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ドリンクバーの薄いお茶をすすりながら、俺は窓の外に目を向けた。
現在、23時55分。
8月16日が終わるまで、あと5分。
「来るわけがない」
今日一日だけで、数えきれないほど呟いた言葉。
それなのに、俺は向かいの──暗闇のなかの公園を確かめずにはいられない。
5年前の8月16日、俺はある男と約束をした。
あの公園で、果たされるはずのない約束を。
「……は? 今なんて?」
「だからぁ、好きになっちゃったってば! お前のこと!」
だから、付き合って! 俺と!
そう言って、暗がりでニカッと笑ったあいつ。
水城秋生。
俺と同い年の、バイト仲間。
しかも、男。
どこをどう見ても、ただの男。
「いや、そんな軽い感じで言われても……」
「軽くない。俺、すっげー本気」
「いや、でも……」
付き合うって?
男同士で?
なに言っちゃってんの、こいつ。
ああ、もしかして暑さで頭をやられたとか……
「違ーうっ!」
やば、どうも心の声が口から洩れていたっぽい。
「頭おかしくない! そりゃ、俺、バカかもしれないけど」
だよなぁ。
昨日もバイト中に「なあ、カフェラテのホットって熱いヤツ? 冷たいヤツ?」って、俺んとこに確かめにきたくらいだもんなぁ。
──なんて現実逃避をはじめた俺に、いい加減、秋生も焦れたらしい。
「聞いて! とにかく好きになった! アオのこと」
「……ふーん」
でもお前、少し前まで「おっぱいの大きい女の子が好き」って言ってなかった?
俺、おっきくないよ?
当たり前だけど、ぺったんこよ?
「……………いい。ぺったんこでも」
ほら、今、結構ためらっただろ。
わかるよ、おっぱいは浪漫だ。俺も好きだ。
もっとも俺はサイズよりカタチ重視派だけど。
──いや、そうじゃなくて。
「とにかく落ちつけ、秋生」
今、ここは野外だ。
しかも、夜だというのに気温は37度を超えていて、つまりは「うだるような熱帯夜」ってやつで──
「わかった。とりあえず2ヶ月待て」
「なんで?」
「それで元に戻る」
「戻るって?」
「目が覚める」
10月になって、涼しくなれば。
うだるような熱帯夜が遠ざかりさえすれば。
なのに、秋生は「なんで」と首を傾げた。
「意味わかんない。なんで目が覚めんの? 俺、起きてんのに」
「いや、そういう『目が覚める』じゃなくて……」
我に返るのだ、絶対に。
だってお前、女の子が大好きなはずだし。
実はめちゃくちゃモテるってこと、俺、ちゃんと知ってるし。
「とにかく、やめろよ。おかしなことを言うの」
期待させないで──これ以上溺れさせないでくれよ。
どうか、頼むから。
「……わかった」
秋生は、うなだれた。
どうやら、ようやく俺の言葉を受け入れる気になったらしい──
「じゃあ、証明する」
前言撤回。
「秋が来ても冬が来ても、春が来て、また夏が来ても、俺の気持ちは変わらない」
「いや、それは……」
「絶対に変わらない! だから……」
秋生は、パーに広げた右手を俺の前に突き出した。
「5年」
……は?
「5年後の今日、ここでアオにもう1回同じことを言うって約束する!」
だから、来て。
5年後の8月16日、この公園に。
◇◆◇◆◇
ぬるいお茶が、喉をすぎていく。
時刻は23時56分。
今日が終わるまで、あと4分。
(……バカみてぇ)
あれから5年。
まさか、自分があの約束を覚えているとは思ってもみなかった。
(絶対忘れるつもりだったのに)
だって、そのための努力はしたんだ。
あの約束のあと、俺はすぐさまバイトを辞めたし、メッセージアプリのあいつのアカウントも速攻でブロックした。
つまり、あいつの存在そのものを、完全にシャットアウトした。
だって溺れたくない。
一時の感情に流されて、不毛な恋に足を突っ込みたくない。
──なのに失敗した。
しかも、俺だけが。
(だって、想定外だろ)
あいつが芸能人になるなんて。
そのことを知ったのは、例の約束から2年後のこと。
俺は、馴染みの定食屋でさんま定食をつつきながら、お昼の情報番組を観ていたのだけれど
『はじめまして! 水城秋生です!』
ゴホッ、とお茶を吹きそうになった。
いや、本当のことをいうと、実際に吹いてシャツの胸元を少し汚した。
だって、驚くだろ?
