第二話「すれ違い」

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第二話「すれ違い」

 雲一つなく、春の風が校舎の草木を揺らし、靑埜の髪を撫でていく。校舎から校門への道は、桜の花が散り敷いていて、薄いピンクの絨毯を演じていた。風が吹くと桜の花びらは舞い、どこか別の場所へと運ばれていく。  式が終了し、各卒業生とその保護者達は、後輩達は帰らず、目に涙を溜めながら、想いおもいの感情を語り合っていた。  靑埜のお母さんと僕の父さんも、正面玄関から校門までの桜並木のすみで話している。二人はどこか奇妙に真剣で、卒業式の明るい部分が欠けているように思えた。しかしそれは、僕にも言えることだ。  再び靑埜へ顔をむけると、彼女は、困ったように小さく笑っていた。 「同じ中学、行きたかったのに……じゃあ、これでさよならなんだな」  言ってから、ハッとした。無意識から出た言葉とはいえ、自己嫌悪が芽生える。僕の声音は不機嫌を隠しきれず、濁っていたからだ。でも、仕方ないじゃないか。大人だとすっかり勘違いしていた、ただの子供である僕にはどうしようもなかった。僕の感情だけは、周囲が覚える万感とは異様で、世界観も何もかもが、以前とは変わってしまっていたのだから。  靑埜は、何も言わない。僕ももう、言葉が思いつかない。何を言えばいいのか、分からない。何秒、何分と、時間が過ぎていく。それが早いのか遅いのか、分からない。周りの世界とは隔離された時間のなかに、僕達はいるような気がした。  靑埜が、背をむける。僕も背をむけて、ひとり、帰ろうとした。すると、唾を飲み込む音が聞こえ、「私は、サヨナラなんて言わないよ」と、彼女の透き通った声がした。振り返ると、靑埜が僕を濁りのない瞳に映していた。私達は、終わりではないと、これからだって一緒になれると、告知するように。  彼女は、桜の木を見るともなしに見ながら、静かに弾むリズムで、もう一度言った。 「サヨナラは、言わないよ」  瞬間、靑埜の背後で桜の花びらが晴天を謳歌し、風に吹かれて渦を描く。 「だって、新百合ヶ丘と新宿だよ。スケジュール調整すれば、たぶん、会えるよ。うん、ゼッタイ!」  断言した靑埜は、白い布の手提げ袋から、ある物を取り出した。 「はい、これ。私のアドレス。靑貴君も携帯、貰ったでしょ? これがあれば、私達の距離なんて、今までとあまり変わらないよ。それと、こっちは私から」  靑埜が、まくしたてるように言いながら渡してきたのは、腹部がほぼ白いイルカ――ハンドウイルカのストラップと、カワセミの仲間であるアオショウビンのストラップだった。  両方とも、鉛筆彫刻のように細かく造型されていて、とても小さい。特に、ハンドウイルカのストラップは、波間を跳ね上がる姿、目や口の様子、はてはその波まで青く透き通って本物のように見えた。 「知ってた? ハンドウイルカってね、泳ぎの達人なんだって。その遊泳力は高くて、昔から人間の羨望の対象なんだよ」  世代としては、今どき珍しく、それが僕達の初めての携帯電話で、メモ用紙によるアドレス交換だった。  僕と靑埜の心や魂といったものが、皮肉にも物理的距離を置くことによって、蜘蛛の糸で近づいていく。  彼女は、唇を僕の顔へ近づける。僕は、瞳を閉じた彼女の表情へ、吸い寄せられていく。二人だけの、周囲から隔離された時間のなかで、僕達は顔を重ね合わせた。永遠にも思えた数秒後に、僕達は未来に期待しながら、ゆっくりと離れた。 「じゃあ、これで……」 「いつでも、」  ――連絡が取り合えるね!                  ***  自室の窓を開けると、そよ風が顔をこする。雨の季節が少しずつ近づいているが、今日はうららかな日和で、部屋のなかに春の香りが運ばれてくる。  約束の日は、明日だ。