妻には言えない

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 生クリームにめんつゆを混ぜてソースを作る。それをパスタに(から)めて、その上にたらこを乗せれば、簡単にたらこクリームパスタができるらしい。妻は情報番組でゲットしたレシピに、更に有明海苔をトッピングして振る舞ってくれた。 「どう? 美味しい?」 「うん。旨い!」  私の返答に満足した妻は、空いたグラスにアルパカのラベルの白ワインを注いでくれた。 「生クリームに海苔の塩味が合うと思ったんだよね」  妻はフォークに麺を巻き付けては口に運ぶ。同じ日本人とは思えない器用さだ。私もそれに習ってフォークを使おうとするが未だに慣れない。 「こっちも食べてよ」  副菜はあさりのワイン蒸しだった。三つ葉の毛布にあさりが寝そべっており、私を誘っているのか、芳ばしい香りで鼻をくすぐってくる。私は本能のまま、(あらわ)になった身を口に入れた。プリっとした皮を噛みちぎると、口腔に潮の味が広がった。 「これも旨いね!」 「でしょ?」  ここでグビッとアルコールにいきたかったが堪えた。今、飲むにはもったいない。 「汐莉は本当に料理が上手いな」 「ありがとう。純くんがいつも美味しく食べてくれるおかげだよ。こっちも美味しいのよ」  カルパッチョ、ヴィシソワーズ。一軒家の食卓でお洒落なディナー。妻の描いていた理想が、今まさにこの場にある。幸せな家庭。夫婦円満。全てが順調で文句のつけようなど無いはずなのだが、しかし思うのだ。本当にこれで良かったのかと。私が望んでいたものはこれなのかと。満たされているはずの心のどこかが枯渇している。そして、その正体をハッキリと認識しているが、私は良き夫として、その自問自答はおくびにもださない。フォークとスプーンのリズムの中、私達の楽しいディナーの時間は過ぎていった。 ***  私は、妻が寝静まったあと、ひっそりと深夜のコンビニへ向かった。罪悪感はある。しかし、それ以上に欲望を制御できなかった。高揚する心を諭すように、静かに且つゆっくり自動ドアが開く。そんなに焦らさないでくれよ。冷気の支配する空間が体を冷やすも、心の火までは消せなかったようだ。綺麗に並べられた発泡酒が目に入り、私の心臓は強く波打った。手を差し伸べる。氷点下まで落ち込んだ鉄肌に触れると、炭酸が空気に溶ける音が脳裏をよぎった。唾液を飲み込むが渇いた喉を潤すには至らない。だが、これでいい。渇いていればいるほど美味しくなるから。発泡酒をカゴに入れて、相棒を探す。そうだな、ポテチうす塩味。私は早々に会計を済まし、家に戻った。  静かに玄関に入り、スマフォのライトを頼りに居間へ行く。妻はちゃんと寝ているようだ。窓を開けソファーに座ると、夜風がカーテンをなびかせた。気持ちの良い夜だ。間接照明で手元を照らし、ポテチを開けるとジャンキーな匂いが鼻を差した。思わずお腹の肉を摘まむ。罪悪感はある。しかし、欲望には勝てないのだ。お次は発泡酒か。喉の渇きは既に脳を侵食し、ラベルの表面を這う水滴にさえ欲情した。それに相反するように、私の紳士的な理性は、マゾヒズムな時間をまだ楽しもうとしている。本能と理性の狭間をゆらゆら揺れながら、私は、そっと、缶のツメに指を立てた。  ――私は苦学生の時からずっとこれなのだ。友と夢を語りあった日も、恋人を失った日も、試験に合格した喜びの日も、何でもない普通の日だって、私はずっとこれだった。  発泡酒。つまみにポテチ。  ツメを勢いよく起こす。私らしい音がした。心が潤う。
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