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翌朝。男が目覚めると、女がすでに朝食を作っていた。
「おはようございます」
「あ、ああ。おはようございます」
見慣れぬ光景に、まだ夢でも見ているかと思った男は、ぼんやりしながら挨拶を返す。
女はすぐにご飯や味噌汁や卵焼きを小さなちゃぶ台に並べていった。
男がそれを口に含むと、温かく懐かしい味がして、いつの間にか流れてきた涙で塩っぽくなっていく。
顔が濡れるのを感じながら、男はこれが現実であることを実感した。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
母親以外に初めて見送られた男は、少しこそばゆい感じがして、笑い出しそうになるのを抑えて外を歩く。
男が優しさに触れたのは、約半世紀ぶりだった。十代で独り身になったこの男にとって、優しさは母がくれたものしかなかったのだ。
そして男は――、「よし、あの女のために今日は頑張るぞ」と、今日も盗みを働き、残念ながら更生には至らないのだった。
男に染み付いた汚れは骨の髄までこびりつき、今さら落せやしないのである。
………………
「なんか、今日は上手くいかなかったな……」
街灯下の夜道を肩を落として歩く男は、手に持つ膨らんだ袋を揺する。じゃらりとコインが擦れる。
盗みのために朝から深夜まで働いて、この袋一つであった。
いつも以上に男は体の重さを感じ、「老いたな」と自嘲した。が――、
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
女に出迎えられた男は満面の笑顔になり、疲れが吹き飛んでいった。
鼻をくすぐる味噌汁の香りが届いてきて、とても心地良く、男は幸せな気分になる。
「見てくれ! 今日の頑張りを」
袋を威勢よくちゃぶ台に置き、開く。
と、出てきたのは、ゲームのコイン……。
「う、嘘だろ?」
袋をまさぐってみるが、あるのはゲームのコインのみ。
「くそっ」
男はコインを薄汚れた壁に投げつけた。
すると、女が「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き出したのだ。
男が「どうした」と聞けば、女は「ご迷惑をおかけしてすみません、すみません」と泣くのだった。
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