新宿駅地下の改札近くで待ち合わせようと約束した。二年ぶりの再会に、胸が高鳴る。彼女の真意が、どこにあるのかと。  『メールでは、初めまして! 美空靑貴です。卒業式が終わったばかりだというのに、もう入学式。靑埜は、準備はバッチシ? 僕は微妙w』  靑埜から初めて返信が来たのは、入学式の一週間後。陸上部のロッカー室で、帰宅の準備をしていたときだ。写メは、校門前で恥ずかしげにVサインをする彼女。制服を着た靑埜は、照れくさい微笑をしていて顔が少し傾いていた。  靑埜が、こんな可愛い顔を見せるのは、たぶん、初めてのことだ。彼女の親以外に、靑埜と共有する時間が長いのは僕だが、新しい発見ができたことは純粋に嬉しかった。しかし、僕が今まで見てきたことのない表情に、〝負〟の感情がふつふつと湧いてくる。もしかしたら、僕の知らない複数の男子から言い寄られ、そのうちの誰かと付き合い始めたのかもしれないという被害妄想さえある。  返信が遅かったことにも、それなりの苛立ちがあった。メッセージセンターに問い合わせてもメールはなく、自室の勉強机を、ドン、と叩いたこともあった。  彼女なりの事情があるのだろうと、理解に努めもしたが、中学生活最初のホームルームが始まるころには、もう靑埜からのメールは来ないと、心のどこかで諦めかけていた。 電話にも、「ツー、ツー、ツー、」という音が虚しく繰り返されるだけで、応答がない。  疎遠になってしまうのだろうか。学校を卒業して、新しい服を着て新しい生活をおくるうちに、今までの友達とはめったに会わなくなる。僕達も、そんな彼らとあまり変わらない関係だったということなのだろうか。  そういう〝負〟の感情は、ひとりぼっちの僕を、ますます心細くさせていた。  中学で新しい友達やガールフレンドをつくれば、靑埜の不在による寂しさが紛れるとさえ思い始めていた。少しずつ、少しずつ、気持ちが片寄っていく。そのような日々のなかで、ある女生徒が心の隙間に割って入ってきたのも、原因の一つなのかもしれない。僕はその女生徒に、靑埜の返信が来るまで支えられていたように、今でも感じている。彼女を否定することで、靑埜への肯定は強くなったからだ。  みそら、あおきです。よろしくお願いします。  最初のホームルーム。僕の精一杯の声は、緊張して震えていた。クラスメイトも不安によって緊張しているが、これから始まろうとする新生活への期待が、そこには、にじんでいた。僕なんかとは、まるで違う。特に一人の女生徒は、教室の空気に、自分の人間味を過剰なく、しかし強くしなやかに溶け込ませた。  ひだかあさみです、よろしくお願いします! と、彼女は言った。  隣の席の、日高麻美。シルクのようで、なめらかな声だった。表情は好奇心に溢れた笑顔で、小動物のような可愛さがあった。それはペットショップの動物ではなく、まるで自然に生きる小動物のような可愛さだった。  程度の差こそあれ、誰もが緊張しているなか、彼女だけが教室にスルスルと溶けていった。  日高は、自己紹介が終わると僕の方をむいて、今度は靑埜のように微笑んだ。  いつかの下校中。東京都稲城市平尾の、マンションが建ち並ぶ高台にある公園に寄り道し、空の写真撮影をしていた。小学生時代の、最後になってしまったデート。  太陽から地平線に対して垂直に、焔のような光芒一閃の光を見ていた彼女の微笑だ。靑埜は僕に、転校だけでなく、予測していたこの現実を告げようとしていたのかもしれない。  小学校卒業式の日から、僕達に何が起きようとしているのか。何か白い靄のようなもので、僕達の交差点が隠れてしまうことを告げようとしていたのだと、今になって思う。彼女との時間さえ、現実と御伽話のようにズレていく予感が、今の僕にはあるからだ。  僕が靑埜に対して、真剣で切実な想いを抱いているあいだに、日高麻美という女生徒はいっさいの無駄を見せずに着席した。  ――よろしくね、美空君。  瞬間、記憶の宝庫のような場所に満ちていたはずの靑埜が、霞んでしまいそうだった。僕は、日高の内部へ、惹き込まれそうになる。  よろしく、と僕は警戒心や緊張感という境界線で、日高との心の距離を計りながら応えた。  ちりん、と鈴の音が頭のなかで鳴った。  自己紹介が終わると班をつくり、班長と副班長を決めて、委員会の役割分担が始まった。  僕は、靑埜とほんの少しでも繋がっていたいから、図書委員に立候補した。彼女と再会できたとき、僕から与えることのできる世界の断片を、少しでも多く溜めておきたかった。靑埜との精神交感のために、僕が図書委員に立候補すると、日高もすぐに立候補した。他には、誰もいない。 「それじゃあ、あらためてよろしくね。美空君」  日高のショートヘアが、笑顔とともに軽く揺れた。  なぜだろう。頭のなかでカチリと、複雑な歯車同士がタイミング悪く、ピタリと嚙み合うような音がした。それが合図となり、何か大切なものを失ってしまう不安が、僕の内面を満たした。  中学生活最初のホームルームも終わり、教室から出ようとして……、 「ねぇ、一緒に帰ろうよ」  背後から、声がした。もう、すでに聞きなれてしまった声。予想しながらゆっくりと、反時計周りにふりむく。  やはり、日高麻美だった。  僕は心のなかで溜め息を吐いて、いいよ、と、できるだけ優しく応えた。本当は、早く帰って写真撮影をしたかったのだけれど、せっかく中学でできた初めての友達を、大切にしたいという気持ちもあった。 「美空君が、私と同じ学区住まいで良かった。近所じゃないのが残念だけど」  本来なら、靑埜と通るはずだった古い自然公園の前で、手を繋いで歩く男女の高校生がいた。僕達にむかうように、反対方向へ幸せそうに歩いていく。  女性の方は、黒くて長い髪が、風でなびいていた。男性はときおり唇を軽く、彼女の髪にそっと花を添えるようになぞる。くすぐったそうに、それでも嬉しそうに笑う彼女。再び、穏やかで優しい一陣の風が吹く。二人の繋がりに惹かれて、吹いているみたいに。太陽も平等に二人を照らし、空は完璧なオレンジ色に染まり始めた。アスファルトに映る影は、髪の毛の先まで見分けられる。  僕も靑埜も、ああやって一緒に幸せになれる日が、またやってくるのであろうか。  日高は、「じゃあ、また明日ね……美空君」と名残惜しいように言い、公園のそばにあるマンションに吸い込まれていく。  きっと彼女のように、靑埜も僕の知らない制服姿で、僕の知らない生活に身を置いて、輝くような毎日をおくっているのだろうと思った。そうして、入学式から一週間がすぎようとしていた。  昼休み、図書室の本棚の整理をしていると、 「美空君って、秘密に包まれているみたいに、不思議よね」  突然、日高が言いだした。 「世界の、本来の在り方っていうのかな? みんなが優しく穏やかになる魔法を持っているような感じ。一緒にいると、誰もが安心できる」  そう、かな? と、僕は首を傾げる。 「だって、他のクラスメイトはみんな、男子は男子で女子は女子で話題がかたまっていて、まるで小学生を卒業しきれていないみたい。酷く個人的な理由で物事を考えて、それを正当化させようと馬鹿みたいに必死で……、」  僕は、顔をゆっくりと左右にふる。そして日高の瞳を、真っ直ぐ見つめて言った。 「それはたぶん、きっかけの問題だよ。僕の場合は、日高と陸上部のおかげ。日高の友達が僕の友達になって、陸上部では陸上部で自然と友達ができた。だからだよ、きっと。  それよりも、日高はどうなの? 最近、いつも僕とばかりいるよね。彼氏とか、つくらないの? みんな、勉強と同じくらい遊ぶことも熱心なのに」  卑怯な質問だと、自分でも思う。相手の好意に、悪意を持ってつけ込むことほど、卑劣なことはない。 「他の男子は、馬鹿な話題しか持っていないから、嫌いなのよ。