なんであいつ、テレビにでてんの?
「あっ、水城秋生じゃん」
「昨日のドラマ、よかったよねー」
隣の席の女性たちの会話が、俺の頭にインプットされる。
──ドラマ。昨日のドラマ。
え、じゃあ、俳優? あいつが?
(いやいやいや)
ないでしょ。ないない。
あいつ、セリフを覚えられるほど頭良くないし、芸能界に興味あるなんて聞いたことなかったし。
とか言いつつ、スマホの検索バーに文字を打ち込んでみた。
み・ず・し・ろ・あ──
この時点で、変換候補に「水城秋生」が出てきた。
マジか。
あいつ、そんなに有名人なの?
動揺しつつも、検索続行──
(……うわ)
結果は、えらいことになっていた。
「水城秋生」でヒットした記事はもちろんのこと、検索バーの下にずらりと並ぶ「水城秋生 彼女」「水城秋生 恋人」「水城秋生 炎上」──
「はぁ……」
えらいこっちゃ。
あいつ、マジで俳優なんだ。
あの頭が沸騰しそうな熱帯夜に、俺に「付き合って」と笑顔を見せた男が……
◇◆◇◆◇
最後のひとくちを飲み干して、俺はマグカップをテーブルに置いた。
23時57分。
あと3分で日付が変わるというのに、約束の公園に人の姿はない。
まあ、当然か。
売れっ子芸能人は、仕事も忙しいだろうし。
(それに、今はプライベートだって……)
そこまで考えたところで、ずん、と胃が重くなる。
脳裏に浮かんだのは、一週間前、通勤中に見かけたつり革広告の一文。
──『結婚間近!? 水城秋生、豪邸購入』
(ほんと、滅びろ……ゲス週刊誌め……)
しつこいようだけど、俺だって忘れる努力はした。
ネットもテレビも、見るのは最小限。
SNSでは、あいつの名前をミュートワードに登録。
それでも「水城秋生」は俺の前に立ちはだかる。
広告で、ゴシップ好きの同僚たちの噂話で、あるいはコンビニの入り口に置いてあるスポーツ新聞の見出しで。
これはキツい。
これじゃ、いつまでたってもあいつのことを忘れられるはずがない。
(むしろ『忘れるな』って言われているような……)
──いや、これはさすがに言いがかりが過ぎる。
あいつはそんな理由で芸能界入りしたわけじゃないだろうし、そもそも俺のことを覚えているかどうかすら怪しい。
(だって、違いすぎるだろ)
立っている場所が。
取り巻く世界のきらびやかさが。
俺がファミレスの薄いお茶で腹をタプタプにしているとき、あいつはシャンパンとかワインとか、そういうのを開けているんだ。おそらく。
(昔は、バイト先のロスフードをふたりで分けあったのに)
サンドイッチにカルツォーネ、お気に入りだった4種のチーズのパニーニ。
(でも、夏野菜シリーズだけは、あいつは食えなくて……)
ああ、くそ。
耳奥に、あいつの声がよみがえる。
──「パプリカ、嫌い。アオが食べて」
なんだよ、なんでこうも鮮明に覚えているんだよ。
お前は、俺のことなんて忘れちまったくせに。
覚えていたとしても、どうせ「黒歴史」くらいに思っているくせに。
伝票を手に、のろのろと立ち上がる。
23時58分──約束の日が終わるまであと2分。
ああ、もういっそ、この2分間だけ3倍速で時を刻んでほしい。
頼むよ、8月16日。
どうか、さっさと終わってくれないだろうか。
◇◆◇◆◇
「30円のお返しでーす。ありがとうございましたー」
気怠げな店員の声に送られて、俺はファミレスをあとにした。
