乙女ゲームの世界に悪役令嬢として転生したと思ったらファンディスクの世界だった。

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「……いやだいやだやだ外出たくない出たくない無理無理………」  薄暗い部屋の中、ベッドの上で身体を丸めて布団をかぶり、譫言(うわごと)のように、後ろ向きな言葉を繰り返す少女がいる。  薄手の綿布団は薄紅色のゆるふわセミロングヘアを一本残らず覆い隠し、空気穴代わりの隙間から、薄く開かれた菫色の瞳が覗く。  締め切ったカーテンの裏から漏れ聞こえるせせらぎの音も、カポーンと響く鹿威(ししおど)しの音も、自身に現実を突き付ける勧告にしか思えず、彼女は自身の不幸と、この国の異常性を呪っていた。 「頭がおかしい、頭がおかしい。何であんな格好で表に出られるの?  何であんな格好で表に出なきゃならないの……!」  そこへ、ガチャリ、と、ドアノブを捻る金属音が響いた。 「ひっ」  少女が思わず布団を握ってより小さくなると、  ドガン!  とドアが弾け飛ぶと共に、湿気と硫黄の香りを帯びた暴風が部屋の中へなだれ込み、 「わあああああああ!!」  と叫ぶ少女から、意思を持つ風が布団を剥ぎ取った。  前に住んでいた土地では【明るく、愛らしく、常に楽しげ】と評されたその顔は涙と鼻水で濡れ、恐怖と驚きに引き攣っていた。  視線の先には逆光の中、ほんのり湯気を立てる丸みを帯びた両肩に、シルエットでもわかる立派な巻き髪を垂らした女が立っている。 「入りますわよ、ユーリア=ズィーベント」  女の人影はそうするのが当然とばかりに、返事も聞かずに部屋の中へ歩み入る。その後から、壊れたドアの脇、壁の向こう側に隠れていた細身の男がひょっこりと顔を出し、そのまま女の後について部屋に足を踏み入れた。  薄紅髪の少女は徐々に慣れてきた目でその二人の姿を確認し――自身の置かれた状況が、昨晩一夜限りのドッキリの類でないことを確認し、絶望した。  バスタオル一枚を体に巻いた銀髪縦ロールの女は顔立ちを確認してみれば、鋭く引き締まってはいるものの、部屋の主である少女と同じ年頃と見える。その隣で腰にタオルを巻いただけの半裸の男もそうなのだろう。  何故がここに来たのかはわからないが、何をしに来たのかは、少女にも想像がつく。そうして、巻き髪の女は、引きこもりの少女の想像通りのことを口にした。 「早々に着替えなさい。学校へ行きますわよ」  その声音の響きは、法廷における死刑宣告にも似ていた。 ***  さて、話は三十分前に遡る。 「ユーリア=ズィーベント。……おい、ズィーベントは初日から遅刻か」  王立フロレンシア高等学院は入学式を終え、新入生達も各々の教室で出席確認を受けていた。  その教室の中に空席が一つ。  空席の主はズィーベント男爵家の一人娘、ユーリア。つい先日、平民の出ながら隣国から養女として男爵家へ入り、優秀な成績から奨学生として王族推薦枠で入学した才女だ。 「ズィーベント、って、例の子だろ」 「はい。長旅で体調でも崩したのでしょうか」  さらりと流れる金髪の少年の呟きに、黒い短髪の少年が仏頂面で返事をする。  貴族の子女のみが入学を許される王立学院では元々顔見知り同士の者も多く、将来を見据えた者は既に新入生どころか全学年の全生徒の顔と名前、簡単な生い立ちを把握しているが、ユーリア=ズィーベントは隣国の元平民、ほとんど全ての生徒が噂程度でしか知らない、レアと言えばレアな相手である。担任教師ですら名前と出自、そして「優秀な奨学生」という情報しか持たない。  そのユーリアのことを、この教室の中でただ一人、リュシール=ド=メディシス伯爵令嬢だけが、その顔や家名、髪色に瞳の色、趣味や性格、好物と苦手な物、隠された血筋、秘められた能力、そして今日、この場に来ていない理由も含めて、完全に把握していた。  