変態も、いいところ。かなりキモイし」  僕は、何をしているのだろう? 日高の毒を吐く姿が、世界の一部でもあるということを改めて感じた。価値観が変わりそうで、自分を見失ってしまいそうになる。自分の世界観に足がつかない。 「でも、美空君は違うから話しやすい。それに、話していると、とても楽しい気持ちになれるから」 「そう? それなら、嬉しいな」僕は応え、日高が微笑む。  彼女は、何かの歌を口ずさみながら、窓を開けた。昼の光が射し込み、窓枠の影が床に映し出された。 「もう、春も終わりそうだね」  図書室のカーテンが風に煽られ、カウンターに置いてある貸し出しノートのページも、パラパラとめくられていった。一ページ目には、日付とタイトルと、僕と日高の名前が縦に並んで記されていた。僕の跡を追うように、美空靑貴という名の下に、日高麻美という名が記されている。相手を想う気持ちを、〝何か〟で届けようとすることは、僕も同様だ。ジャンルを統一せずに、本を貪って再会に備える僕と同じだ。彼女は今ごろ、どのような環境で大人になろうとしているのだろうか。  よく、夢を見る。靑埜と同じ制服を着て、毎日のように登校と授業と下校と、寄り道を繰り返す夢。  近くにある古い自然公園は、ほとんど手入れがされていなくて、深緑に包まれた古都の香りを漂わせる。そこには、コケシくらいの小さな仏像がある。足下には、誰かが願い事をかなえるために置いていった小銭が散らばっている。  下校するときは、コンビニでジュースやアイスを買い、靑埜と二人で仏像の前で涼む。登校するときはいつも、新しくできた植林トンネルの公園で競争する。同じ制服を着て、靑埜が僕の前を走って、僕は追いつけずにいて……。  彼女と共有する環境が変化しても、僕達は、一緒になって夢や幸せを求めることができると、当たり前のように思っていた。  本当はすぐ隣で、中学生に近づくにつれ、友達との距離や信頼関係が変わり始めていたのだけれど、靑埜がそばにいれば何があっても絶対に大丈夫だと思っていた。  靑埜とは、肌と肌がくっつくくらいの距離にいた。彼女の肌の温もりや、空気を柔らかく包み込む甘い吐息、微かな汗の匂いを感じていた。それが、僕達特有の精神交感の距離だった。  だが、今では携帯がなければ繋がらない、脆弱な距離となってしまった。蜘蛛の糸は、便利だが脆弱だ。肝心な時に、大切な人の安否も確認できない。現代人からITを取り上げれば、いったい何が残るのか――。  図書委員の仕事が終わって、午後の授業が始まると、靑埜のことだけを思いながら時間をすごした。僕にとって靑埜がいない授業も、なにもかもが全て、色彩のない背景のようなものでしかない。  帰りのホームルームも終了すると、すぐにロッカー室で着替え、陸上部の練習で想像上の靑埜を追いかけて、他の同級生二人と一緒にベンチでひと休みした。 「新宿って、思っていた以上に、遠いよな」  僕は濡れたタオルを額に当てて、ささやくように呟いた。誰かに、聞いてほしいわけではなかった。ただ、物理的な距離と精神的な距離の差に、弱音が漏れたのだと思う。 「は? 新宿?」  聞こえる距離なので、当然ながら友達に聞こえた。風に乗って、靑埜にまで届いたのではと焦って、すぐに上体の姿勢を正す。タオルが、小さな音を立てて地面に落ちた。落ちたタオルを見ていると、不安が、大きくなる。  これほどまでに、精神的に打たれ弱くなった不安定な僕を見て、靑埜はどう感じるのだろう。 「ここからだと、急行で約三十分じゃん。まぁ、遠いと言えば、遠いか。乾は行ったことあるか? 新宿」 「いいや、ないよ。特に行く予定とかないし。見どころも、まだ俺達にはよくわからないからな。カラオケやゲーセンくらいじゃねぇ? っていうか、金がねぇよ。ほとんどCDや漫画に消えてくからな。有楽町の方が、俺はいいな。