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第一章 ロスト・ローズ
夏にはまだ少し早いとはいえ、まとわり付くような熱気にじっとりと汗を滲ませながら夜の繁華街を歩いていると、前方のコンビニから人影が現れた。
気にも掛けなかったが、店の照明を背負うその姿はよく見知った顔であったことに、一瞬ののちに気が付いた。濃いメイクを施した大友茨だった。
目の周りを黒く囲み、ロックというのかパンクというのか分からないけれど、片方の肩がずり落ちた緩いTシャツに剥き出しになった肩にはキャミソールの肩紐が見える。短いチェックのスカートを腰に巻き、脚の形がくっきりと分かる黒いスキニーを穿いていた。
私服だから大人っぽく見えるかと思ったが、意外なほど学校で見る大友と印象は変わらなかった。
こんな時間にあんな服装をして、何をしているんだろう。
時刻は夜八時。
僕は好奇心をくすぐられ、大友のあとを追った。
大友が入って行ったのはライブハウスだった。
もちろん一度も入ったことはない未知の世界。
「当日券は千五百円です」
「え・・・あ、はい」入り口でそう言われ、慌てて財布を探った。
扉を開けると身体を押し返されそうな音圧に、耳鳴りがした。一瞬音を消失する。バンドには詳しくないけど、多分ベースとドラムのリズムが腹に食い込む。耳を塞ぎたくなる騒音に明滅する七色のライト、接触する人の熱気、薄暗いハウス内。二百人ほどはいるだろうか。地下の狭い空間だ。閉塞感が鼓動を高鳴らせる。若い女性が多く、スマホをライト代わりに掲げ、音に身を委ねて思い思いに身体を動かしている。
キュインキュインと鳴るギターに甲高い女性のボーカル。音の波で歌詞は聞き取れないがマイクを握りしめ、彼女は身体をくの字に折り曲げて絶叫している。てっきり大友かと思ったが違った。彼女は派手な茶髪に特徴的な緑のメッシュを入れている。
ステージは低く、人の頭越しにちらりとしか見えない。しかし、ステージの最奥、ドラムセットから見覚えのある長い黒髪を発見した。髪を振り乱してドラムを叩いているのは、間違いなく大友茨だった。
汗の匂い。響くリズムに目眩ましのような照明、盛り上がるほど歓声とお客さんのジャンプで地面が揺れる。僕は一心不乱にドラムを叩く大友のあまりの変化っぷりにただ唖然として立ち尽くすしかなかった。
結局僕は足が固まったように動けず、大友のバンドがステージを去ってからも、全てのバンドが演奏し終わるまでそこにいた。
やっとの思いで外に出ると、気持ち良く汗を流した観客たちが夜風に触れてクールダウンするように集っていた。
すると、不意に歓声が上がった。
「光さま~!」
建物の裏口から出てきた人影に、僕と同い年くらいの女の子が黄色い声を上げて駆け寄って行った。
彼女たちが囲んでいるのは、一際背が高く、何とも綺麗なルックスをした大友のバンドのギターの彼だった。
非日常に呆けていると、やがて熱気に包まれ始めた僕の身体に、知った声が掛けられた。
「寺田?」
振り返ると大友だった。すっかりメイクを落とし、不思議そうな顔で僕を見ている。服装はそのままだ。そういえば大友に名前を呼ばれたのは初めての気がする。
「あんたでもこんな所来るの?」
「あ、いや、塾の帰りで。大友がコンビニから出てくるの見て、何してるのかなって思わず・・・貴重な小遣いとられたけど」
「ライブだもん。当たり前じゃん」
大友は少しばかり馬鹿にしたように小さく笑った。
「でも・・・びっくりしたよ。学校にいる時と全然違うから」
僕はそう言いながら、女の子に囲まれるギターの彼を眺めた。
「すごい人気だね」
大友も視線をやり、さらりと言った。
「光はうちの王子様だから」