23時59分──あと1分。
たぶん、この横断歩道を渡ってゆっくり園内を歩いているうちに、今日という日が終わるはずだ。
(バカみてぇ)
5年だ。
5年──1820日。
いや、うるう年があったから1821日か。
それだけの歳月を経ても、俺だけがバカみたいに覚えている。
あの約束も、あの日々も。
あいつの声も顔も、何度も何度もシャットアウトしたのに。
(だから嫌だったんだ)
好きだ、なんて言われたくなかった。
期待させないでほしかった。
そうすれば「一時的な感情のバグ」として、さっさと片付けられたはずなのだ。
(そうだ、所詮はバグだ)
ほんの一瞬、お互い、おかしなスイッチが入っただけの──
あの瞬間のことは、今でもよく覚えている。
秋生から「好きだ」と告げられる数日前。
バイト終わりに飲みにいった俺たちは、うっかり終電を逃して「やべぇ、暑すぎる〜」と笑いあいながら、同性同士OKのラブホにチェックインしたのだ。
「やばい。ラブホやばい、超やばい」
興味津々で室内を探検するあいつをよそに、俺はしょっぱい気持ちでベッドを眺めていた。
まずい。思っていたよりも小さい。
案の定、ふたりで潜り込んだらぎゅうぎゅうになった。
「やばい、足はみでる」
「それくらい我慢しろよ」
「無理! 俺、冷え性だし」
秋生は、涙目になりながら俺に足を絡めてきた。
「ちょ……っ、やめろよ。キモい」
「いいじゃん、アオあったかい」
「バカ! すね毛、絡まるだろうが」
「平気! 足出すほうが無理!」
そこから、組んずほぐれつ──いや、押し合いへし合いと言うべきか。
でも、楽しかった。
バスローブがはだけ、布団がベッドから落ち、それでも俺たちはただただ笑っていた。
だって、こんなのじゃれあいみたいなものだから。
距離の近さを、意識する必要もなかったから。
なのに──
「あ、発見!」
俺の上に乗っかっていた秋生が、いきなりグッと顔を近づけてきた。
「すごい……アオ、まつげ長い!」
「あーそれ、よく言われる……」
「触りたい」
「は?」
「触ってみたい! 触らせて!」
──いや、そんなキラキラした目で見られても。
たいしたものじゃないのに、と思いつつも、俺はひとまず目を閉じた。
(うわ……)
鼻先に息がかかった。
まさかとは思うけど、こいつ、興奮してんのかな。
(ああ、でも……)
秋生って、わりとすぐに興奮するところがある。
バイト先で初めてラテアートを成功させたときも、10連勤をやりきったときも、なんかやけにテンションが高かった。
(ほんと、お手軽なヤツ)
でも、まさか、まつ毛を触るだけで鼻息が荒くなるって……
(やばい。笑いそう)
だからだ。ちょっとからかいたくなったのは。
まつげに触れられる寸前で、俺はわざと片目をあけた。
「おねがい、優しくしてね、秋生クン」
──返事はなかった。
かわりに、あいつは生唾を飲み込んだ。
「エロ……」
「は?」
待て待て。
今、なんて言った?
そりゃ、ここはそういうホテルだけどさ。
違うだろ。
俺たち、ただのバイト仲間だろ。
不覚にも身の危険を感じた俺は、秋生の下から逃げだそうとした。
なのに、あいつは全体重をかけてきた。
「おい……っ」
「わかった、優しくする」
──へ?
「アオのこと、好きだから優しく触る」
いやいや……なんだよ、それ。
好き、ってそういう意味じゃないよな?
親愛の意味の「好き」だよな?
