残り時間の数え方

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「あと5分もある」  そんな呟きが隣から聞こえて、チラリとそちらを見やった。上品なラベンダー色のワンピースをまとった女性が、ポットから自分のカップへお茶を注いでいる。  平日の昼下がりの喫茶店には、商談中のサラリーマンや、一目でフリーランスのライターか何かと分かる若い男、そして自分と、一つ空けた隣の一人用のテーブル席にいるその女性しかいなかった。 ――どうせ子供のいない有閑マダムだろう。優雅なご身分で結構なことですね――  仕立ての良い、明らかにブランド物と分かる服の下から覗く手足は白くつやつやと輝いている。上品にティーカップを摘まみ上げる指先には、鮮やかな真紅のマニキュアが艶めき、ラインストーンがこれ見よがしに光を放つ。そしてカップに、マニキュアより少し落ち着いた色の唇をつける。頭のてっぺんから爪先まで手入れの行き届いた、美しい女性だった。  夫か、あるいは奥様友達でも待っているのだろう。  こんなに切羽詰まった状況でなければ、もっと暢気に見とれていたかもしれない。しかし、今の彼にそんな余裕は無かった。 ――こっちは、「あと5分しかない」だよ――  今日、彼にはこれから大事な打ち合わせがあった。これに失敗すれば、この1年間の努力や苦労が水の泡になってしまう。次のチャンスがいつ来るか分からないどころか、下手をすれば2度と来ないかもしれないのだ。  ところが、とんでもないことに、この日のために力を合わせてやってきた相棒が、間際になって手を引いてしまった。全ての算段が狂い、一週間前には終わっているはずだった準備作業が今日までずれ込んだ。あと5分で資料を仕上げ、待ち合わせ場所へ向かわなければならない。  今は打ち合わせの資料の最後のページを作っているところだった。頭の中は暴風雨が吹き荒れているようで、目につくもの全てに心の中で悪態を吐きながら、手を動かし続ける。中古のノートパソコンの、普段は気にならない動作の遅さに叫びだしたくなっていた。  もうすぐ完成、というところまできて、急に不安になってきた。このプランの、そもそもの起点に無理があるのではないか、これでは甘いと先方に鼻で笑われてしまわないか……。この1年間の下調べも根回しも、全て無駄だったのではないか、とすら思えてくる。 ――だから、あいつも逃げたのかな――  ふと、つい先日まで同士と信じていた相棒の顔を思い出した。今になって思えば、ほとんど思い付きで始めた、無謀な挑戦だった。この期に及んで計画は穴だらけで、勢いだけで進めてしまった感は否めない。しかし、気づいた時には、もうたくさんの人たちを巻き込んで、後に引けない状態になっていたのだ。  そうしている間も、件の女性はのんびり鼻歌を歌いながら、店の壁に掛けられた柱時計を見つめてみたり、手持無沙汰に携帯をいじってみたりしている。と、女性は何か思い付いたように、不意に鞄から手帳を取り出し、それを開くと何か書き込み始めた。 ――あんたのその5分、俺にくれよ!――  心の中で叫びながら、パソコンのキーボードで、最後の保存コマンドを叩く。 「できた……!」  そう言うのと、件の女性が立ち上がるのはほとんど同時だった。女性は席を立つと、悠然とレジへと向かう。  彼は手早くパソコンの電源を落とし、自分の伝票を取ってその女性に続こうとした。と、その時、件の女性のテーブルの上に、赤いなめし皮で装丁された手帳が取り残されているのに気が付いた。その近くには、その女性のものらしい名刺もあった。その名前にどこか見覚えがあったような気がしたが、待ち合わせのことで頭がいっぱいで、思い出している余裕は無かった。  どうせ後片付けをするとき、店員が気づくだろう、とそのまま席を立った。女性は既に会計を済ませ、店を出た後だ。ホールを切り盛りしているアルバイトらしい女の子が、空のトレーを手に女性の席へ向かってくる。  その時、耳をつんざくような鋭い車のブレーキ音と、大きな衝撃音が外から聞こえてきた。思わず音のした方へ目を向けると、通りに面したガラス窓の向こうに、無残に変形した車が見えた。  道路の真ん中、歩道橋のすぐ下の辺りだったが、通行車両はそう多くなく、玉突きなどにはなっていないようだった。後続の車が、器用に事故車の脇をすり抜けていく。歩道には、現場を写真に収めようと携帯をかざす人々が群を成していた。 「大変だ、そこの歩道橋で飛び降りだ」  頭に白髪の混じる男性が、店内に飛び込んでくるなり開口一番に言った。この店の常連らしく、奥の厨房からマスターらしい男性が顔を出して応える。 「〇〇さん、見たの?」 「いや。俺は見てないんだが、△△さんが……。えらい綺麗な女の人がさ、歩道橋の真ん中で立ち止まって下の方を見てると思ったら、いきなり飛び降りたんだって。あまりにあっという間のことで、誰も止められなかったらしい。あれは多分、即死だろうね」  手早く会計を済ませ、外へ飛び出した。人垣を掻き分けて、車の見える所まで近づく。あまりよく見えなかったが、ひしゃげた車の陰から、ラベンダー色の布地と、真っ赤なマニキュアの爪先が見えた気がした。  急に体から血の気が引いて、心臓がバクバクと音を立てた。  いつの間にか救急車とパトカーが到着しており、軽傷だったらしいドライバーに事情聴取をしていた。飛び降りた女性は救急車へ運び込まれていたが、到底助かるとは思えないような状態だった。  すぐさま目を背け、彼はその場を後にした。自分はただ、たまたま近くの席に座っていただけで、何の関係も無いのだ、こんなことにかかわりあっている暇はないのだ、と自分に言い聞かせながら。  待ち合わせ場所に着いて、商談相手がまだ来ていないことを確認し、彼は安堵した。あの騒ぎで足止めされ、到着が予定より少し遅くなってしまった。約束の時間まで、あと5分。彼は待った。先ほどの5分と違い、やけに長く感じられた。  * * *  約束の時間を2、3分過ぎたころ、携帯が鳴った。着信画面に表示されたのは、先方の営業担当者だった。怪訝に思いながらも電話を取る。  挨拶もそこそこに、担当者が切り出した。 「本日は、御足労いただきまして……。非常に申し上げにくいのですが、お話はまた今度の機会にさせていただけないでしょうか」 「どういうことですか」 「実は、つい先ほど、今日お話を伺う予定だった□□が、事故に遭いまして……」  そう言われた瞬間、彼ははっとした。あの喫茶店で見た名刺の苗字は、今日の商談相手と同じだったのだ。相方が抜けた穴埋めに手いっぱいで、相手の名前を度忘れしていることにも気づいていなかった。思えば、男性か女性かすら、把握していない。彼女の名刺の社名は何だったか……。 「まさか、歩道橋から落ちたとか……」  すると、電話の相手は、ぎょっとしたように少し黙った後、早口に答えた。 「いいえ。私も、まだ詳しく存じ上げないのですが、交通事故らしくて」  結局、商談は延期になり、後日、仕切り直すことになった。  * * *  その後、関係者から聞いた話によると、商談予定だった担当者は男性で、待ち合わせ場所へ車で向かう途中、事故に遭ったという。歩道橋からの飛び降り自殺に巻き込まれたそうだが、命に別条は無いらしい。  ただ、これには更に噂があった。男性の車めがけて歩道橋から飛び降りたのは、その男性の、離婚調停中の妻だったと。
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