① 初恋は実らない

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① 初恋は実らない

 夕方、書斎の窓から街並みをシルエットに変えつつある景色を眺める。  これは約30年前にこの家に居住するようになってからの私の習慣になっている。  高台にあるこの家での生活は、結婚して8年目に始まった。豪邸というほど立派なものではないのだが、住み心地の良さを妻も私も実感している。  見事な夕焼け。  今日の夕焼けと同じものには二度とお目にかかることはない。  自然界の仕組みを形作った宇宙の創造主は、何を動機に私たちにこのひとときを提供することにされたのだろう。  今だけのために、そして、そのことに気づく人々だけのために描かれるアートというわけだ。  そんなふうに思いを馳せてみるのは心地良い。    6時40分を回った頃、開け放ったドアをノックする音。  振り返るとそこには妻が立っていた。 「またメランコリーになってるの?」  冷やかし気味にそう言いながら、私の横に来る。 「センチメンタルと言って欲しいね」と僕は返す。 「あら、自分でそれ言っちゃうの?」クスクスッと笑う妻である。  こんなやり取りを何度繰り返しただろう。私たち夫婦のささやかな習慣のようになっている。 「今日も暑かったわね」と妻が言う。そして続けた。「きれいな夕焼け」 「そうだろう」言いながら約40年連れ添った妻の顔を見る。  顔に刻まれた皺たちも、夕陽を浴びて姿を幾らかひそめたような印象を受けた。  少しだけ、涼しさを感じさせる風が部屋に入り込んだ。  窓辺に二人並び、黙ってアートに浸ってみる。 「さ、」約1分後、妻が口を開いた。「7時には焼きあがるわ」私と目を合わす。「そろそろ下りてきてちょうだいね」  どうやらオーブンで何か調理しているようだ。 「わかった。もうしばらくしたら行くよ」 「おセンチもほどほどにね」  それだけ言って小さく微笑み、妻は部屋を出て行った。  妻の後姿を見送ってから、私は改めて景色を見つめる。  なぜか自然に、子どもの頃の記憶が脳裏に浮かんできた。同時に、こんな言葉も脳裏をかすめる。  ――初恋は実らない。
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