あと5分は生きている

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あと5分は生きている

 私には一日の時間があと5分足りない。  夜11時55分がくるとまだお客さんを残したまま劇場の幕が下りるように私の意識は5分間停止した。その時間、私は舞台に立つ演者でいるわけにはいかなかった。客席でブーイングを送るお客さんに紛れて、眠っていることにしなければいけなかった。 「亜希子は11時55分、人前にいてはいけないよ」  物心ついた頃から母に固く強く言われて育った私は、早く寝る人間になった。みたい深夜ドラマもみられなかったし、友達の間で流行った夜の長電話にも参加できなかったけど。私の意識が拒絶しているのだと自分を納得させた。 「あなたは完全なる無防備になるんですから」  眠っていることにすればいい。そうすれば誰も不思議に気づかない。あなたは普通の人間でいられるの。母は深夜に無防備な若い女が引き起こすかもしれない危険なリスクを取扱説明書のあり得ないミスの数々みたいに並べてくれる。 「タクシーで5分、ドライバーは人気のない路地を知ってます」 「居眠りだと思うわよ」 「お友達と行ったキャンプで5分、顔に落書きで済んだら御の字過ぎて宝くじが当たらなくなります」 「亜希子疲れてるのよ、ほっといてあげよう、って言うと思う」 「運転中の5分、死、です、親より早く死んだらあの世のランチにデザートがつきません」 「免許は取りたいけど、あの時間に運転するほどの馬鹿だと思われてるの? 私」 「男は狼、おじさんもおじいさんも年取った狼、女は狼の手下です、ヤギはこの世にいません。いるのはヤギの皮被った狼とその手下だけです」  と、母は最後にはエキサイトして自分でも言葉の返り討ちにあいながら赤面して言う。 「兎に角、あんたは11時55分、起きてちゃいけない。絶対に寝ていること」  母の教えに従ったわけじゃない。  5分間の寸断を誰より恐れていたのは私だった。  自分が止まっている間、過ぎている時間。  動く絵、に役名のついた自分がフレームからはみ出していく。  自転する地球が降りた乗客の存在すら無視をする。  5分間、私はいないことになっている、空っぽの体だけ残して。 「何を言っているの?」  初めて母に説明されたのはいつだったろう。 「誰も知らないことよ、あなたと私だけの秘密。お父さんにも言ってはダメ。あの人は私には元他人なんだから、おっかないんだから」  私は小学生になっていたのかな? 母は言葉の対象年齢をみ間違えているな。  5分間意識を失くす、と言われても信用しない私に、母はビデオを回した。 「一緒にテレビをみましょう、NHKの生放送よ。ズルはできませんからね」 「わーい、九時過ぎても起きてていいの?」 「実験だから、やむを得ないの」  11時55分からの5分間。再生されたビデオテープの自分はホラー映画の人形みたいに目が動いていなかった。母のカメラワークが喜々としてフンフンと少し鼻歌まで混じっていた。 「違う違う、そんなことするわけないでしょ、馬鹿、鼻息よただの」  母はそう言って誤魔化していたけれど、あれは間違いなく歓喜の態度だった。  今なら少し、理解できる。  母はあの日、肩の荷を降ろしていたのだ。  ついつい、軽やかになった分、心が浮ついたのだろう。 「亜希子は今、ここにいないの」  母が大袈裟に私の顔を撫でてみせても、ビデオの私は虚ろに空っぽだった。 「これでわかったでしょう」  母に言われなくても、ビデオをみた私は子供ながらに合点のゆくことだらけに襲われてしばらく放心していた。  切れた輪ゴムをみると悲しくなること。 「どこに行ってたの?」という台詞ばかり鮮明な夢を頻繁にみること。 「24時間テレビ」を中学生になったら全部みる!! という宣言が父を笑わせても、母は笑わなかったこと。  夜に目覚めて一人で行けたトイレで長い長いオシッコをしたこと。 「私は、11時55分に人前にいてはいけない」 「そう」  なぜ、そんな奇妙な体質が私に間借りしたのか。  それは医学的に説明のつく病、なのか。  私と同じ症例はあるのか。  年齢を重ねるごとに論理的な疑問は幼さを殺してやってきた。  でも、私は何も調べなかった。  ただ、私には24時間が5分少ない。それは身長や国籍みたいに努力ではどうもできない神様の分配であって、まだ対処のしようがあるだけやさしい、と思うことにしていた。 「お爺ちゃんに話す?」  18になった私は地方の国立大学に合格した。うちを出て、お爺ちゃんが一人で暮らす母の実家から通うことになった。 「だって大学生よ? 