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浮遊傘
ソレに遭ったのは帰宅途中だった。
夕立のせいで私は濡れ鼠もいいところだった。
今日は家から出るときに傘を持っていかなかった。
降り始めは手で頭を覆ってごまかしていたけれど、本降りになってからは髪の間からしたたり落ちてくる水をぬぐうことしかできなかった。
雨水が目に入る。
両手で目元をぬぐい、目を開けたとき、ソレはそこにあった。
傘が浮遊していた。
開いたままの傘が石突きを上にしてまるで誰かが傘を差しているかのように浮かんでいた。
地面から傘の手元まで一メートルの空間がある。その間には傘の土台であるべき人物が存在していなかった。
そして、ソレはこちらに向かって近づいてきた。
傘の色は黒だった。
石突きから手元、中棒から雨を弾く生地まで、見える部品の全てが黒く塗られていた。
とくに生地はどこものっぺりとした、陰影のひとつもない見事な黒だった。
弾かれた丸い雨粒だけが光を放っている。
星空が傘の形をして浮かんでいるようだった。
「おや、傘をお持ちではない」
そう、傘の下から聞こえた。
首筋から背中にかけて悪寒が這っていくようだった。
傘から聞こえたその音が、言葉だと認識できないほど、低く濁っていた。
間近に雷が落ちたような、自分の足下から地震がおこったような。
それは声ではなく、空気の揺らぎだった。
気味の悪さとは別の、切迫した恐怖が背中を伝っていく。
咳払いのようなものが二、三回傘の下から聞こえた。
「失礼、のどの調子が悪くてね」
傘の下から声がした。
ぞっとするほどの低音のままだったが、確かに声だ、とわかるほどには澄んでいた。
「よろしければ、傘をお貸ししましょう」
私は黒い傘を見た。
降ってきた雨水と生地にとどまっていた水滴が一つになり、生地の上を流星のように飛ぶ。
突然、ほとんどの水滴がスルスルと滑り、ぱたぱたと地面に落ちて飛沫を上げる。
傘が中棒を軸にして、くるりと一回転したのだ。
傘が小刻みに揺れた。
「これはワタシの傘ですので別の物になりますが」
傘の主はまた傘をまわした。
私はだまって雨に打たれていた。
「そこに置いておきましたからね」
まるで持ち主が歩いているかのように、傘が上下しながら遠ざかっていく。
私は浮遊する傘が見えなくなるまで見送った。
ひとつ、私はくしゃみをした。
目を開けると、雨はやんでおり流れる灰色の雲の隙間から陽がさしていてた。
足下には傘が開いたまま置いてあった。
のっぺりとした青が広がる傘だった。
すでに頭から足先まで雨ざらしだった。
いまさら傘を差したところで雨粒が落ちてくるのを防ぐだけで、髪や衣服や荷物が乾くわけではない。
それでも傘を手にとったのは、なぜだろう。
傘を差せば、青天井がひろがる。
雲一つない空、もしくは凪の海。
外側にとどまっている水滴がクラゲのように透けて見える。
落ちていく水滴は流星ではなく飛行機雲かヨットが蹴立てる白波か。
家に帰り、玄関先で傘をたたむ。
空を見上げれば、引き裂かれたような散り散りの雲間から傘と同じようなのっぺりした青が覗いていた。
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