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3.苦手な男
憂鬱な気分で科学館を出てスポーツセンターまでとぼとぼ歩いた。
水着に着替えて頭のてっぺんで伸びた前髪を後ろでくくってスイミングキャップの中にしまった。マシントレーニングもするけれど、真尋は泳ぐことが多い。
平泳ぎでゆっくりと水をかきながら、びっくりしたなとさわやかな笑顔を思い返した。
倉岡はずいぶん変わっていた。
中学で出会ったとき、倉岡は人目を避けるようにいつもうつむいていた。ネクラオカとかネクラなんてあだ名で呼ばれていて、同級生からは明らかに格下という扱いだった。
でも校外で会う時は印象が違っていて、田舎に不慣れな真尋が知らないことを親切に教えてくれた。
東京から来た転校生は注目の的で、気を張っていた真尋は倉岡の人のよさやちょっと抜けた素直さが心地よく、一緒にいるのとほっとしたものだった。
そんな倉岡が一人前の社会人になって仕事をしている姿を垣間見て、真尋はもやもやと気持ちが乱れるのを感じた。高校卒業以来、誰とも連絡していないので社会人になった同級生に初めて会ったのだ。
ろくに人と話せなかった倉岡がとても爽やかな仕事のできそうなイケメンになっていた。本来なら、自分もああして仕事をしている年齢なのだと突き付けられてショックを受けた。
父親が電話で無職と聞いて黙り込んだ気持ちもすこしはわかる。
でも真尋だって、好きで今みたいな生活をしているわけじゃない。
高校もろくに行かずに社会から落ちこぼれて、どうしていいかわからないのだ。こういう時、相談できる相手も愚痴を言える相手もいない。
誰とも関わりたくないからそう過ごしてきたのは自分だけれど、真尋の人間関係はとても希薄で、今ここで死んでもきっと誰も悲しまない。
いや、両親は真尋が死んだと聞いたらほっとするかもしれない。だって生まれてきたこと自体が間違いだったのだ。
そんな想像をすると悲しくなってしまって、真尋は黙々と水を掻いた。
「こんばんは、高遠さん」
プールサイドで声を掛けてきたのは顔見知りの同年代の男だ。マシンの部屋からガラス越しに真尋が泳ぐところを見ていたらしい。
仕事帰りに寄っているのかちょくちょく顔を合わせる。
くっきりした眉に二重のはっきりした目が印象的なイケメンで、すこしだけたれ目気味なのが愛嬌を添えている。
大型犬のような雰囲気の人懐っこいタイプで、真尋もここ二年くらい会釈するようになり、そのうちかるく会話をする程度の仲になった。池本という名前だ。
朗らかな池本は女性からもよく声を掛けられていて、リア充ってこういう人かと真尋はこっそり思っていた。
「ずいぶん熱心に泳いでたね」
「うん、考え事してて」
「へえ、何か悩み事?」
池本はマシントレーニングも好きらしく、肩がかっちりしていて腹筋も割れていて、きれいな筋肉のついた体をしていた。
学生時代からスポーツも勉強もできて、ずっと失敗なんかしたことないようなタイプだ。はっきり言って苦手な奴だった。
「いえ」
悩み事なんかただの顔見知りに話すわけないだろ。
会話を弾ませる気のない真尋はそう答えてシャワールームへ行きかけたが、ふと足を止めて訊ねてみた。
「もし一人暮らしするなら、どんな部屋に住みます?」
こういう男はどういう基準で部屋を選ぶのかと興味がわいたのだ。
「何、突然だな」
池本はすこし笑って首をかしげた。
「あ、もしかして高遠さんがどこかに引っ越すの?」
「まあ」
あいまいにごまかした真尋を追求せずに、池本は答えた。
「俺の場合、部屋には寝に帰るだけだから日当たりはあんま気にしないけど、広さはある程度欲しいな。ロフト付きもいいね」
「ロフトって寝る場所?」
「広さによるかな。荷物置きにしたり寝室代わりに使ったり。なんなら俺の部屋、この近くなんだけど見に来ます?」
さらりと誘われて、真尋は目を瞬いた。
「は?」
見に行く? お前の部屋を?
「ああ、ごめん。ここでよく会うから友達みたいなつもりになってたけど、いきなりすぎた?」
友達じゃねーし。でも好意で言ってくれたのかもしれないので、穏便な声を出した。
「いえ。ちょっと人見知りするので、すいません」
「いいよ、急に誘ったら警戒するよな」
高校卒業以来、人づきあいをしていない真尋は社会性に乏しい。これが普通なのかどうか、よくわからない。
「じゃあ、まずは一緒に夕食でもどう?」
池本は爽やかの見本のように笑った。
「え?」
思いがけない誘いに目を丸くする。
「かわいいなあ、そんなきょとんとしちゃって。高遠さんて、いくつ?」
かわいいって何だよ、絶対、自分が年上だと思ってんだろ。
「……二十六」
「うっそ、年上?」
「嘘じゃないし」
「ああ、すいません。疑ったわけじゃなくて。あー、そうなんだ。てっきり大学入学?、あ、いや卒業するから実家を出るとか、そういう話かと思ったから」
やはりかなり年下だと思っていたらしい。
「いや、いいんです。じゃあ」
そそくさとシャワールームに向かう真尋の前に、池本はくるりと回り込んだ。
「待って、ちゃんと自己紹介させてよ。今更だけど、池本航平(いけもとこうへい)、区役所勤務の二十四歳。てことで、本当にメシ行きましょうよ。晩ごはん、まだですよね?」
「はあ」
困惑気味に見上げると、池本はにっこりする。
「実は高遠さんとずっとしゃべってみたかったんですよ」
しまった。もしかしてきっかけを作っちゃったのか?
「おれとしゃべっても面白いことなんて何もないと思う」
「それは俺が決めます。ね、行こうよ」
ぐいぐい来られて、どう断ろうかと目線がうろうろとさまよう。
「あの、泳ぐんじゃないの?」
「またにします。いつでも泳げるし」
大股にシャワールームに向かうから、真尋はあたふたと横に並ぶ。
「好きな食べ物って何ですか?」
「えっと、あの、魚とか?」
「じゃあ、この近くに、赤とんぼって居酒屋があるんですけど、そこの魚料理が安くてうまいんです。軽く食事して、気楽に話すだけ、ね? 無理やり二軒目つき合えとか言いませんから」
大型犬が首をかしげて「待て」をしているような様子に、思わず笑ってしまった。それに魚料理の惣菜はいまいちなので、すこし心が動いた。
「まあいいけど、本当に話すことないよ」
「はい、大丈夫です」
このスポーツセンターに通い始めて数年経つが、こんなことは初めてだ。誰かと一緒に食事なんて何年ぶりだっけ?
「やった、じゃあ出口で」
池本は真尋が意外なくらいうれしそうに笑った。
試し読み完
ぜひ最後までご覧くださいm(__)m
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