高校生活だってPMなんてあだ名つけられちゃって」 「PMちゃんいますかって電話、正直ムカツイてたわ」 「いや、それほど悪意はないのよ、友達の親にまでそう言うってことはそれだけ馴染んでるってことで」 「いいえ、非常識だわ」 「もう、蒸し返さないで、大学生なんだもの。大人の準備なんだもの。11時55分に意識を失う私を繕うために、協力者が必要よ」 「変なサークル入るんじゃないわよ」 「お母さん!!」 「いいわ、父さんにおっしゃい。大丈夫。父さんなら、おかしなことにはならないわ。ま、5分間ふやかして目に入れる、くらいのことはするかもしれないけど」  母は真顔のまま、眼鏡の中の目をちょっとみ開く。面白いことを言ったつもりなんだ。母の癖だった。 「目に入れても痛くない、うん、お爺ちゃん大好きよ、私。私が大好きなら、大丈夫だって思うの」 「そうね」  冗談がうけなかった母は必ず、眼鏡のフレームを摘まんで上げる。異常なほど指に力を入れて。歯ぎしりの代わりなのだろう。  お爺ちゃんとの生活は私にとって大学生活のブレーキだった。時に危なっかしさをスピードで無茶する大人準備の大学生活に、粘着の油を差すように。 「ゆっくりいけぇ」 「速いと怪我するぞぉ、爺ちゃんの頭に毛がないぞぉ」  ツルツルピカピカの頭を自慢気に、撫で上げて、「楽ちんの極み」と大らかに笑うお爺ちゃん。 「今日から私は亜希子の飯炊きジジだ」  と、お婆ちゃんの遺した割烹着を着て、年に似合わない料理を出してくれた。ハンバーグにはチーズが入っていたし、庭で獲れたトマトはモッツァレラチーズとバジルを従えて出てきた。 「料理本買わなくても料理番組で十分だよ、テレビは他にやることないみたいだな。上沼恵美子は誤解されとる、ありゃ本質悪い人じゃない」  お爺ちゃんは料理番組に出てる芸能人と、時代劇役者を毛生え薬より信じていた。 「コウケンテツみたいな彼氏連れておいで、もこみちでもまぁ、許そう。料理好きに悪い奴はおらんで」  朝、通学前の洗濯が私の仕事。 「雨が降らなくても、乾いたと思ったら取り込んでよ」 「うん、行ってらっしゃい」 「行ってきます」  お婆ちゃんが亡くなって、萎んでいたお爺ちゃんの魂袋がパツパツに膨らんでいた。 「若い後妻もらって、もう」  ご近所の仲間にからかわれると、お爺ちゃんはこう返していたそう。 「貰ってもらったのは私の方だ」  って。お爺ちゃん大好きだよ。  お爺ちゃんに5分のことを話した夜。  私たちの5分は廊下の柱時計も共犯に家をゴトゴトとずらしてしまった。NHKをつけても、地震の速報はいつまでも入らなかった。 「葉子は、亜希子が一人前になったら話すと言ってた」  お爺ちゃんは髭の泡を舐めて顔をしかめた。五月の夜風がレースのカーテンを膨らませては、また引っ張っていった。 「5分の理由だ」  母は私がお爺ちゃんに話すと言ったとき、まだ私を半人前と思っていたのか、それともお爺ちゃんから話す方がいいと思ったのか。  私に足りない5分の真相を、私はお爺ちゃんから聞かされた。 「5分、亜希子は前借りしたんだ。命を。私はあの日、カメラ係で分娩室におった。孝之君が転勤中だったから」 「命を前借り?」 「5分間、産声をあげんかった。私も息ができなくなって、倒れたんだ、壊れたカメラはボーナスで買った高級品だった」 「まぁ、いつか弁償します」 「いいよ」 「ならなんで言うのよ」 「冗談だ」 「笑えない冗談で目をちょっとみ開くのは遺伝なのね」 「ん?」 「いいの、話を続けて」 「私は、亜希子の誕生した翌日から余計な5分を生きている」 「はい?」 「24時間、日を跨いでから5分、世界が静止した中で、動いている」 「私の、反対?」 「私にもよくはわからない。ただ、あの日5分が動いた時間であったら、亜希子はここにいなかったかもしれない。あの日、亜希子の時間は止まっていたんだと思う。生きるために」 「お爺ちゃんの5分を借りたの?」 「いやぁ、そこがよくわからない。結果亜希子は24時間から毎日5分を失い、私は毎日5分を余計に貰った。変な話だ」  お爺ちゃんは眉毛に汗をかいていた。指で触ってペロリ、舐めてはビールを飲む。 「それ、人前でやらないでくださいよ」 「ああ、婆さんにも言われた、遺伝かな」 「一緒に暮らすってことはそういうことなのよ」 「一緒、そろそろ遺書も書いておかないとな」  お爺ちゃんは目をみ開かなかった。 「変だよね。生きるための5分間。それを前借りした私が毎日払うのは、まぁわかるとしても、お爺ちゃんの5分は、なんなのかしら?」 「はて、ねぇ」 「でも凄い、お爺ちゃん超能力者じゃない、いいことも悪いこともし放題よ、女湯行った?」 