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1.父からの電話
高遠真尋(たかとうまひろ)の一日は昼ごろに始まる。
目が覚めたらベッドでうだうだして空腹かトイレのどちらかが限界になって起き上がり、前日か前々日にスーパーで買った半額の弁当や総菜を食べ、つらつらと映画を眺めたり、ベッドでマンガや小説を読んだりゲームをして午後を過ごす。
あるいは歩いて十五分ほどの図書館へ行く。図書館は金のない真尋にはとても助かる施設だ。
閉館したら図書館を出て裏にある区立スポーツセンターへ行く。区立なので使用料が格安で真尋でも払えるのがありがたい。
軽くランニングしたり泳いだりしてシャワーを浴び、七時になったら大通りを挟んで向かいのスーパーで買い物する。この店は夕方から値引きが始まり七時を過ぎれば多くの商品が半額になる。その中から真尋は弁当や総菜を買う。
八時には家に戻って夕食を済ませ、一日二本までと決めている缶酎ハイやカクテルを飲みながら映画や自然科学系の番組を見る。流行りには疎いが誰とも会話しないので、不便を感じたことはない。
映画の感想ブログを書いたりしながら深夜までだらだら過ごし、眠くなったら寝るという生活だった。
その間、過ごしているのは真尋の個室だ。リビングにはソファセットが、キッチンには四人掛けのダイニングテーブルがあるが、もう何年も真尋はそこに座ったことがない。
母親と弟が出て行ったばかりの頃は父親とリビングやダイニングで一緒に過ごしたことがあったけれど、二人だけの空間は気づまりでひどく息苦しかった。
その父親も出て行ってからはほぼ自室で過ごしている。
使わない部屋は埃が溜まって空気もよどんでいるが、真尋は気にしなかった。どうせ誰も来ないし、狭い自室は何でも揃っていて快適だ。
もう十年近くこんな生活で、人と会話しない生活にもすっかり慣れた。
今日も昼過ぎに起きて半額の焼きそばパンを食べて外に出た。六月の終わりでも午後三時の日差しはきつく、図書館に着くころには汗が背中を流れていた。
そう言えば、今週からプラネタリウムのプログラムが新しくなっていたな。図書館はやめて科学館にしよう。
図書館の隣には区立科学館があって、年パスを持っている真尋はしょっちゅうプラネタリウムに行く。月に二度はやってくる真尋を受付嬢は覚えていて、顔を見ただけでチケットを用意してくれた。
年パス持ちなので入場券は必要ないが、プラネタリウムはプログラムごとにチケットの絵柄が変わるので年パス会員にもくれるのだ。
真尋はそういうものを取っておくタイプではないのでくれなくてもいいのだけれど、これは受付嬢の仕事なのだからいらないと断るのは悪いと思って、黙って受け取っておく。
プラネタリウムの椅子はソファのようにふかふかで、とても気持ちがいい。深く腰掛けて仰向けになると、間もなくプログラムが始まった。
人工の星空は本物よりもよほどきれいだ。曇りも雨もなく、素晴らしい夜空がいつでも広がっている。中学三年生の時、数ケ月だけ住んだ田舎町で見た一面の星空を思い出す。
二十六年の真尋の人生で、楽しかった最後の日々だ。
普通のどこにでもある田舎町だが、真尋にとってはたくさんの初めてを経験した場所だ。記憶にある町はのどかで温かい。
ふと懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。はにかむような控えめな笑顔。彼はどうしているだろう。
ドーム型のスクリーン上にベガ、デネブ、アルタイルが明るく光り、赤いラインで結ばれた。今日のプログラムは七夕にまつわる星座の話だ。
「これが夏の大三角です」とアナウンスが言う。
そう、ちょうど今くらいの時期だった。二人で河原の土手に寝転がって星空を眺めた。田舎の夜空は東京の比じゃないくらい星が見えた。
でも彼は夏の大三角もろくに知らなかった。こと座のベガとわし座のアルタイルが織姫と彦星だと知って驚いたくらいだ。
プラネタリウムの中は快適で気持ちはいいけれど、でも土や草の匂いもしないし、しっとりした夜の空気もうるさいくらいの蛙や虫の鳴く声も聞こえない。
かつて真尋が星空を見上げた時は、いつも草の匂いがしていた。
そんなことを思い出しながらアナウンスに耳を傾けた。毎年、似たようなプログラムで新しい発見はないけれど、プラネタリウムという空間は心が落ち着く。
三十分ほど星空を堪能してトイレに寄って通路に出たら「ちょっと、あの!」と大きな声を掛けられた。びくっと足を止めると、スーツ姿の若い男が困ったように真尋を見ていた。
昼間の科学館にスーツ姿はめずらしい。
すらりと背が高くて溌溂とした雰囲気の若い男だ。涼し気な目元で整った顔をしているが、困ったような笑みが人の好さをにじませている。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったかな。これ拾ったんだけど、君のじゃないかと思って探してたんだ」
そういってキーホルダーを差し出す。見覚えのあるキーホルダーに、思わずパタパタとリュックのポケットを探る。
「すいません、おれのです」
身を縮めて手を出した。
恥ずかしくて真っ赤になりながら鍵を受け取る。前髪を伸ばしているから相手からは見えないことが救いだ。急いで離れようとしたら、さらに話しかけられた。
「そのキーホルダー、きれいだね。月球儀?」
平日のプラネタリウムに来るだけあって天文好きだろうか。月球儀なんて単語がすらっと出てくるあたり。鍵を拾ってもらった手前、無視もできなくて小声で答える。
「はい。この前の企画展の時に売ってて」
「そうなんだ。ちょっと凝った感じでいいなと思ったんだ」
人好きするのか返事をしたら、思ったより距離が近くて思わず目をそらした。伸びた前髪からちらりと見えた笑顔の眩しさにくらくらしそうだ。
彼は真尋の態度に気づいてさりげなく身を引くと、やさしくほほ笑んだ。
「鍵、ありがとうございました」
イケメンの笑顔の威力に、真尋はぎくしゃくと会釈して彼から逃げるように遠ざかった。
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