それも十五年も前からだ。ただし、ファーストネームと血液型、誕生日だけを除いて。  リュシールは表情を変えぬまま、小さく首を振る。  タオルで纏めた端から零れ、両頬に添うようにして二房下がる、銀色の巻き髪。  それをふわり、と揺らすと、湯気だけでない何かが立ち昇る。単純な威圧でもなく、短絡な色香でもない、つい膝をついてしまいそうな空気感が、辺りに漂う。彼女の存在に慣れていない下級貴族の子女らは、得体の知れない気配に、つい周囲を見回してしまった。 「あいつ奨学生だろ、大丈夫なのかよ」  呆れたように髪を掻き乱す担任の言う通り、大丈夫ではない。このままではユーリアは「奨学生としての授業態度不適切」として退学処分を受けることとなる。最短のバッドエンドだ。  こことは異なる世界の(・・・・・・・・・・)リュシール=ド=メディシスにとって、それは歓迎すべきことだろう。しかし、この世界の(・・・・・)リュシール=ド=メディシスにとってそれは、【世界崩壊エンド】を甘んじて受け入れるという意味を持つ。 「先生。ズィーベントさんはきっと、慣れない水路(みち)で迷ってらっしゃるのでしょう。わたくし、お迎えに行って参りますわ」  故に彼女は立ち上がり、それだけ告げた。  担任教師は、その「あまりにも当然」といった態度に、「これから学院生活の説明やパンフレット配布があるから勝手な行動はよせ」とも「迎えに行くにしても伯爵令嬢が自ら行く意味がわからん」とも言えず、 「お、おう」  と頷く。  責任者の賛同を得たリュシールは前の席に向けて、 「行きますわよ、ジルベール」  と声をかけ、返事も聞かずにドアへと向かう。  呼ばれた少年、ジルベールは慌てて立ち上がった時に椅子へ引っ掛けたタオルが危うく外れそうになり、一度座って丁寧に巻き直した後、小走りでリュシールの後を追った。  担任教師はそれを見送った所で、空席が一つから三つに増えてしまったことにようやく気付く。  増えた二つはこの国で王家に次ぐ権威と、王家を上回る実力を持つメディシス家の二人の物だ。ズィーベント男爵令嬢一人なら説明はまた後日、としても良かったが、「迎えに行ってくる」と言って出て行ったメディシス伯爵令嬢を放置して話を進めたとなると、下手をすれば職を失うでは済まない。  とはいえ、この教室には、そのメディシス家よりも――少なくとも形式上は――優先せねばならない相手がいる。担任教師は苛立ちを隠すように両手に湯を汲んで顔を洗い、濡れて下がった前髪の間から、その相手を伺った。 「ああ、先生。迎えに行くって言ったんだから、待ってやりましょう」  視線に目ざとく気付いた金髪の少年は、そう言って視線の元へ笑いかける。 「……お心遣いありがとうございます、殿下。それでは、三人が戻るまで一旦休憩だ」  担任教師は教卓に出席簿を置くと、黒板の前に座り込み、肩まで深く湯に浸かって、深く息を吐いた。  メディシスの家紋の入った幌付きの馬舟に揺られて、リュシールとジルベールはズィーベント男爵家の屋敷へ向かう水路を下る。  御者は足湯を浴びているが、舟の上の二人は湯冷めしないよう、白いバスローブを纏っていた。輝くような白銀の巻き髪を持つリュシールと、幾筋か目にかかるほどのくすんだ銀髪をしたジルベールは、普段ならばとても血の繋がりがあるようには見えないが、こうして揃いの格好をすれば従姉弟同士という関係相応には似て見える。  ジルベールにとってはそれが誇りでもあったし、たったそれだけで誇りに思えるほど敬愛する相手だからこそ、今回の彼女の行動には些かながら疑問もあった。 「リュシール様。どうしてわざわざズィーベント男爵令嬢をお迎えにゆくのですか?」  