蝉を踏んだらさようなら

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蝉を踏んだらさようなら

ある夏の事だった。午後になると暑さが半端ない。だから昼まで寝ていられない。そんな夏だった。 もともと俺のライフスタイルといえば、明け方に夜を迎え、午後が朝というもの。朝は弱くて夜に強い体質だったからだ。作家として執筆するには、何時から仕事を始めて、何時に終わろうと関係ないから、時間には縛られない。 だから、人の活動が静かな深夜は俺の仕事が最もはかどるゴールデンタイムだった。 その夏は夜遅く寝ても、朝早くから目覚めてしまうありさまだった。 暑さに身体が反応して、睡魔は負けたのかもしれない。クーラーで部屋を涼しくしていても早起きなのだ。そうこうしているうちに、早寝早起きが習慣になっていた。まあ、健康的だし人間の身体の摂理にかなった過ごしかたなんだから、今のスタイルを受け入れてみるのも悪くないだろう。 そう思っていた。     だが、脳に突き刺さるいやな音に悩まされた。蝉は朝早くから鳴く。そんな当たり前のことに気づかなかった。 ジージージー、ジージージーとうるさい。今まで朝は眠っていたから気にならなかったが…。 朝の蝉は午後に鳴く大音より耳につくじゃあないか。 ジージージー ジージージー、 ああ、うるさい。 蝉を捕まえ、一気に踏み潰してやるのだ。 突然、邪悪な心の声が俺に囁きかけた。 蝉のせいで早起きしたわけではない。だが、蝉の鳴き声は、俺を不快にさせた。朝の清々しい気分が台無しになる。一日の始まりが暗いと一日中、どんよりした気持ちを引きずってしまう。 俺は、中年男で見た目は荒っぽい感じで通っているが、心はたまらなく繊細な持ち主と自負している。そう、ちょっとした物音でも、一度気になったらもうダメなのだ。 心が乱れ、集中して仕事をする事が出来なくなるのだ。 だから、俺は誰とも暮らさない。一人でいるのが自然だで心地よかった。 その心地よさを乱すのが、朝の蝉だった。  翌朝、鳴いている蝉を見つけた。 家の前にある木に止まっていたのだ。案外早く見つけることが出来た。 ならば、そく実行。そっと近づき、素早くアミで捕獲。まずはこの一匹を生け贄だ。 アミの中でゴソゴソ動いていた。ええぃ、忌々しい蝉やろう! 俺はアミを蝉が逃げないようにと静かに地面に置き、瞬時に、足で踏み潰してやった。 ぐにゃり。底が厚めのスニーカーを履いていたが、ぐにゃぐにゃと蝉が固体から液体に流れていくような、妙に暖かい感触が伝わってきた。 ああ、今、この瞬間 、俺は蝉の命を奪ったのだ。 ざまあみろ。    それは束の間のざまあみろだった。 蝉を生贄にしたことで、脱力感を覚えていたときのことだ。蝉の大群が俺に絡みついてきた。踏み潰した蝉の仲間だろうか。 まさか! それはまさか、であって欲しかった。現実に俺はまさに蝉に襲われていた。蝉って凶暴なのか。集団で動く事があるのか…。 俺は程なく意識を失った。 俺は、蝉に襲われて身体中、血まみれになっていた。眼をやられなかったのは不幸中の幸いだった。意識を戻したとき、近所の子供たちが恐ろしそうに、遠めに俺を見ていた。 俺が血まみれまま、立ち上がったとき、その子供たちが一斉に悲鳴をあげた。 「きゃー」 「おばけが動いたー」 「ゾンビにおそわれるー」 逃げ足早い子供らだ。俺は何にもしないのに。家に帰って俺の出で立ちを見ると、俺もまた自分自身に恐怖を感じ、また気絶してしまった。 その後、居たたまれなくなって引っ越しせざる得なくなった。近所では変人扱いされ、皆から避けられるようになったからだ。いくら一人が好きでも、積極的に避けられるのは心苦しくてたまらなかった。  その後の夏。 朝に鳴く蝉は知らない。俺はまた、夜型の生活に戻っていたから。人間は不健康的と思われているような生活スタイルでも、人によっては、超健康的なのだ。俺が身を持って証明できる。 蝉を踏んだら、人生 さようなら。なんて事にならなくて、ほんとうに良かった。 今では邪悪な心の声が囁いてきたら、蝉との夏を教訓にしている。 悪魔の囁きは、封印するに限るのだ。 了
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