王子様って、と聞き返そうとすると、「茨ー!」と明るい声が背後から投げ掛けられた。
「暑いよ~、早くお店入ろ」
緑のメッシュの少女がラフなTシャツ姿でやって来た。
「瑠奈」
「あれ?珍しいね、男の子と一緒なんて。とうとう彼氏出来た?」
いたずらっぽい笑顔が魅力的な彼女に対し、大友は無表情で無視を決め込む。しかしその雰囲気は、どこか学校で見せる冷たさとは違っていて、柔らかなものがあった。こんなに喋るのも見たことがない。
「あんまり学校で言いふらさないでよ」
大友が軽く僕を睨んで背を向けようとすると、「いいじゃん、茨の彼氏~打ち上げに来なよ」緑のメッシュの・・・瑠奈さんが気軽な調子で笑いかけて来る。僕は思わず時計に目を落とす。十時すこし前。あまり出歩いたことのない時間だ。
「行こ行こ」
瑠奈さんは鼻歌混じりにご機嫌な様子で僕の腕を引っ張る。「あ、ああ、うん」ここへ来て初めて自分が押しに弱いことを知った。
瑠奈さんに連れられて入ったのは、ライブハウスに隣接する喫茶店だった。カラン、と涼やかな扉の開閉を知らせる音が鳴る。
カウンター、ボックス席合わせて二十席ほど。香しいコーヒーの香り、床の木材の香り、年季の入った天井から降る、積み重ねられた歴史がつくり出す香りに出迎えられ中に入ると、年配のマスターが言葉なく客を認めた。喫茶店なんて初めて入る。
瑠奈さんは迷いなく歩道が見渡せる窓際に座ると、「マスター、いつものね!」とどこまでも明るい声て言った。
僕が戸惑いながら数分を過ごしていると、次々と店に客が入って来た。
「お疲れ~、マスター、いつものね」
そう言って僕らの座るボックス席にやって来たのは王子様こと光さんだった。後ろにはベースの彼も控えている。
「彼は?」「茨の恋人」「違うから」
見事な連携プレイだった。いよいよ学校で見る大友とは印象が違ってきた。
「そうそう恋人くん、君名前は?」
「瑠奈、殺すよ」
「初めまして。寺田昇といいます。大友とは同じクラスで」
「で、恋人なんだ?イタッ」
瑠奈さんが大袈裟に両足を跳ね上げる。
「茨が蹴った!ヒドイ!」
しかしそんな瑠奈さんの抗議などどこ吹く風で、ベースの彼が口を開いた。
「自己紹介か。宮崎創太。ロスロズのベースで一応リーダー。よろしくな」
端正な顔立ちの彼は光さんにも負けず劣らずのヴィジュアルだった。少しばかり木訥としていて難しい顔をしていた。あまり笑わない人なのかな、と僕は思った。続いて。
「光、こと川窪光一。ギター担当」
華のある光さんに見つめられると同性だというのにドキドキした。
「あたし渡部瑠奈ー。ボーカルやってます、よろしくぅ!」
コロコロとした笑い声を上げて瑠奈さんが言った。
「あの、ロスロズって?」
気になったことを口にすると、創太さんが頷いた。
「ロスロズのライブは初めてか。ロスロズってのはウチのバンドで・・・」
「ロスト・ローズでロスロズ。ちょっと舌噛みそうだけど」
瑠奈さんが割り込んで教えてくれた。
「光があたしの名前から連想して付けたの」と、大友。
「花が枯れて棘だけが残った状態。いかにも退廃的だろ。うちはそういうコンセプトでやってるから」
「あたしの大嫌いな名前から付けるなんてホント最低」
「でも世界観を作ったのは茨だろ。上手いんだよな。作詞は茨の担当なんだ。さすが中学の時俳句コンクールでクラスで一位とっただけのことはあるよな」
すると大友は見たことがないくらい顔を赤くした。
「その話もうやめて!」
僕は彼らのやりとりに目を白黒させるしかなかった。
「へぇ、それじゃ皆さんは中学からのバンド仲間で?」
「そうそう、同じ中学の軽音部で文化祭で演奏した仲」
アイスティーのストローをくわえながら瑠奈さんは上目遣いに言った。
「高校は見事に全員バラバラだけどね。バンドとしては当然メジャー狙っていくよ」