首を傾げるジルベールに、リュシールは簡潔に答える。 「彼女が学院を退学になると、世界の崩壊を回避できないのよ」  なるほど、そういうものか、とジルベールは頷く。 「風が吹けば桶屋が儲かる、という奴ですね」  ジルベールはかつて、従姉であり、本家の嫡子であり、自らの全てを捧げる信仰の対象でもあるリュシールから、その言葉を教わったことがある。この国では「風が吹けば」「水面に置いていた桶がどこかに流されて」「桶屋に注文が入り」「桶屋が儲かる」と単純な話なのだが、国土の大半が温泉に覆われていない国(そんな不気味な情景は、ジルベールには想像するのも難しかった)に於いては、もう少し複雑な手順を踏んで桶屋が儲かるものらしい。確か最終局面ではネズミが桶を齧るとか言っていた気がするが、自分が乗っている桶を齧ったりしたら湯に沈んでしまうだろうことくらい、いくらネズミでもわかりそうなものである。  ともあれ、「風が吹けば桶屋が儲かる」とは、「思いがけない理由で無関係に思えることが起こる」という程度の意味だ。男爵令嬢が学院を退学になったために世界が崩壊することも、リュシールが言うのなら、きっとあるのだろう。 「では、何故僕もご一緒することになったのですか?」  ジルベールは重ねて尋ねる。  リュシールは無駄なことはしない。用がなければジルベールになど声はかけないし、声をかけたのなら、何か自分にも仕事があるのだろう。リュシールの用には「暇潰しの話し相手」等も含まれるが、今回はそう時間のかかる用事でもないし、何より人を迎えに行くのだから、敢えて話し相手を用意する必要はない。自分に仕事があるのならば、相応の準備をしておかなければならないと、彼は考えたのだ。 「国土が温泉に覆われていない国の常識、については、前に少し話したでしょう」 「はい」 「そういった国ではね。バスタオル一枚で表を出歩くことは、ありえないのよ」 「は?」  ジルベールは何を言われたのか理解できなかった。  少し考えて、納得する。 「濡れタオルのままだと湯冷めしますから、替えのバスタオルを用意しておかなければならない、ということですか」 「そうではなくて。このバスローブよりも、更にぴったりと肌を覆う服を着ていないと、羞恥心を覚えるものなの」 「それは宗教上の理由ですか?」 「……似たようなものね」 「信教の自由は結構ですが、あまり貼り付くような服を着ていると、身体を洗うのに不便でしょう」  くすくすとおかしそうに笑うジルベールを見て、まあ、そういう反応よね、とリュシールは一人頷く。 「そこで、貴方に彼女の常識を、少しだけ改変して貰おうと思うのよ」 「そういうことなら、わかりました。ウォーミングアップだけしておきますね」  ジルベールは笑みを湛えたままバスローブを脱ぎ、、幌の隙間から掌にお湯を掬って、舟に備え付けの石鹸を泡立てて手足を洗い始めた。 (【上の選択肢】は【このまま引きこもる】なのよね。放っておいたらズィーベント男爵令嬢は絶対に部屋から出てこない)  プレイヤーの干渉を受けない、主人公の素の思考で選ぶ【正史】を【上の選択肢】に設定した、というのは、公式ファンブックでシナリオライターが語っていた裏話だ。 (正攻法の説得は聞かない。説得をしても無駄だった、という描写があったのだから)  文字を書けるようになってすぐ、思い出せる限りノートに書き留めた情報は、十五年の間で記憶としてはほとんど摩耗している。【原作】の攻略情報はほぼ無意味なものとなっていたが、【ファンディスク】の世界であるこの世界でも、生かせるものはある。【ファンディスク】の選択肢やエンディングは当時ならほぼすべて覚えていたし、【原作】の情報だって、世界が分岐した五十年前より昔の出来事や、人々の基本的な趣味嗜好は変わらない。  