トレンドの中心だし、日本棋院の一般対局室もあるからさ。  美空、新宿に何かあるのか? キャバクラ目当てなら、一緒に行ってやってもいいぜ。もちろん、日高には秘密にしとくよ」  いや、何もないよ……たぶん。  夕空を見上げながら、僕は呟いた。日高の、言っていた通りだ。彼らは、幼い。  部活が終了し、ロッカー室で着替えを終えると、突然、マナーモードのブッブッブという振動音が、スポーツバッグのなかから聞こえてきた。携帯が、初めて鳴った。僕は、慌てて携帯を取り出し、待ち受け画面を開いた。その瞬間、着信音は沈黙の奥にある、闇のような世界へ消えていった。  『靑貴君、お元気ですか。ちょっと、お久しぶりですね。  中学が別々になってしまったのは、お互いに残念ですが、逆に考えれば、どんな制服姿で日々をすごしているのかという想像をふくらませて楽しむこともでき、私は、靑貴君の制服姿を見るのが待ち遠しいです。  私の制服姿、喜んでくれると嬉しいです。だから、お互いに制服姿を直接見せ合って、ズレて異なってしまっている世界を重ね合わせたいです。 PS  私、また速くなったよ。いつになったら靑貴君は、私に追いつけるのかな♪                     青い閃光の女子中学生より(笑)』  靑埜の制服姿の写メ。彼女の背後は入学生とその保護者達が行き交っていて、誰の表情も不安による緊張と新生活への期待が満ちていた。  ……僕の、制服姿。なぜ添付しなかったのだろう。端末で入力される機械的な文字しか、靑埜に送っていなかった。  靑埜は、僕とは正反対だ。  携帯の文字なのに、なぜか美しく見える。心をふるわせる彼女の声音は温もりに満ち、可憐な筆致を僕の目の前に映し出している。  僕は、ロッカー室の扉を閉めた。ガチャン、と重たい音が、誰にも知られることなく世界に生まれ、消滅した。  薄い闇が広がり始めた空を見上げ、羨望する。  また、速くなった。どんどんおいてけぼりにされているようで、不安ばかりがつもる。もし、追いつけなかったら……。焦りと苛立ちが、僕を支配しようと始めていた。                 ***  僕達はしばらくのあいだ、蜘蛛の糸で繋がっていた。  『青い閃光の女子中学生へ  最近、よく夢を視るんだ。君と僕が一緒に登下校して、授業を一緒に受けたり、お互いに初めてできたクラスメイトの友達を紹介し合ったり。ねぇ、今度はいつ、会えるだろうね。そのときになったら、僕の制服姿を見てほしい。君に直接見せたいんだ。                       青い疾風の男子中学生より』  しかし、それも長くは続かなかった。中学二年生の三月のことだ。 「おおい、美空。やっぱ今日、部活も午後の授業も中止で帰宅だってよ。まだ、この間の雪も残って、危険だからってさ」  今年、クラスが別々になった乾は陸上部の副部長となり、クラス委員長にも立候補した。去年は、日高が言うように乾も、いわゆる馬鹿ではあったが、ここのところリーダーとしての雰囲気が言動に表れるようになっていた。 「クラスが別なのに、わざわざありがとう」 「いいって、教室に戻るついで。それより、携帯で何見てんの?」 「ん? ああ、ちょっとね……」  乾が画面を覗き込もうとしたところで、僕は携帯を閉じた。 「日高とのデートか?」 「まぁ、そんなところ」 「そっか。一緒に帰ろうと思ったけど、邪魔しちゃ悪いから、俺、他の連中と帰るわ。じゃな」 「ああ、またな」  それから僕は、クラスメイト達が教室から去っていくのを待ち、再び携帯を開いた。  『今度は、静岡に引っ越すことになりました。ごめんなさい』  この文面は、一滴の不安となって僕の胸の奥に忍びこみ、小学生のとき以上の波紋を生んだ。携帯さえあれば、会おうと思えばいつでも会える距離に、僕らはいる。それが、今度は静岡。靑埜との糸が、長くなっていく。  