3人が本棚に入れています
本棚に追加
下
一晩、温かい八作の家で過ごしたお陰で傷が癒えたトラは、八作の願いを叶えてやる為、まずは鞍馬天狗を訪ねに上洛して鞍馬山へと足を運んだ。この山はまたの名を暗部山と言って春は桜、秋は紅葉の名所だが、冬になると冬枯れて暗部山の名の通り闇のように暗くなるのだ。
その冥蒙たる木立の中にある鞍馬寺の本殿金堂に安置された毘沙門天、千手観音、そして護法魔王尊、これが鞍馬天狗として此の世に示現するのだ。
トラがこんもり生い茂る喬木の森林を横目に仁王門に通じる九十九折の石段を上がって行くと、亭々と聳え立つ天狗杉の天辺から空気を切り裂くように滑空して鞍馬天狗がトラの目の前に降り立った。
山伏装束に身を包み、一本歯の高下駄を履いた、その風貌は赤ら顔に口髭と顎髭をぼうぼうに生やしていて鼻が勃起した一物のように隆々と長く伸び、目は鷹のように鋭く、背中からは大鷲のような巨大な翼を生やしている筋骨隆々とした大男だ。
「よう、御同輩!久しぶりじゃな!今日は何用じゃ?」
「今日は貴殿の羽団扇を借りに参ったのじゃよ。」
「おう、そうか、勿論、貴殿のことじゃから人助けに使うのじゃろ。」
「ああ、そうじゃ、悪人にはこらしめる為に使うがの。」
「成程、世の為、人の為か、それは結構なことだ。よし、分かった、存分に御利用為され。」
という訳でトラは鞍馬天狗から羽団扇を借りると、俊足を飛ばして立ちどころに八作の家に帰って来た。
「これはにゃ、羽団扇と言って長い物に対して裏側で扇ぐと、長い物が短くなり、逆に短い物に対して表側で扇ぐと、短い物が長くなるんだにゃあ。長さの調節は扇ぎ方の加減によって出来るから何か良い練習台になる物を探して、それで以て骨を掴めばいいんだにゃあ。そうしてはっつぁんは外科医になりすまして名主のところへ行っておいらは身体の各部位の長さ形を自由自在に変えることが出来ます。ですから奥様の鼻を如何様にもすることが出来るのでございますというようなことを言って売り込めばいいんだにゃあ。」
「ふ~んなるほど、そうか、そりゃあいい、よし、是非ともやってみるよ!」
修練と言うと大仰だが、練習を積んで骨を掴んだ八作は、年の瀬が押し迫った頃、七右衛門の屋敷に行くと、女中の取次ぎを受けた七右衛門がやって来て、「おう、こんにちわ、はっつぁんじゃないか、珍しいのう、どうしたんじゃ?」
「こんにちわ、七右衛門さん、あの、実はおいら、顔を整形する技術を習得して外科医を始めましたんで奥様のお鼻を直しに参ったんでございます。」
「なんと、そんな技術をお前さんが!はっはっは!冗談は止しとくれよ。」
「いや、冗談じゃありません。これはほんとに本当の話で、おいらは正気の上で本気で言ってるんです!」
「おう、そうか、そんなに言うなら、そのお前さんの技術とやらを見せてもらおうかのう。」
七右衛門は内心、こ奴、蝶乃にぞっこんじゃから蝶乃欲しさの余り、気がふれてるんじゃなかろうかと疑いつつ八作をお米がいる居間へ通して斯く斯く然々と彼が来た訳を彼女に説明した。
すると、お米は自分の鼻が短くなることを年がら年中、造次顛沛にも切望しているものだから藁にも縋る思いで八作の技術を試すことにした。
八作は待ってましたとばかりに携えていた風呂敷包みを解くと、羽団扇を取り出した。
「奥様、では、おいらの整形技術をお見せしますから、お顔をぐぐっとおいらの前に出してください。」
「こうかい」と言ってお米が顔を前に出すと、八作は羽団扇の裏側でお米の鼻を扇ぎ出し、「短くなあれ、短くなあれ」と唱えながらお米の鼻を手で優しく揉み解して行った。
すると、お米の鼻が見る見る程よい高さの形に整ったものだから七右衛門は驚愕してお米の顔に瞠若たらしめられた。
「お前、鏡で見てみろ!以前の美人に戻ったぞ!」
「えっ!ほんとに!」
お米は大急ぎで傍に置いてあった手鏡を取って自分の顔を鏡に映した。
「まあ!すご~い!ほんとだ!ほんとだ!なんてことでしょう!どう御礼をしたらいいんでしょう!ねえ、お前さん!」
「ああ、これははっつぁんに蝶乃を娶らせるのは素より、何か褒美を取らせんと行かんなあ・・・」
「まあ、お殿様みたいなこと言って!」
「はっはっはっは!いやあ、これはめでたい!盆と正月が一緒に来たようだ!と言っても言い足りない位、めでたいことじゃ!」
「ほんとですわ!ねえ、はっつぁん!」
「はあ、まったくです!」
そんな訳で八作は蝶乃とめでたく結ばれる運びとなり、大願成就すると共に七右衛門の計らいで年末から年始にかけて毎日のように白いご飯が食える上に酒は飲み放題だわ御馳走は食い放題だわで村人たちにも喜んでもらおうと結婚式のお祝いも兼ねて皆でお祭り騒ぎをするのだった。
その後、八作は七右衛門の跡を継いで名主となったが、自分の容姿を貶すなど蝶乃の露骨な辛辣な一面に手を焼くことが多かった。その対策としてマゾヒズムに陥ることによって夫婦生活を円満に保った。
矢張り三従の教えに背き亭主の支配者になったかとトラは蝶乃を恐れ、また八作をだらしなく思ったが、それも優しさの為せる技、しょうがないかとも思うのだった。
最初のコメントを投稿しよう!