ズィーベント男爵家の屋敷に到着すると、馬舟内に折り畳んでいたタラップを下ろし、ジルベールが先に幌の外に出て、リュシールの手を取りエスコートする。半身を湯に浸した二人は御者を舟と共に門前で待たせたまま、湯を割くようにまっすぐに歩き、正面玄関の脇にある植木に向かった。 「ジルベール。この植木の枝の間を探りなさい。屋敷の鍵があるから」 「はい。でもリュシール様、こんなことをしなくとも、屋敷の者を呼べば良いのでは?」 「それがこの屋敷、金銭的な問題で使用人が一人しかいなくて、その一人も男爵と男爵夫人と一緒に隣国へ出かけているから、三ヶ月は戻ってこない予定なのよ」 「ということは、今は令嬢の一人暮らしですか?」 「そうよ」 「大丈夫なんですかそれ」 「あらゆる面で大丈夫ではないのだけれど、本人は料理も掃除も得意だから問題ないと考えているわ」  なお、家の者が留守にしているのは三ヶ月ということになっているが、【原作】では出先で盗賊に襲われてそのまま「戻らない」ため、ズィーベント男爵令嬢はずっと一人暮らしということになる。【ファンディスク】では予定を前倒しにして三日で帰ってくるため、恐らくこの世界でもそうなるのだろうが、あの義娘(むすめ)に甘すぎる男爵夫妻が、義娘のわがままを諌めるなんて殊勝なことをするわけがない、と当時二歳手前のリュシールは、メモを取りながら考えていた。  対処する力を持つ者が、早急に対処する必要があるのだ。 「だからこそわたくしが来たのだし、だからこそ貴方を連れてきたのよ」  ジルベールから受け取った鍵で手ずから玄関のドアを開き、出迎えもない屋敷の中、迷わず階段を上がって乾いた二階へ進む。  廊下を右に進み、一番奥の部屋のドアを、ノックもせずに引き開け、ようとして、鍵がかかっていることに気付く。  部屋の鍵は、室内の机の上だ。 「仕方ないわね。ジルベール、下がりなさい」 「はい」  こちらを向いたまま階段の所まで後ずさりするジルベールは、これから彼の主が何をする気なのかわかっているのだろう。  ぶわり、と音を立てて風が蠢き、リュシールの銀の巻き髪が前へと持ち上がった。  縦ロールが横ロールとなり、その周囲に暴風が渦を巻く。  屋敷の一階に腰の高さまで溜まった温泉の湯が、さざ波では済まない高さの揺らぎを生む。  硫黄の臭いが吹き乱れ、ジルベールは姿勢を低くして階段の手摺にしっかりと掴まった。  ドガン、と叩き付ける音と共に、ドアの破片が部屋の内側へ吹き飛ぶ。割れた板で中の人間が傷付かないように軽い竜巻で纏めつつ、同時に風圧で布団をひっぺがす。  薄暗い部屋の中、肩まで伸びた薄紅色の髪を逆立てた少女が、ベッドの上で怯えた表情をするのが見えた。隣国風の寝間着――ボタンで前を合わせるゆったりとしたトップスに、股下から分かれて両の脚を片方ずつ通す構造のボトムスの二つ揃い――のままで、いかにも今叩き起こされたといった風情だ。実際その通りなのだが。  ここで場面は冒頭に繋がる。 「入りますわよ、ユーリア=ズィーベント」  告げるだけ告げて、返事は聞く必要もないとばかりに部屋へ足を踏み入れる。少し遅れて、ジルベールも続いた。  ユーリア嬢は昨日この国についたばかりのはずで、部屋も恐らく先程までは片付いていたのだろうが、荒れ狂う風は室内に小物を散乱させていた。破損した物があれば後で弁償しよう、しかし今はそれどころではない。 「早急に着替えなさい。学校へ行きますわよ」  リュシール=ド=メディシスは宣告する。それだけでその場にいた二人には、魔力の動きもないのに、部屋に風が吹いたように感じられた。  ジルベールは誇らしげに、ユーリアは唖然としてしばらく黙ったままその光景を眺めていたが、ふと、ユーリアの方が意識を取り戻す。 「いやいや! その格好、その格好です!  