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「どういうこと?」
ぱっと顔を上げたエトワールがキョトンとした顔で問いかける中、私は瑞希さんに出会ってからこれまでのことを思い返していた。
私たちが街中でばったり出くわした時、エトワールは目に見える形で存在していた。けど楓庵にやってくるペットは実体のない霊魂のはずだ。
それに智也さんは最初からお会計を瑞希さんに任せるつもりだったし、瑞希さんも同じように考えて私にお金を持たせた。でも智也さんはカフェ代を渋るようなタイプにはどうしても思えない。
もし智也さんが『カフェ代を払いたくない』のではなくて、『カフェ代を本当に払えない』としたら……。
そしてエトワールは霊魂ではなくて、まだ生きているとしたら……。
その二つの考えを結び付ける結論はたった一つしかなかった。
『亡くなったのはエトワールではなくて、智也さんの方だ』ということ――。
だから智也さんはエトワールを瑞希さんに託そうとしているのだ。
しかしエトワールにはそんな事情など理解できないようだ。
「ねえ、パパ。いつおうちに帰ってくるの? パパがいなくなってから7日間。私はずっと玄関の前でパパの帰りを待っていたのよ。お利口にしていれば、きっと早く帰ってくるって信じてたから。パパの代わりだと言って、瑞希が家にやってきたけど、やっぱり寂しい。パパ、早くおうちに帰ろうよ」
表裏のない無垢な声が心を震わせる。
玄関の前で座ったまま健気にご主人の帰りを待ち続けていた彼女の様子を、思い浮かべただけで胸が痛む。
赤の他人の私ですら顔をしかめたのだから、智也さんにしてみれば鋭利な刃物ではらわたをえぐられたような痛みだったに違いない。
彼は目を真っ赤に腫らしながら、声を震わせた。
「ごめんよ……。俺だって帰りたかったさ。帰っておまえを抱きしめたかった。でもそんなありふれた望みすら叶えさせてもらえなかった……。突然だったんだ。俺のここが止まったのは」
智也さんは自分の胸をトントンと叩いた。
「だからこれで『さよなら』なんだ。分かってくれ」
「嫌っ! パパはいつも言ってたよね? いつかパパに子どもができたら、エトワールが守ってあげるんだよって。流星がパパや瑞希のことを愛したように、私もいつかパパの子を愛したい。それだけが私の生きる目的なの。だからお別れなんて嫌だよ……」
エトワールはクゥと鳴いて、智也さんのズボンの端を甘噛みする。
「ごめんよ……。エトワール。ううっ……。うああああああ!」
智也さんはついに泣き崩れてしまった。
私が彼らからソラに目を移す、ソラは小さなため息とともに首を横に振った。
「二人があきらめるまで待つしかねえな」と言いたいのだろう。
やっぱりあきらめるしかないのかしら?
いや、絶対に何か方法があるはずよ。
智也さんが安心して黄泉へ旅立てる方法が。
そのためにはエトワールに生きる目的を見つけてもらうしかないわよね。
でも智也さんはもう自分の子どもを残すことはできない……。
ん? 待てよ……。
私はつつっとソラのそばに寄ると、そっと耳打ちした。
「ねえ、ソラ。智也さんがいつ亡くなったか分かる?」
「はあ? なんでそんなこと知りてえんだよ?」
「いいから、いいから。もしかして7日前じゃない?」
ソラはいぶかしげに私の顔を覗き込む。
私はできる限り真剣な表情で彼を見つめた。
するとソラは大きなため息をついて、重い口を開いた。
「ああ、その通りだよ。初七日が過ぎるから黄泉に行かなきゃなんねえってわけだ」
「やっぱり! となると、あのことを知らない可能性があるわね!」
「おい。何を考えてるんだが知らねえが、余計な首を突っ込むのはやめとけって何度も言ってるだろ!」
私は下唇を突き出して首をすくめる。無論、抗議の意味だ。
でもソラに何を言っても無駄なのはわかってる。
だからカウンターの中にいる八尋さんへ顔を向けた。
だが私が何か言い出す前にソラが釘をさすような口調で言った。
「おい、八尋。おまえも言ってやれよ! 人の事情に口を出すなって!」
八尋さんはいつも通りの柔らかな表情のまま、目を細くしてじっと私を見ている。
しゃんと伸びた背筋に、小さな顔。まるで雑誌のモデルに見つめられているような錯覚に陥った私は、顔が熱くなってしまうのを抑えられなかった。
けど八尋さんはそんな私の緊張など気づかずに、低い声でたずねてきたのだった。
「美乃里さんは彼らに何を望んでいるんだい?」
考えるまでもない。
私は即答した。
「後悔しないでほしい――それだけです」
「後悔?」
「だって生きていると後悔ばかりじゃないですか? 『せっかくのお休みなのに、どうしてゴロゴロしちゃったんだろう』とか、今日だって『どうしてスイートポテトを買わなかったんだろう』って――」
「スイートポテト?」
「あ、ごめんなさい! それは私の話ですから気にしないでください! とにかく生きるって後悔の連続だと思うんです。少なくとも私はそうです!」
変なことを自信たっぷりに言ったものだから、八尋さんの口元がわずかに緩んだ。
でもその笑みに深い哀しみが潜んでいるように思えたのは気のせいかしら?
「そうだね……。うん、その通りだと思うよ」
口調がいつもよりワントーン低い。
けど今はその理由に突っ込んでいる場合ではない。
私はお腹にぐっと力を入れて続けた。
「でも誰かとお別れの時くらいは、後悔なんてしたくないし、させたくない。できれば……。すごく無茶なことかもしれないけど、笑いあってお別れできたら、とても素敵だと思うんです。もし彼らにそうなれるチャンスがあるならば、私は全力で応援したい」
「お別れの時は笑って終わる、か……」
八尋さんはそっと目を閉じた。
呼吸しているのかすら分からないくらい静かに、まるで彫刻のようにたたずんでいる。それでも深い彫りの集まる眉間と、固く引き締まった口元からは、彼が何かを理解しようと必死になっているのが見て取れた。
八尋さんの胸の内を想像することはできない。
でもきっと何か私には言えない秘密があるのだろう。
単なる直感にすぎないけど、そう思えてならなかった。
そして智也さんのすすり泣く声が徐々に小さくなっていく中、ゆっくりと目を開けた八尋さんは、ソラの方へ顔を向けて口を開いたのだった。
「美乃里さんの好きにさせてあげましょう」
私が顔をはっとあげると、八尋さんはニコリと微笑んだ。
その笑顔があまりにも爽やかで、こんな時なのにドキッと胸が高鳴る。
一方のソラは「ちっ!」と舌打ちをすると、鬼のような形相で睨みつけてきた。その視線を受け流すようにして私が首をすくめると、彼は大きなため息とともに首を何度も横に振ったのだった。
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