けれども、俺が確認するよりも早く、あいつの手がのびてきた。
(うわ……)
やばい。
なに、この手つき。
普段はもっとガサツなくせに。
秋生は、ひどく生真面目な顔つきで、ゆっくりと俺のまつげをなぞっていく。
おそらく、とびきりの──あいつの思う「優しさ」を、すべて指先に動員させて。
(やばい……)
これはやばい。
うまく息ができない。
まるで、初めて好きな子とキスしたときみたいに俺はずっと息を止めていて、なのに俺の心臓は100メートル走のあとのようで──
(ああ、くそ)
こんなのはバグだ。
ただ、雰囲気にのまれているだけだ。
(こいつの、手つきが優しいから)
きっと、ただそれだけのこと──
◇◆◇◆◇
ピピッ、と小さくアラームが鳴った。
現実に引き戻された俺は、のろのろとスマホのディスプレイを確認した。
時刻は0時0分。
日付は──8月17日。
(ほら見ろ)
わかっていた。
あいつが、あの約束を覚えているはずがないって。
(もうすぐ結婚するんだもんな)
それでも、ここに来るしかなかった。
今度こそバグを修正しろ、と自分に言い聞かせる必要があった。
(じゃないと忘れられない)
この5年を。
忘れるつもりで忘れられなかった、あいつとのいくつもの思い出を──
「いたーっ、アオーっ!」
どすん、と何かが背中にぶつかった。
「遅い! 俺、5時間も待ってたのに!」
……え?
「そこの、遊具んとこ! 隠れてずーっと待ってたのに!」
いやいや──待てよ。
まさか……いや、だってこの声──
身じろぎひとつしない俺に業を煮やしたのか、体当たりしてきた男はついに正面に回りこんできた。
「なあ、アオ……聞こえてる?」
ああ、聞こえている。
でも今、それ以上に混乱している。
「アオ……俺だよ? 秋生だよ?」
わかってる。
「あ、もしかして……寝ちゃってるとか?」
寝ていない。
寝てたら、どうして今ここにいるんだよ。
「お前……」
「あ、喋った!」
「お前、なんでここに……」
「え?」
だって約束の日じゃん、と当然のように秋生は笑う。
「俺、守ったよ。な、嘘じゃなかっただろ」
「いや、待て」
嘘つくなよ。
お前、ゲスな週刊誌にすっぱ抜かれてただろ。
「豪邸購入……」
「ああ、うん! 家、買った!」
ほら、見ろ。
「おっきなベッドも買った! だからもうアオと一緒でも狭くない!」
……は?
「あとはテレビと、テーブルと、ソファと、冷蔵庫と……」
いやいや、待って。
ちょっと整理させろよ。
「豪邸を買ったのは……」
「ほんと!」
「結婚間近は……」
「アオのこと!」
はぁぁっ!?
「なんで? 俺とお前が?」
さすがにおかしいだろ。
この5年間、俺たちは一度も連絡を取っていなくて。
それでも俺は一方的にお前を知ることができたけど、お前は俺を見かけることすらなかったわけで……
「え、見てたよ、俺」
「いつ!?」
「ええと……一昨年のファンミ?」
……げ。
「あと、去年の映画の舞台挨拶と……暮れのドラマ撮影のときと……あとは、ええと……」
「わかった、もういい! もういいから」
でも、少しだけ弁解させてくれ。
ファンミーティングと舞台挨拶は会社の同僚がチケットを余したから付き合いで行っただけだし、ドラマ撮影のエキストラはお前じゃなくて他の女優が目当てだっただけで……
「でも、一度も見かけなかったとしても、俺、ここに来たよ」
秋生は、ペカッと笑った。
「だって約束したじゃん。5年経っても、俺はここでアオに同じことを言うって」
(……ああ、くそ)
やばい。まぶしい。
芸能人オーラ、半端ない──
(いや、嘘だ)
本当は、芸能界なんて関係ない。
5年前の今日も、あいつは無駄にキラキラしていた。
少なくとも俺の目にはそう映っていた。
(ラブホのあのときから、今日の今日まで、ずっと……)
「なあ、アオ。返事は?」
待ってくれ。
そんなに急かさないでくれ。
だって、まだ頭がふわふわしているんだ。
こんなの夢だって。
あるいは、熱帯夜で頭がぼんやりしているせいだって。
だから、待って。
心の準備をするから。
このあと目が覚めても平気なように。
熱帯夜のせいにできるように。
(ああ、でも……)
もし、これが現実で、お前がハッピーエンドを携えて5年ぶりにここに来てくれたというのなら。
それを信じることを、許してくれるというのなら。
「ごめん、秋生。あと5分待って」
今度こそ、恋に溺れる準備をするから。
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