バスタオル一枚で人前に出るなんて、私には無理ですよ、無理!」 「やりなさい、ジルベール」 「はい、リュシール様」 「何をするんです……って、え!? 動けない、ちょ、やめてやめて」 「ちょっとチクッとしますよー」  リュシールが風を固定して暴れる引きこもり少女の動きを封じ、流れるような連携でジルベールがその薄紅色の髪を一撫で――途端、魂が抜けたかのように、ユーリア=ズィーベントは焦点の合わない菫色の瞳を見開いて、動かなくなった。  半開きの口からは涎が溢れ始め、だらりと垂らした両腕は固いベッドに手の甲をついて止まる。  明らかな異常に、しかしその場の二人は驚いた様子もなく、淡々と作業を進めてゆく。 「質問。君の名前は。回答せよ」 「回答。ユーリア。この間までただのユーリアらったけど、今はユーリア=ズィーベントらよ」  多少呂律が怪しいものの、薄紅髪の少女は目の前の少年からの問いへ素直に答える。そこに先程までの反抗的な態度は、欠片ほども見られなかった。  【洗脳魔法】。それも並外れて強力なものだ。  【原作】のジルベール=ド=メディシスは、その凶悪な【洗脳魔法】の能力から親にも疎まれ、一族からも忌み嫌われ、他の貴族や領民からも恐れられ、人格を捻じ曲げられて作中随一のヤンデレキャラに育った。  その【原作】ジルベールでさえ、人の意識を操るには長い準備――数日に渡る監禁や暴力、CERO-Cではモノローグにされるような残虐行為による精神の破壊、薬物の使用等――が必要なのだが、【ファンディスク】のジルベールの【洗脳魔法】はその比ではない。  常時風呂に浸かって過ごし、頻繁に身体を洗うことでカンストに至った【洗う】の熟練度ボーナスにより、軽い意識操作程度ならほんの数秒、軽く頭を触るだけで行使できる。 「質問。ユーリア=ズィーベント。表をバスタオル一枚で歩くことは恥であるか。回答せよ」 「回答。はい。恥れす。非常識れす。異常れす」 「訂正。表をバスタオル一枚で歩くことは、恥ではない。常識である。正常である。復唱せよ」 「復唱。表をバスタオル一枚であぅくことは、恥れはない。常識れある。正常れある」  リュシールは今までにも何度かこのような光景を見てきたし、ジルベールの実力は信用している。  たったこれだけのやり取りで、既にこの異国育ちの少女の常識は改変されているはずだ。 「規定。三つ数えるとユーリア=ズィーベントは目を覚ます。三、二、一」 「はっ、わ、私、私は何を!?」  意識を取り戻すなり慌てて袖で涎を拭うユーリアに、それまで静観していたリュシールは改めて一言、こう告げる。 「学校へ行きますわよ。早く着替えなさい」  しかし、ユーリアの反応は鈍い。やはりまだ何か、困惑しているようにも見える。  ジルベールの【洗脳魔法】が失敗したのだろうか。【原作】バッドエンドではきっちり洗脳されていたし、洗脳耐性なんて設定はなかったはずだけれど、と術師の方に目をやって、漸く思い至った。 「ジルベール。外に出ていなさい」  言われて気付いた少年が「ああ」と手を打ちながら部屋の外に出たのを見計らい、薄紅髪の少女はいそいそと寝間着を脱ぎ捨て、バスタオルを巻いて身支度を整えた。  馬舟に揺られれば、十分ほどで学院へは到着する。ユーリアが朝食の食パンを急いで飲み込み、三人でほとんど名前を教え合うだけの簡単な自己紹介をし、ジルベールがいやに熱のこもったリュシール紹介を行えば、もう正門前だった。 「すみません、本当すみません……伯爵令嬢様がわざわざ私なんかをお迎えに来ていただくなんて」 「気にすることはありませんわ。困っている学友を助けるのは当然のことですもの」 「リュシール様はお優しい方ですから」  従弟が自分のことを語る時に妙に誇らしげなのはいつものことなので、リュシールは表面上は特に何の反応も見せず、「それよりも」と話を変える。 