夕立ち

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 勤め人の日曜日は、意外と忙しい。土曜日に丸一日寝て過ごしてしまえば尚更で、フルタイムで働く平日に放置していた諸々の家事を、たった一日でこなさなくてはならない。  夜更かしをした土曜の翌日、朝、遅く起きたならば、ます窓を開ける。そうして、顔も洗わず、急いで洗濯機を回す。それから、鼻の奥にツンと残る洗剤の臭いをインスタントコーヒーで洗い流す。二度寝に引き込まれぬようスマートフォンを眺め、ブルーライトで眠気を飛ばしたところで、洗濯終了のアラームを聞く。  脱水済みではあるが湿った衣類を洗濯槽から取り出し、代わりにベッドからから剥がしたシーツとタオルケットを放り込み、二回目の洗濯開始。その十分後に枕カバーを洗い忘れていることに気が付くが、そちらの洗濯は来週に持ち越すこととする。  衣類をベランダに干してしまうと、今度の洗濯の待ち時間は最大限有効活用すべく、掃除をする。薄く積もった一週間分の埃を、家具や家電からモップに吸着させる。下に落ちた埃は床の埃と一緒にフローリングワイパーを滑らせ始末する。  掃除があらかた終わったところで、つうっと、汗が顔の脇を滴った。盆休みが終わった、八月の終わり。いよいよ正午も近いというところで、窓を閉め切りエアコンをかけた。  狭いアパートの室内はすぐに涼しくなり、人心地ついたところで昼飯を冷蔵庫の中に探す。三日前に買ったピザを発見し、それをレンジで解凍。家電の唸り声を避けてトイレで用を足している間に、二度めの洗濯完了アラームを聞く。  大物二枚を洗濯槽から取り出し、それを持って異常な暑さとなったベランダに出て、手摺に濡れた二枚をだらりと垂らす。速やかに涼しい室内に戻ると、とっくに温めが済んでいたピザをレンジから取り出し、テレビの見ながらそれを頬張る。  そうして、昼食後の記憶がない。腹が満たされ横になったベッドの上で、瞬く間に寝落ちしたからだ。  ふと目を覚ますと、日差しの黄味が増していた。あ、もう夕方かと枕元のスマートファンで時刻を確認すると、まだ午後二時だった。  寝起きのぼんやりとした足取りでベランダに出て、小物干しにぶら下がる靴下の先をつまんだ。サラッとした感触ですっかり乾いているのを確認すると、小物干しを、物干し竿にぶら下げたタオル、ハンガーに掛けたシャツとパンツと共に部屋に放り入れた。  手摺に掛けていたタオルケットにも触れてみた。それなりに厚いタオル地は、まだしっとりとしていたので、もうしばらくシーツ共々干しておくことにした。  洗濯物の取り敢えずのチェックを終えると、昼寝の間の喉の渇きを癒すべく、冷蔵庫のドアポケットからスポーツドリンクを取り出し、コップに注いでなみなみ二杯分飲んだ。  ペットボトルを戻すついでに、冷蔵庫の中身を確認した。冷蔵室には、缶ビール数本、卵二個、チーズ、ドレッシング…。野菜室には、殆ど芯しか残っていないキャベツと三分の一本のニンジン、乾燥した生姜のかけら。冷凍庫には、冷凍した白米四食分と六本入りの箱に残った二本のアイスバー、ロックアイス半袋、冷凍うどん一食分。  今晩、何を食すべきか。白い箱の前に突っ立って考え込んだ。そうして、少ないレパートリーの中から、「カレー」を選択した。休日の今日のうちに何食分か作っておけば、月曜日以降のへとへとに疲れて帰ってきた時に重宝するだろう。  そうと決まれば、一食目から上手いカレーにありつく為、煮込み時間を考慮し早めに食材を買いに行かなければ。ついさっきベランダに出た時に肌を撫でた蒸し暑い空気に怯まないでもないが、なに、今日は気儘な日曜。汗だくで帰宅することになっても、即シャワーを浴びエアコンの効いた部屋でゆっくり休める。  