別に、メールが届かない距離というわけではない。しかし、決定的な悪意をともなって、靑埜との時間と距離がどんどんと開いていくようで、ひどく、現実を憎んだ。いつだって現実や世界といったものは、僕達の人生を裏切るようにできていると、感じてしまう。  『靑埜が謝ることはないよ。ねぇ、金曜日か土曜日あたりに会えない? 新宿で。今度は僕の気持ちで、君を繋ぎ止めるから』  告白の日から卒業式の前夜まで、僕は目の前にぶら下がっている現実を認めたくなかった。ひとりで、自分の部屋で静かに泣いた。    『私も会いたい。これが最後にならないように、二人でどうにかしたい』と、彼女のメールの文面にあった。  茫漠たる時間や人生にへだたれないように、一緒に生きていたいと、僕たちは願う。  『ねぇ、靑貴君。新宿まで会いに来てくれるの、すごく嬉しい。ありがとうね。大人になったら、ゼッタイに一緒になろうね♪ 約束だよ? 約束』  僕は、携帯を強く握りしめる。僕の世界の中心にいる靑埜が、メールの文面の裏側で傷ついているのが分かった。彼女の悲愴さが、メールの裏に隠れている。それは闇のようなものだ。闇がメールに潜み、僕に届いたのだ。決して消えることのない闇のメール。  今、靑埜は闇による大きな不安に押し潰されそうになって、涙を流しているのだと思う。僕がいない真っ暗な世界で、靑埜の心を剥き出しにされている。  『うん、約束する。絶対に、必ず会いに行くよ』  僕がそうであるように、きっと、彼女も僕がいないと胸の穴に耐えられない。                ***  地震の爪痕が残っても、例年通り二~三年生による新入生への勧誘はゆっくりと日を追うごとに、少しずつ消えていき、時間は流れていく。しかし、高校受験に対する緊張はそうもいかなかった。より一層暗い熱を持つ。友達すら蹴落として合格しようという、異様な熱気に震災心理がプラスされていた。  だけど。数年に一度の、日常とは少し異なるエピソードに身を置く一方で、僕と靑埜は〝約束〟へと、歩くような速さで近づいている。  絶対に、靑埜に会わなければならない想い。彼女との最後の瞬間しゅんかんを先送りにしていきたい想い。二つの感情が混じり、喧嘩をすることで、心が揺らいでしまう。僕は受験のこともあって、精神的にぶれていた。  第一志望校……C判定。  そして、陸上部部長となった乾は、 「おい、一年! もっと地面を踏み込んで、足を前に出せっ!」 「はい!」  グラウンドに立つと、いつもの感じが影を潜め、それが普段の学校生活のいたるところへ定着し、高校生にむけて着実に成長していた。 「美空君の方が、もっと凄い場所で頑張ってるじゃない。中学生活最初のころからずっと、美空君の方が輝いてるよ」彼女は言った。 「空の写真がコンクールに選ばれたんだもん。新百合ケ丘駅近くの……ええと、何て言ったっけ、建設予定の」  年明けて、最初の放課後のことだ。クラスメイトは全員、部活に参加したり帰宅したりと様々で、教室に残っていたのは僕達二人だけだった。その日は雨で、途中から、静かな雪になった。 「ああ、駅の近くにできるっていう……」 「そう、それ! 展示会に選ばれるかもって、先生が」  選考はほぼ確実に通るだろうと、勝手に応募した美術の先生が言っていた。  一枚目は、天へ昇る竜のような雲が、熱い陽射しを受けているカラリとした空の写真。  二枚目は、夕陽にも似た濃いオレンジの朝陽。朝陽によって、黄色と青色の中間色に染まる海雲。その手前には、ぼかしたことによって逆に存在感を強くした、草原の丘にある一本の花茎。燃えようとする世界に、一輪だけ儚く、しかし強く咲いている〝太陽と花〟の写真。  前者が美術館の入り口を飾り、後者が出口の顔になる、僕だけの二枚。もう、みんなのものとなってしまった。靑埜は、このことを知っているのだろうか? 僕らだけの心の背景がみんなのものに。