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トラは痛みが残る中、七右衛門の支配下にある百姓たちの鄙びたみすぼらしい家々が疎らに建つ部落へやって来た。
季節はもう師走だった。木枯らしが吹きすさんでいて傷に染みるものだからトラは痛々しい限り。全く以て困ったものだ。
おまけに氷雨がぱらついて来た。火点し頃だから何処の家も飯の支度をしていてぬかるんだ道をうろついている者と言えば、男か子供だったが、傷と寒さに苛まれる哀れな醜いトラを避けたり苛めたりする者はいても助ける者はいない。
そうしてトラは泥道を右に折れると、取っ付きの陋屋から若い男が出て来て道端で立ちしょんを始めた。
寂しそうななりを見てトラは独り暮らしと見て試しににゃおと人懐こそうに鳴いてみた。
すると、男はトラの方を見るなり優しそうに微笑んで小便をし終えてから、おう、寒かろう、家に入らないかと言って手招きした。
トラが喜んで男に近づいて行くと、さあ、こっちにお入りと言いながら男はトラを快く家の中へ請じ入れた。
トラは人間には充分警戒しなければいけないことを重々承知しているが、持ち合わせた慧眼によって、この男は絶対悪い男じゃないと判断した上で家の中へ入って行ったのだ。
見ると、囲炉裏に火がくべてあって自在鉤に吊るされた鉄瓶が湯気を吹いていた。程よい湿気を含んだ温かさに助かったと心底、トラは思った。
男は食事はもう終わったようで良い暇つぶしが出来たと言わんばかりにトラを膝の上に乗せてあちこち撫でまわしたりあやしたりたりして酒が入っていると見えて自棄糞気味に笑いながら色んな独り言を呟き出した。
「おいらも皆と同じ貧しい百姓でな、米作ってるのに白いおまんまが食えねえときたもんだ。はっはっは!なあ、可笑しいだろ、大半が年貢に取られちまうからよ。だけどな、おいらが皆と違ってもっと可笑しいことに嫁が来ねえときたもんだ。はっはっは!何でか分かるか、なんとな、おいら、名主のめんこいめんこいお嬢さんに恋してるからよ!一介の百姓が身分不相応にもだぞ!こいつは全く以て可笑しくねえか!はっはっは!つまりよ、面食いだからいけねえんだよな、そこらの娘じゃ満足できねえって訳よ。但、望みはあってな、名主が言うにはよ、家内の象みたいに長い鼻を短くしてくれるのなら娘を嫁にやっても良いって言うんだよ。土台、無理な話だけどな、これこそ本当に可笑しな話だろ!はっはっは!」
「全然、可笑しかないんだにゃあ。」
「あれ?何か今、声しなかったか?」
「吾輩じゃよ。」
「えっ?」
「ほら、今、お主が抱いておる。」
「えっ、お前が喋ってるのか?」
「そうじゃ。」
「お前、まさか、今、巷で噂の猫又妖怪じゃないだろな!」
「違うよ、吾輩は実は仙人なんじゃ。」
「仙人?」
「そうじゃ、今は猫に化けてるのじゃ、じゃから安心せえ。」
「しかし、何で猫に化けてるんだ?」
「お主に言っても分からんことじゃが、吾輩は猫であるという小説の猫に憧れてな。」
「はあ、確かにおいらは小説という高尚なものには縁のない男だから知る由もないことだが・・・」
「うん、まあ、そんな話は置いといて、お主の独り言をずっと聞いておってな、吾輩はお主には助けてもらったし、お主は他の者と違って優しいと見たから是非、お主の願いを叶えてやろうと思ったのじゃ。」
「と言うと、何かい、名主のお嬢さんをおいらの嫁にしてくれるって言うのかい?」
「そうじゃ。」
「しかし、それには名主の奥さんの長い鼻をおいらが短くしなきゃいけないんだぜ。」
「大丈夫じゃ、吾輩に任せればな。」
「あんた、仙人だというし・・・」と男は言いさして暫し考えていたが、仙人に見込まれたんだ、断る手はないと思い、「うん、任せるよ。」
「そうするに若くはない。」とトラが言ったところで、「この傷はどうした?」と男は聞いた。
「あっ、これか、これはちょっと引っ掻かれて・・・そうそう、お嬢さんは性格がきつい所があるが、それは構わんのか?」
「えっ、そうなの?」
「ああ・・・」
「まあ、お嬢さんの婿になれるのならそんなの屁みたいにしか感じないから構わないよ。」
「そうか、うむうむ、よし、ところで、にゃあにゃあ語で喋ってもよいかな。」
「にゃあにゃあご?」
「うん、語尾ににゃあと付けた方がお主に親しみを込められるんじゃよ。」
「ああ、そうか、うん、いいよ、じゃあ、おいらも親しみを込めたいから、あんたのことを何て言えばいいかな?」
「トラと呼んでくれればいいにゃあ、その代わり吾輩はあんたのことを何て呼べばいいかにゃあ?」
「おいら、八作っていうんだ、だからはっつぁんでいいよ。」
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