「馬鹿なこと言いなさんな」 「ええー、それぐらいする方がいいじゃない、私看護目指してる友達に聞いたよ、長生きするのはスケベジジババだって」 「みーんな、止まっとるんだ。寂しいよ。寂しいから、じっとしとる。じっとして、仏壇に線香をやるんだ、そうすると5分はあっと言う間だ。時間が動き出すと、線香は凄い勢いで白くなる。今度、みせてあげよう」  本当だった。  お爺ちゃんの5分はお線香をみるみる灰にし、テーブルに置かれていなかったお夜食を登場させた。 「美味しいか? でももうしないよ。5分、便利なことに使うと罰が当たりそうだ。宝くじ以外には当たらない方がいい」 「うん、キュウリの肉巻きなんて、ビックリ。美味しいのねぇ」 「だろう、裏の谷本さんに教わった」 「谷本さん、後家さんの?」 「うん」 「ヒューヒュー」 「えへへ」 「便利なこと、か、そうねもし、お爺ちゃんがなろうと思えばスーパーマンにもなれるのよ。世界を破壊する悪魔にもなれるかも、お爺ちゃんは凄い人だね」 「分娩室で息できなくなって倒れただけなんだけどなぁ」 「私ねぇ、わかったかも」 「うん?」 「SF小説だと、ここでね、時間管理人が登場するの。無機質なスーツにサングラスで均一的な模造人間の一個として。名前は時司さん」 「ときをつかさどる」 「ご名答」 「ありがとう」 「時さんは現れないけど、私に5分を貸してくれたのはやっぱりお爺ちゃんだったんじゃない?」 「ああ、単純に貸し借りしているってこと、でも、世界を巻き込んでいるぞ、私の5分の世界は一個の命に釣り合わない」 「そうね、でもだから、お爺ちゃんは女湯に行かれないのかもしれない。大それたことには5分を使えないように、なっているのかもしれない」 「今度、行ってみようかね、女湯」 「できないよ、きっと」 「報告はしないよ」 「うん」 「でもわかった」  お爺ちゃんは肉巻きキュウリの汁で割烹着に染みを作って、ビールを一口飲むと、言った。 「これからの5分。亜希子と私の時間にしようと思う」 「私たち、二人の?」 「ああ」  5分。お爺ちゃんは点描画を描き始める。 「七十の手習いだ、出来上がりに期待はしないでくれ」  照れていたけれど、お爺ちゃんの絵心は相当なものであることは床の間に飾られた絵でバレていた。学生時代は油絵に凝っていたらしい。  お婆ちゃんの遺した浴衣。  お爺ちゃんに買って貰った雪うさぎ柄の雪駄。  お爺ちゃんのツルツル頭。  二人が花火をみ上げる横顔。  賑やかな夜店、人、人、人。夜空に、大輪の花火。色が正確に等間隔で空に投下されている。  5分ずつ、5分ずつ。 「途中ではみない方がいい?」 「いやいや、成果をみておくれ」  私は毎日増えていく点が描く絵を、涙じんわり溜めながらみていた。  5分ずつ、5分ずつ。  生きていた。 「朝顔の柄が面倒くさい」 「お婆ちゃんの浴衣でしょうが!!」 「ツルツル頭は楽ちんの極み」 「帽子被ればカッコイイのに」 「蒸れて暑いからいらない」  私のいない5分。いることにしてくれた5分。点、点、点、点、点、点、点、点……。   「お爺ちゃんと、二人にしてください」  点描画の完成も間もなく、というとき、お爺ちゃんは病室で最期を迎えた。主治医の先生と私を残し、病室は時間が止まりかける。 「亜希子に貰ってもらった、3年半、私は幸せだった」  もう、涙は枯れるほど流していた。握った手に冷たい血管が弱く弱く脈打っていた。  病室のレースのカーテンが風もないのに少し、揺れた。  布団の下に隠した完成間近の点描画を遺言どおりに抱かせてあげる。横顔の私の目が、まだ、ない。  それ以外は完成された見事な点と色の花火。 「一昨日まで描いてた、不思議と5分は息がしんどくない、腰も痛くない心臓も慌てない」 「うん」 「亜希子、5分間をどうもありがとう」 「どういたしまして」  どういたしまして。私はそう言って、お爺ちゃんを送った。目をちょっとみ開いて。  先生が脈を診る。  病室に家族が戻ってきて、涙のさようならとなる。  時刻は11時50分。母が私に耳打ちする。 「あんた、寝てないと」  目が赤く、うさぎのようだった。 「もう一度、お爺ちゃんと二人にしてくれませんか、10分でいいんです」  10分でいいんです。  お爺ちゃん。  描き残していった。  最後の5分。  点、点、点、点、点、点、点、点……。  私の止まっている時間が終わって、目を開くとそこには花火をみ上げる私とお爺ちゃんがいた。              
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