休日用のボディバッグに二つ折り財布とエコバック、家の鍵を放り込み、ベッドの枕元に置いていたスマートフォンを手に取ったところで、はたと、窓の外を見た。青空に、大きく天に背を伸ばす不穏な雲が浮いていた。  手元のスマートフォンで天気予報を確認した。本日午後、天気は概ね晴れ。しかし、夕立に注意。靴箱の中から、一番小さく軽い折りたたみ傘を出し、スマートフォンと共にボディバッグに突っ込んだ。  徒歩十分足らずの距離のスーパーまでの道のり。家を出てわずか三十秒で、真夏の昼下がりに外出したことを後悔した。  暑い。暑いのは、大の苦手だ。だが、ついさっきまで充分に休息し、たっぷりコップ二杯のスポーツドリンクを給水した二十代の身で、行き倒れはしないだろう。  修行気分の道の途中、覚えのあるべったりと重い、しかし口内と喉とが浮き立つ匂いを嗅いだ。匂いの発生元は、濃厚なとんこつスープが人気のラーメン店だった。  買い物もその後の調理も放棄して、今晩はここのラーメンで晩飯を済ましてしまうのも良いかも知れない。一瞬誘惑に負けそうになったが、いやいやラーメン屋の利用は本気でそれを欲する時の疲れ切った平日にとっておくべきだと、店の入り口に殊更に眼を向けないようにし、スーパーへと続く道を直進した。  猛暑の道を乗り越えてぬるりと入ったスーパーマーケットの冷房は、自室の控えめなそれとは違い、ガンガンに利かされていた。  すっかり熱くなっていた体にその冷気は暫らくの間は心地よく感じたが、食材を選んで店内を歩き回るうち汗が冷え、レジの列に並ぶ頃には寒気を感じ、早く店を出たくて仕方なくなっていた。  会計を済ませ、スーパーの出入り口の脇に並べられた仏花の前を通り過ぎようとした時だった。 「西(にし)くん?」  エントランスの庇の下、女性が目を円くして立っていた。  髪色が違った。以前は真っ黒だったのが、下品でない程度に明るい茶色に染まっていた。ファッションが違っていた。乙女趣味のワンピースでなく、シンプルでこざっぱりとしたオーバーサイズのシャツとパンツ姿だった。  でも、間違いなく、彼女は大学時代同じゼミに所属していた、福永萌葱(ふくながもえぎ)だった。 「西くん、だよね?憶えてる?私、福永萌葱」 「あ、ああ。憶えてる」  人と口を利いたのは、金曜日の退社以来だった。 「久し振り。えっと…かれこれ、五年振りくらい?」 「ああ、そのくらい」  話しながら近づいてきた萌葱の頬は、以前はのぼせたように赤かったが、今はつるりと濡れたように輝いていた。彼女の視線は、こちらの手元にぶら下がる食材の詰まったエコバッグに注がれた。 「西くん、ここの近くに住んでんの?」 「ああ。福永も?」  これは、運命の再会?恋の再スタートか?得意の無表情で浮ついた期待を隠しつつ、聞き返した。 「私は従姉妹がこの近くに住んでて、それで会いに来たトコ。だから、本当に凄い偶然だね」 「そう、だね」  肩に提げたトートバッグの持ち手を握る彼女の左手を見た。薬指に金属の輪は嵌められていなかった。  彼女の後ろから、ふうわりと風が吹いてきた。妙に籠った、アスファルトが湿った匂い。 「あ…」  口を開けて、焦点を目の前の女性からその先に広がる駐車場にずらすと、天から地面へ落下する筋が無数に見えた。 「雨だ」  小降りだったそれらは瞬く間にその量を増し、地面に叩きつけられザアッと音を立てた。 「うわぁ…。私、傘持ってないのに」  背後を振り返った萌葱が漏らした言葉に、自分のボディバッグの中にある折り畳み傘の存在を思い出した。しかしそれは、二人で差すには小さ過ぎるサイズだった。  萌葱はしばし途方に暮れたか雨が降る様子を無言で眺めていたが、やがてこちらを振り返り、「せっかく久し振りに会ったんだし、ちょっと話してかない?」