そして日高は、自分のことのように僕の優秀賞獲得を心待ちにしている。  その日高は今、生徒指導室にいる。高校受験よりも、さらにその先の将来について、母親と三者面談をすることになったという。日高さえも、僕よりもっとずっと遠い世界にいる。 「ピアノとヴァイオリンが、」と、彼女は言っていた。  そういえば靑埜もピアノが上手で、ヴァイオリンも嗜んでいた。久しく彼女の音を聴いていない。  日高との毎日が、新しい過去として僕のなかに蓄積されていき、思い出すことができなくなってしまったもの。次から次へと更新されていき、とても大切なものであったはずの形の輪郭が曖昧になっていく……。  僕は、空を見上げた。どうしてだろう。一人で見上げると、必ずあの文面が脳裏に浮かび上がる。  『あのね、日常を共有していたあのころにね、懐かしいものがたくさんあるんだ。例えばね……、』  靑埜のメール。  もっと前へ、より前へ、遡る。  ……あの曲が、僕の母さんのお気に入りだという理由で、彼女はフランツ・リストのピアノ・ソナタ『ロ短調』を練習していた。『森のささやき』、『小人の踊り』、『孤独のなかの神の祝福』も。  母さんは、靑埜にリストの曲を教えることに、やや難色を持っていたものの、少しずつ、彼女の才能に取り憑かれるように指導をしていた。  『靑埜ちゃん。この曲だけは、靑貴に聴かせないでほしいのだけれど、もし聴かせたいのならば、時期を……タイミングを見計らってね。でないと――、だから、お願いね』  『……うん、分かった』  ドア越しに聞こえる、二人だけの正体不明なルール。今はもう、内容に興味はない。ただ単純な、日常的に溢れている〝何か〟であろうそれは、もはや僕の興味範囲から外れている。  こうして恋が思い出になると、過ぎ去った昔のそれは、意識の片隅に居座り、楽しかったなぁと、僕を感傷的にさせる。  顔と視線を普段の位置に戻し、僕は現在を見た。現実という正体不明の存在を前に、僕は、いったい何が出来るのだろう。 「美空! 今日は、ひとりでさぼりかよ」 「ああ。それがどうかしたか? 別に問題ないだろ。速ければいいんだから」 「そうかよ。それで、日高は?」  ――お前には、関係のないことだ。  強い怒りがすぐに湧く。 「……! もう、勝手にしろ、馬鹿野郎」と、乾は僕の胸倉を掴んでから、軽く押し出すように突いた。乾が僕に突っかかってくるようになったのは、僕が幽霊部員になったことだけではない。たぶん、彼は好きなのだろう、日高のことが。  駆け寄って来た彼は、特に言うこともなくなったのだろうか、グラウンドへ足早に戻った。「あいつ、もうやる気ないみたいだ」と、イライラしながら同級生に言うのが聞こえた。  今の僕を見たら、靑埜は、何を思うだろう。  僕の気持ちとは裏腹に、もう梅雨入り前だというのに、大気はカラリとしていた。校舎の裏庭に出ると、青葉の香りが漂っていた。  僕は、今年最初の全国模試の結果を握りつぶし、くしゃくしゃにして焼却炉へ放り投げた。滑り止めとして考えていた高校も危険領域という結果に、頭が痛くなる。少しでも現実から距離を置きたいと、強く、思う……。  いや、靑埜に会えば二年間で得たものを分け合うことができ、僕達は何だってやれるはずだ。  わずかな光を求めて、僕は学校から帰宅せず、制服のまま新百合ケ丘駅に真っ直ぐ行き、電車に駆け込んだ。快速急行新宿行きが、各駅停車より遅く感じるのは、なぜだろう。  車窓にぼんやりと映る自分を見ていると、どうしてか、期待よりも、不安と恐れの方が大きくなっていく。  窓に右手を当てると、時期外れの冷気を感じ、一瞬だけ、指から手首までしびれるような痛みが走った。咄嗟に手を離すと、右手には漠然とした不安が残り、僕をますます心細くする。  