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◇◇
――八尋はいつも美乃里に甘すぎなんだよ。……ったく、仕方ねえなぁ。じゃあ、30分だけ待ってやる。30分たったらおまえがいかにわめこうが、黄泉送りを始めるからな。
私は今、全速力で森の中を駆けている。
外はすっかり真っ暗で、ほのかな灯りだけでは足元がよく見えないけど、そんなことお構いなしに足を前へ前へと動かした。
何度も転びそうになりながら森を抜けて通りに出る。
人々の目が私に集まっているのを感じていたけど、私の視界には100メートルくらい先にある一軒のカフェしか映っていなかった。
明るい茶色のドアの前に立ち、ちょっとだけ呼吸を整える。
ここまでおよそ10分。残りはあと20分だ。
やるっきゃない! 智也さんとエトワールのためにも!
私は意を決してドアを押した。
「いらっしゃいませ」
人懐っこい女性店員の声がしたが、その主の方に注意を向けなかった。
余計な飾りつけのないシンプルでおしゃれな店内をぐるりと見回し、目的の人物を探す。するとその人が店の片隅でスマホ片手にティーカップに口をつけているのを見つけたのである。
「いた! 瑞希さん!」
そう、その人物こそ瑞希さんだ。
私は智也さんとエトワールを救えるのは彼女しかいないと思っている。
ずんずんと彼女に近づいていく私に気づいた瑞希さんは、手にしていたスマホから目を離して目を丸くした。
「美乃里さん?」
「お願いがあるんです!」
「お願い? 私に?」
彼女のすぐ目の前までやってきた私は、深々と頭を下げた。
「このままだと智也さんは大きな後悔を残してこの世を去ってしまう。エトワールも同じ。智也さんのことを忘れられないまま、彼女は深い傷を負って生きていくことになっちゃうわ。そうならないためにも、あなたの助けが必要なの! だから私と一緒に楓庵まできてださい! お願いします!」
「楓庵に……。でも私は……」
瑞希さんは顔を青くして言葉を濁す。
しかしもう戸惑っている時間はない。ソラは絶対に待ってくれないもの。
だから私はちょっとした賭けに出ることにしたのだった。
「瑞希さん! あなただって、このままでいいとは思っていないんじゃない?」
「どういうことですか……?」
瑞希さんの眉がぴくりと引きつった。目は泳ぎ、口元が小さく震えている。
やっぱり想像した通りだ。
死んだ兄が姿をあらわすと分かっていれば、一目でいいから会いたいと願うのが家族の心情というものだ。けど彼女はそうしなかった。むしろ避けるようにして、楓庵の前からこのカフェまで引き返してきた。
つまり瑞希さんは智也さんに何らかの負い目を感じている――。
こんな時、綾香だったらこう言うだろう。
――ミノ。どんな時も笑顔でいてね。笑顔は、哀しみも、後悔も、全部チャラにしてくれる魔法だよ。
私は一度深呼吸した後、ゆっくりと噛んで含ませるように告げた。
「どんなに辛くても笑顔で見送りましょうよ。後悔を抱えたままお別れなんて悲しすぎるから」
「笑顔……」
「瑞希さん、あなたなら智也さんを笑顔にできる。彼の無念を晴らすことができる。そして彼の笑顔はあなたの後悔をチャラにしてくれる――私はそう思うんです! だからお願いします!」
もう一度、深々と頭を下げる。
「顔をあげてください。美乃里さん」
瑞希さんの声から力が抜けている。
私は少しだけ頭を上げて、上目で彼女の顔を覗き込んだ。
すると彼女は口元に乾いた笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がったのだった。
「私を楓庵まで連れていってください。お願いします」
そう告げながら――。
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