「ユーリアさん。これからこの学院で過ごす上で、貴女に幾つか気を付けて頂かなければならない点がありますわ」 「は、はい、はい! 何でしょう!」  真剣な声音にユーリアも姿勢を正す。ここまでの道程でも、この伯爵令嬢が――彼女の従弟や、(おのれ)の義父母とは違って――国外の常識にも通じていることは、ユーリアにも判っていた。突然放り込まれたこの環境で唯一信頼できる相手に敬愛と、身分差はあれども無意識の友誼を覚えていたほどだ。  バスタオルで出歩くことは既にユーリアの中でも疑問に思う余地すらない常識となっているが、それ以外の面でもこのどこか国はおかしい。知らずに禁忌を侵してしまうこともあるだろうし、そうでなくとも、学院のローカルルールや、派閥争いについて等、事前に教えてもらいたい事柄はいくつもある。この上品で思いやりのある令嬢の言うことは、ありがたく伺おう。  そう心に決めたユーリアに、リュシール=ド=メディシスは重々しく宣う。 「一つ、東棟三階の女子トイレには近づかない。二つ、雨の日に校庭の隅の木陰で雨宿りをしない。三つ、正門を通る時は水路(みち)の中央を通らない。四つ、正門前の水路(みち)は何があっても決してまっすぐに横断せず、必ず一度迂回してから渡る。以上ですわ」 「んん」 「リュシール様、何を仰ってるんですか」  その言葉にはユーリアのみならず、ジルベールまでもが首を傾げた。  やはりこの伯爵令嬢もこの国の人々の例にもれず、少しネジの外れた人だったのだろうかと、ユーリアは微かな不安を滲ませる。  リュシールはその反応に特に不快感を表すでもなく、軽く頷いてみせ、 「結構。まずは馬舟を降りましょう」  とジルベールのエスコートに従い舟を降り、ユーリアもそれに続いた。  御者に命じて馬舟を校舎裏の停泊所へ移動させ、門の前には三人だけが残った。 「まず、ジルベール。普通に正門を通ってみなさい」  と従弟に告げる。素直に正門の中央を通って敷地内へ入った彼を、そのまま呼び戻した。 「次に、ユーリアさん。ジルベールと手を繋いで、同じように正門をお通りなさいな」  と二人に言った。ジルベールはやはり素直に、ユーリアは疑問の表情を浮かべながらも二人が門の間を通り抜けようと、した、ところで、 「……えっ、わあああああごぼぼぼぼぼぼ!!」  ユーリアだけが突然濁り湯の中に姿を消し、ジルベールが慌ててそれを引きずり出す。  咳込むユーリアに、リュシールは問い掛ける。 「お解りになりましたかしら?」 「げほっ、うぇほっ、うう……何、何が、ですか……?」 「貴女は正門の中央を通ろうとすると必ず、こうして突然生じた穴にはまり、お亡くなりになるのですわ」 「ええええ……」  涙目のユーリアが愛らしい顔を歪め、何言ってんだこいつという表情で答えた。  リュシールはやはり納得しているような表情で、ジルベールを傍らに呼び、何事か耳打ちする。  ジルベールが「はい」と素直に頷くと、改めてユーリアへ向き直った。 「では、ユーリアさん。次はこの水路(みち)を横断してみなさい」  有無を言わさぬ迫力に、ユーリアも軽く首を傾げながらも、素直にお湯を掻き分け水路(みち)を渡ろうと――した所で突然襟首を引っ張られて後ろに体勢を崩し、 「あぶなぁぁぁぁいっ!! 暴走馬舟だぁぁぁっ!!」 「きゃああああああああっ!!?」  崩した所で、鼻先を暴れ馬の引く十トン馬舟が駆け抜けていった。  襟首をつかんだままのジルベールは、茫然としつつも、何か納得したように頷く。 「死ぬかと思った! 死ぬかと思った!?」 「ではもう一度」  驚いた風もなく言うリュシールにユーリアは目を見開いて返すも、今度は左右の安全確認をしながら、お湯を掻き分け水路(みち)を渡ろうと――した所で突然襟首を引っ張られて後ろに体勢を崩し、 「あぶなぁぁぁぁいっ!! 