第二幕 星になって見守るから

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◇◇  ゴールデンレトリバーのエトワールを連れた女性は吉田瑞希(よしだみずき)さん。5時から予約している佐藤さんの妹さんなのだそうだ。読み通りに私と同じ28歳で、お腹に赤ちゃんがいるのが分かったのは一昨日とのこと。  とても礼儀正しくて謙虚な人で、私たちが楓庵まで付き添うと申し出たら、何度も頭を下げていた。はじめはちょっと壁を感じたけど、5分もすれば下の名前で呼び合うほど、すっかり打ち解けたのだった。 「瑞希さん、ごめんね。牛乳買うのに付き合わせちゃって」 「ふふ、気にしないでください。むしろ私の方こそ助けてもらちゃって、ありがとうございます」  瑞希さんがちらりと背後を見た。その視線を追うと、不機嫌そうな顔をしたソラがエトワールを引っ張って歩いている。エトワールはついさっきまで落ち着きなかったけど、今は大人しくソラに従っていた。  何か言いたそうなソラが口を開く前に、私は声をあげた。 「いえ、いいんですよ! どうせお店に戻るところでしたから!」 「そう言ってもらえると嬉しいわ。ところでこのまま楓庵に連れていってもらって本当に大丈夫ですか? まだ予約の時間よりも早いですよね?」 「きっと平気ですよ。今日は他に予約もないし。ね? ソラ」  私は再びソラに目をやった。ソラはふいっと横に顔を背けながら口を尖らせた。 「へんっ。仕方ねえだろ。店の外でこいつに暴れ回られても困るからな」  手にしたリードをくいっと引っ張ったソラに答えるようにして、エトワールが顔を上げて、尻尾をぶんと振った。  視線を瑞希さんに戻した私は、気になっていたことをたずねた。 「ところでなぜお兄さんの予約なのに、瑞希さんがエトワールを連れてきたのですか?」  私の質問に一瞬だけ瑞希さんは目を泳がせた。  いや、それだけでなく、寂しさのようなものを目に映したのだ。 「実は兄の飼い犬なんです。私は1週間前から預かっている、と言いますか……」 「そうだったんですか……。だから上手くコントロールできなかったんですね」 「恥ずかしい話です。私がまだ幼い頃、犬を飼ってましてね。ワンちゃんの扱いにはちょっと自信があったんです」 「へえ! どんなワンちゃんだったんですか?」 「雑種の大型犬です。名前は流星(りゅうせい)。私と兄が生まれる前から家で飼っていたそうなんです。私が3歳の時に母を亡くしまして……。それ以来、流星はずっと母親のように私たちの成長を見守ってくれてたんです。そんな流星も私が小学校に上がった年に亡くなりました。それまで一度も泣き顔なんてみせたことない兄が1週間も泣きっぱなしだったんですよ。その後も『いつか大人になったら流星のような優しい犬を家族にするんだ』って、事あるごとに言ってました」 「そうだったんですか。それでエトワールを飼い始めたということですね。でもそんな大事なワンちゃんをどうして瑞希さんに預けたんでしょうか?」 「それは……」  瑞希さんは言葉を濁した。  きっと人には言えぬ深い事情があるのだろう。  私はともすれば落ち込みそうな空気を振り払うように高い声をあげた。 「答えづらいこと聞いてごめんなさい! 楓庵はもうすぐそこですから! さあ、行きましょう!」 「え、ええ。よろしくお願いします!」  その後は瑞希さんの結婚のことなど、他愛もない会話で先を急いだ。  水色だった空に黒とオレンジの二色が混じり始めたところで森に入る。  木の影で覆われた森の中は薄着ではちょっと寒いくらいだ。  でも瑞希さんは身震い一つせず、緊張した面持ちで口をきゅっと結んでいる。  そして『楓庵』と書かれた木の看板が見えてきたところで、彼女は足を止めたのだった。 「あの……。ちょっと言いづらいんですけど、兄がくるまでエトワールをここで預かってもらってもよいでしょうか? 私は時間になったら迎えにきますので」 「えっ? お兄さんとご一緒しないのですか?」 「ええ……。はい。ええっと……。今日はエトワールのために予約したので……。あと、これを兄の会計に使ってください」  そう言って、瑞希さんは私の手に5000円札を握らせた。  どういうことだろう?  お兄さんと瑞希さんとエトワールで過ごせばいいのに。  目を丸くした私のズボンのすそをソラがくいっと引っ張った。 「別にいいじゃねえかよ。好きにさせてやれば。それにどうせ暇なんだ。こいつの面倒を見てやるくらい、どうってことねえだろ」 「え、ええ。そ、そうね」 「ありがとうございます! では途中で通り過ぎたカフェにおりますので、兄が帰ったら電話くれますか?」 「はい、じゃあ連絡先を交換しましょうか」  瑞希さんは私とLINEを交換した後、来た道を引き返していった。  店に戻った私たちを八尋さんは「おかえり。悪かったね」といつもの優しい笑顔で迎え入れてくれた。そしてエトワールのことも喜んで引き受けてくれたのだった。  壁掛け時計が5時を指すちょっと前に、ちりりんとドアの鈴が音を立てた。  店内に入ってきたのは30代くらいの男性だ。よく日に焼けた顔に短い髪が良く似合っている。私が「いらっしゃいませ!」と声をかけると、白い歯を見せて爽やかな笑みを浮かべた。 「予約していた佐藤です」  彼がそう告げたとたんに、部屋の隅で大人しく伏せていたエトワールが彼に思いっきり飛びついたのだった。
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