第一曲『渋谷に黒いドレスはあらわれた―Erscheinung und Taufe―』

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第一曲『渋谷に黒いドレスはあらわれた―Erscheinung und Taufe―』

 交叉点。  道と道が交わる所。心と心が行き交う所。背の高いビルディングに見張られて、幾千のネオンを投げ落とされても、それらをひとつも溢さぬくらいに隙間なく、多くの人がすれ違う場所。  わたしは後ろのシャーリングを気にしつつ、ひとつ、波を見送っていました。少し圧倒されてしまったのかもしれません。沢山の後ろ姿と引き換えに、同じ数の顔がどんどん押し寄せていらっしゃるものですから。  じわりと脇へ逸れていく殿方は、草臥れたスーツの上に、ずっと俯いたままの疲れた面差し。片方の肩だけが露なお嬢様の三面相は驚き、訝り、嗤っておいでで。うんざりと先をお急ぎの奥様は、険しい視線を満遍なくわたしに下さいます。  どうやら今宵のコーディネートは、貴女のご気分を害してしまったようですね。  デコルテでクロスするリボンが、この場所を思わせるからでしょうか。胸元に二対、編み上げられた菫青のサテンに、艶が足りませんでしたか。いいえもしかしたら、黒のシフォンは柔らか過ぎて、フリルのハリが今一つだったのかもしれません。  それでもこのパフスリーブの滑らかな曲線は、凛とした中に愛らしさをも保ち、鳥籠パニエだから描く事の出来る、スカートのロマンティックなラインは、大ぶりのチュールレースを形良く上品に引き立てます。  これは永遠の少女のテーマなのです。終末に寄り添う思想、美しきを愛でる嗜好。死と生をこの身一つに表現し、たった一人に愛される為の。  わたしはヘッドドレスの青薔薇を撫でながら、ふたつめの波には乗ってみようと考えていました。夜らしくない此処にあって、このワンピースドレスの黒色は、思いの外浮いてしまうようなのです。でしたらもう、飛び込みましょう。ずっと躊躇っているよりは良いでしょう。  やがて赤は緑へ、堰は切れます。急き立てられるような感覚がわたしを駆り立て、この足はひとりでに動き出して。その間にもびた、びた、びたと貼り付く目々が、この姿を覆い尽くす勢いです。  わたしは彼らの世界に、ごく小さな引っ掛かりとして存在出来ているのかもしれません。それでもこの波をとどめることはならないのです。  何故なら彼らは、ぶつかり合うことを嫌います。追われるように誰かの背中を追いながら、身体は触れぬように、視線も合わせないで。  無意識の自己防衛。条件反射の忌避の奥に、小さく踞るその気持ちのことを、わたしもよく、知っていました。  そう、初めての渋谷がわたしに見せたのは、寂しくて、とても懐かしく哀しい犇めき。  すれ違うだけでは、重なり合えはしないのです。だからわたしは、越えて行かなければなりません。  磨いた靴のおでこがこつんと、危ういステップは氷の上を行くように。貴方の前へ踊り出るまでには、上手になっていたいものです。  その音と出会ったのはそんな折でした。  窺うように、わたしの耳たぶにそっと触れ、はっとしたなら忽ち髄まで侵食し。メロディは、心を絡めとって呉れました。  駅前の雑踏に埋もれそうでいて逞しく、天に乞うように真っ直ぐ打ち上がり、爆ぜて一面に降り注いだら、このドレスにこびりついた蔑視の痕まで、瞬く間に洗い流して。 「…!」  その方は、真昼を思わせる金色の髪を波打たせ、流しながら、目元を食らい尽くすシャドウの純黒が印象的でいらっしゃいました。ピックを操る細く長い指先を、魂が誉めて煽る度、耳にぶら下がる無数の鈍色は狂おしいほど煌めきます。  他方、唇にすら血色を感じない陶器のようなその肌は、旋律の激しさに悉く抗い静穏で。  泣きじゃくる弦の音を、メロウな声で織って、織って、その手を、伸ばされているような――歌の裏に鳴るギターは重く美しく、わたしは彼の音楽がやんでも息を忘れたまま立ち尽くしています。 「…気に入った?」  そうした無動の一時は、幾ばくかだったのでしょう。彼は闇色に浸かった瞳を揚げ、わたしにそう尋ねます。 「は…はい…」  どうしてまだ、わたしの奥で鳴り続けるのでしょう。知らない音が生まれては、波を打ち、形を成し、重なり行くのは何故でしょう。  解らないままに、心ごと旋律の波に揺蕩い、 「…素敵でした…ギターの、メロディ」  彼の陶器が喜びに割れるのを、わたしは目の当たりにするのです。  彼はレイタさんと仰いました。あの場所で演奏していたのは気まぐれで、普段はバンド活動に精を出していらっしゃるとか。曲は、次のライブで披露する為、形にしようとしている所だと、わたしに教えてくださったのでした。
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