暴走馬舟だぁぁぁっ!!」 「ぎゃあああああああああああっ!!?」  崩した所で、鼻先を暴れ馬の引く十トン馬舟が駆け抜けていった。 「貴女はこの正門前の水路(みち)を渡ろうとすると必ず、暴走馬舟に跳ね飛ばされて、お亡くなりになるのですわ」 「そんな馬鹿な!!」 「ではもう一度お試しになりますか?」 「無理! 無理です!!」  流石にこれはもう偶然とは言えない。偶然でなければドッキリか、暗殺か、神や悪魔の呪いかといった所だが、リュシールはその選択肢のいずれが正しいのかを知っている。  これは神の呪いだ。  【ファンディスク】特有の歪んだギャグ展開。割かれる予算も潤沢でない中、分岐シナリオを書く手間を省くための、【即死選択肢】。しかも恐ろしいことに、これらは全て、ユーリアが無意識に選んでしまう【上の選択肢】に据えられてる。  リュシールにとっても、ユーリアにそんな【即死選択肢】で死なれてしまっては困る。リュシールがというよりは、この世界に生きる全ての者が、と言っても良いのだが。 「それでは改めて注意事項を繰り返しますわ。一つ、東棟三階の女子トイレには近づかない。二つ、雨の日に校庭の隅の木陰で雨宿りをしない。三つ、正門を通る時は水路(みち)の中央を通らない。四つ、正門前の水路(みち)は何があっても決してまっすぐに横断せず、必ず一度迂回してから渡る」 「一つ、東棟三階の女子トイレには近づかない。二つ、雨の日に校庭の隅の木陰で雨宿りをしない。三つ、正門を通る時は水路(みち)の中央を通らない。四つ、正門前の水路(みち)は何があっても決してまっすぐに横断せず、必ず一度迂回してから渡る」  ユーリアは与えられた情報を即座に復唱し、心の中に刻み込んだ。  満足気に頷いたリュシールは、更に続ける。 「まずはこうした不運を回避しつつ、学院生活に慣れていただきますわ」 「はい」 「学院生活に慣れましたら、同じ教室に我が国の第一王子がいらっしゃいますので、こちらを籠絡していただきます」 「は……はい?」 「我が国は立国以来、建国王直系の男系男子のみによって王位を継承して来ましたが、それを貴女の代から女系女子によって継承される女王に改正していただきます」 「はい? え、はい?」 「問題ありませんわ。貴女は建国王の妹殿下からの直系となる女系女子なのですから。【王家の血】はカス程も残っていませんが、【王家のミトコンドリア】がその証となりましょう」 「え、みとこん、え、何ですか? みとこん?」  母親からの遺伝のみで引き継がれる【王家のミトコンドリア】。遺伝によってのみ引き継がれる特殊な【星壊魔法】は、この【王家のミトコンドリア】を持つ者のみに扱うことができる。再来週にこの学院目掛けて降ってくる【直径四百キロメートルの巨大隕石】を破壊するには、この【星壊魔法】が必要となる。そして、百年後、二百年後に訪れる【直径八百キロメートルの巨大隕石】、【直径千六百キロメートルの巨大隕石】を破壊するためにもだ。  自由に行動させるとすぐに即死選択肢を選んでしまうユーリアは少々頼りないが、いざとなればジルベールに操らせよう、とリュシールは考えていた。世界を守る為には、善悪など些細なことだ。 「大丈夫ですよ、ユーリアさん。リュシール様の仰ることに間違いはありません」  困惑する当人を他所に、ジルベールはにこやかに微笑む。  それでも納得しきれるわけがないユーリアだったが、 「わたくしをお信じなさい」  というリュシールの強い眼差しを受け、 「はい、よろしくお願いします!」  と。【明るく、愛らしく、常に楽しげ】な笑顔で返事をした。
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