と軽い笑みを浮かべながら、スーパーに併設されたコーヒーショップを見遣った。  それもいいかな、と思った。その先から、思い出した。ベランダの手摺に干したままの、タオルケットとシーツ。 「俺、洗濯物干しっぱなしで出掛けたから」  萌葱の眉根と口角脇に、ほんの少し皺が寄った。他人の顔色を窺う社会人になった今だからこそ、気が付いたのだろう。自分が大学生だった頃には気付かなかっただろう、僅かな表情の変化だった。 「家、ここからどのくらい離れてるの?」 「走って、五分弱くらい」 「だったら夕立ちだし、どうせあと五分もしたら、家に着くころにはもう止んでるんじゃない?」  そう萌葱に言われ、空を観察した。雨を降らせている雲があった。そして、その奥には広がる青空があった。  確かに、萌葱の言う通りかもしれない。しかし、シーツはともかくタオルケットの予備はないし、ほんの少しでもましな状態でタオルケットを取り込んでしまいたかった。なにより、たった今も濡れてしまっているかもしれない洗濯物を放置している今のこの状況が、自分的に我慢ならなかった。 「やっぱ、気になるから帰るわ。それじゃ」  ただ立っているだけだろうに何故か立ちはだかっているかのように感じる萌葱の脇を通り過ぎた時、彼女はぼそり呟いた。 「そういうトコ、全然変わってない」  冷たく、皮肉を利かせた声音だった。  萌葱に、付き合ってみないかと言ったことがあった。たまたま一緒になった大学の帰りに、二人で入った駅前のファーストフード店で。  ずっと、萌葱は気になる女子だった。恋と言ってしまうには気持ちが足りない気もしたが、恋を始めるなら、誰より萌葱良いと思っていた。  返事は、「考えさせて欲しい」というものだった。萌葱の方も自分に気があると思い込んでいたので、即答で受け入れられず、がっかりというより意外という気がした。  四日経ってから、大学構内で「付き合えない」と言われた。納得がいかず理由を問うと、「西くん、マイペース過ぎるから」とだけ返された。  小さ過ぎる傘では防ぎきれなかった雨に濡れ、息を切らしてアパートの部屋に辿り着くと、ベランダのシーツとタオルケットはすっかり濡れきり手摺にへばりついていた。  手遅れだった。それでも、大粒の雨に打たれながら、干した時より余程重くなった二枚を引き上げ、部屋の中の洗濯カゴに入れた。やれやれ、ひと仕事だった。そう思い、室内からガラス戸の外に目を向けると、空は青く、雨はすっかり止んでいた。  太陽の光線はもう雨が降る前の勢いを取り戻し、早くもじりじりと再び世界を焼き始めた。今からでも、取り入れたばかりの洗濯物をまた表に出せば、夜になる前には乾くだろうか?それとも、もう一度洗濯と脱水をしてからの方が乾きが早いか? 「あーあ…」  萌葱の誘いに乗り、あそこでコーヒーでも飲んでいれば、家に戻る頃には晴れ、無駄に洗濯物を取り込む手間もなく、割り切って雨に濡れた洗濯物を干しっぱなしにしておけただろう。そして、そんな些事より何より、色気のない現在の状況の中で、色の付いた生活を手に入れる切っ掛けを掴めていたかもしれない。  だが、駄目だ。きっと駄目だ。自分は、どうしたって雨に濡れるタオルケットを、シーツを、放置できない。そういう性格なのだ。それが気に入らないというのなら、彼女とは結局、今も昔も縁が無いという、それだけのことなのだ。  洗濯カゴを持ち上げた。せっかく濡れて、チャンスを棒に振って、帰って来たのだ。律儀に雨の汚れを再度洗濯して落とし、もう昼下がりではあるが、残暑の太陽に望みを託して干してしまおうではないか。
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