日の人についてなんだけど……」 「アレンなら出ていったよ」 「え、そ、そっか……あの人、何しにここへ来てたの?」 「お前が羨ましかったそうだ」 「うん?」 「お前のような幸せな人になりたかったと、言っていたよ」 「兄さんは、あの人のこと覚えてるんだよね」 「ああ」 「僕とも関わってたよね、あの人」 「ああ」 「……そっか。僕はまた無くしたのか」 「……」 「兄さんはいいなあ、頭がいいから、ずっと全部覚えていられて」 「そうでもないさ」 「兄さんでも忘れることがあるの?」 「ああ、お前が死んだら、もっと失うだろうな」 「自殺したら、死んだ人の記憶はこの世から無くなるんでしょう?……それもペナルティ、なんていうのかな……とにかくしないよ、絶対」 「ありがとう」 「二人しかいない家族だもの、当たり前だよ」  天気のいいその日は、窓の外では鳥が鳴き、テレビからは流行りのドラマのチープなセリフが流れていた。毎週楽しみにしているらしい弟は、泣き腫らした目をこすりながらいそいそとソファの前に座って、熱心に画面を見つめていた。
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