「メジャー・・・」
「今日のライブどうだった?って恋人くんは音楽に興味ないんだっけ」
「恋人じゃないですけど、感銘を受けました」
「すごいんだよ、今日。レコード会社の人が見に来てたの。うちらメジャー一直線。チャンスの日だったの」
「はぁ・・・」何だか途方もない話だった。
同時に僕の胸でカチリと、何かが動く音がした。慌ててそれを抑えにかかる。
「あー、だから疲れたかも。恋人くん、連絡先交換しよ。んであたし帰るわ」
瑠奈さんは欠伸をしながら両腕を天に突き出し、椅子の上でのけぞった。僕は慣れない手つきでスマホを操作する。
結局全員と連絡先を交換すると、最後に乾杯をして打ち上げ会場から帰宅した。
大友のことは言えない。こんなに喋るのは僕だって本当に久しぶりで、ライブの余韻と同世代の人との新しい出会いに興奮していた。
明日大友とどういう顔で会おう。
夏へのカウントダウンを告げる蒸し暑い夜風に吹かれながら、僕は汗の匂いのする心地よい疲労感を味わっていた。
期末テストも終わり、突入した夏休み。
僕は夏期講習に明け暮れていた。
そんな味気のない日常にちょっと華を添えるのが、ロスロズのメンバーの非日常な日々の報せを受けることだった。
ロスロズのメンバーは今、大学生で暇だという創さんのお兄さんの運転で車に機材を詰め込み、全国ツアーに出ていた。
ちなみに大友同様自分の名前が嫌いだという理由で「創」と呼んでほしいと言われている。光さんもそうなのだろう。
全国ツアーとはいえ、降り立った地で路上ライブや飛び込みのライブハウスでライブを行い、演奏の様子を動画投稿サイトに上げたり、移動中の何でもない会話を撮った動画を僕のパソコンに送ってくれた。
元々月二回の他のバンドと定期的にライブをやったり路上ライブも頻繁にやっていたこともあって、旅は順調に行っているらしい。
離れていても彼らの様子がつぶさに分かった。
僕は初めてロスロズのライブに行ってから、何故だか欠かさず、創さんにスケジュールを訊いて彼らのライブに行っていた。
ロスロズの楽曲に惹かれてというよりは、失礼だけど夢に向かって淀みなく走れる彼らが眩しかったからかも知れない。
そして、その彼らが放つ光を吸収して僕の夢の芽も育って行った。
そう、作家になるという愚かな夢の。
セミの大合唱も鳴りをひそめはじめた初秋のことだった。
街には早くもひんやりとした空気が流れ、太陽は夏の余韻を降り落とすがごとく頼りない淡い輝きしか放ってくれない。どこからか金木犀の甘い香りが鼻をくすぐり、萌え盛っていた緑はやや色を失い始めていた。
あんなに恨めしく思った強烈な日差しも、早く終われと思った暑さも、消えてしまうと懐かしく、あと一年待たねばやって来ない夏を惜しんでもいた。
塾のあと、もうすっかり常連となった喫茶店に足を運んでみた。
学校で見た大友が、何だかいつもより沈んで見えたからだ。
舗道から中を覗くと、メンバー三人が俯いて座っていた。明らかに深刻な何かが起こったに違いない。
僕はそっと店の中に入り彼らに声を掛けた。
「光が引き抜かれた」
「えっ」
「メジャーが決まってるバンドに引き抜かれたんだ。あいつのギターと作曲能力の高さを買って。レコード会社の関係者が見てたのは、光だけだったんだよ」
創さんはいつも通り淡々と、でも悔しさを含んだ声音で言った。
「それって・・・」仲間を裏切ったんじゃないのか、とこぼれそうになって口を押さえる。
それともここは、光さんの抜擢を祝うべきなのか。残りのメンバーの顔を見る限り、後者ではなさそうだけど。何とも後味の悪さが残る話だった。
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