痛みがやわらぐのを待ち、視線を右手から外へ移すと、風景は、映画のスクリーンを早送りするように、次から次へと流れていった。  快速急行新宿行き電車は、代々木上原を通過し、車窓からは参宮橋周辺の都庁のビルが見え始める。  都庁の窓ガラスは、オレンジ色の雲を映し出している。二羽の青い鳥が、窓ガラスを滑るように飛行した。都庁の窓ガラスに映る雲や青い鳥の影を美しく感じる一方で、このまま靑埜と綺麗に別れることができるのだろうか。刻々と、思い出として過去になっていく、靑埜との日々のやりとり。僕のささやかだけれど、大切なこと。特別だと思っていた。何てこともない。僕も、他人の日々と差異がない。  美しい夕景のなかに、不安が潜んでいる。不安を感じる僕が、車窓に映しだされる。 『靑埜を失った世界で、お前は、それでも生き続けなければならないのだ。顔や声と、彼女そのものの輪郭を失いながら、お前は人生に埋もれなければならない』  車窓に映った僕が、車両のなかの僕に予言する。 『自分だけが、特別だと思い込んでいた罰だ。思い上がった者には、正しい罰が下る』  ……いつのまに僕の心は、ストレスというものに対し、弱くなってしまったのだろう。  結局僕は、自分自身に予言された通りの未来へ進むように、靑埜との約束を守ることができなかった。普段から、僕の後を付け回しているクラスメイトの女子――日高麻美が、僕を追って、まるで偶然だねと言いたげに涼しそうな顔で接してきた。  日高は、一年のころから三年になった今でもクラスメイトで、同じ図書委員だ。  目の線が、ほっそりとしている。髪も三年生となった今では、前髪全体は右八の左二くらいの割合で分けたセミロングヘア。ウェーブがかかっている。絹のように綺麗な黒色は相変わらずで、日高の特徴的な美点をこっそりと引き出していた。  しかし確実に、少しずつ彼女も大きくなっていく。  身長は、今では165センチを超えていて、肌は透き通るような白色。瞳は栗色がかった黒。そして細い身体と、優しそうに丸い輪郭をした顔。  日高の柔和な笑顔は同級生の男子全員の憧れで、女子全員の羨望。制服であの中学に同化した彼女は、模範的な生徒からゲラゲラとした生徒だけでなく、教師までもが、象徴的な存在として認めていた。  もちろん、目標、色欲、嫉妬、希望、絶望など抱く感情に個人差はある。共通していることは、誰もが手にしたいけれど絶対に触れることのできない、大人びた少女であるということ。  僕だって彼女を通して、靑埜と共にいる世界を想像していた。だから、日高麻美が嫌いではない。しかし、靑埜との約束を徹底的に壊されたことで、絶対とまではいかないにしても、憎悪と敵意が、僕の内面から芽生えてきたことは確かだ。  地下の小田急線専用改札口を出て、靑埜のカケラすら見逃すまいとして、必死になって彼女をさがす。  だが、靑埜との約束の場所までついてきた日高は、「こんなところで会うなんて奇遇だね!」と、予想通りのセリフを吐いて、僕の左腕に抱きついてきた。小学生のころの靑埜とは異なる、豊かで柔らかな胸の感触が、僕の内面を汚染していく。  日高の意識から逃れるために、軽度の実力行使で腕を払おうとした。しかし彼女は、僕が照れて恥ずかしがっていると思い込んでいるのだろうか、腕を胸の谷間に、より強くより深く沈めてきた。 「ねぇ、どうしてここにいるの? 塾?」  耳元に感じる、くすぐったさのある甘い吐息と気配。僕の意識が、日高の内部へ沈みそうになる瞬間、視界のすみに靑埜のシルエットが入った。しかし、すぐに消えてしまった。  胸の奥に、痛みが走った。僕達は、どうしていつも間が悪いのだろう。靑埜との糸が長くなるどころか、プツン、と、ハサミで切られてしまった。そうやって僕の携帯電話は、鳴ることも鳴らすこともなくなっていった。家族以外に僕の番号とアドレスを知っている人は、もういなくなった。電話帳は、誰のデータも登録していない。  僕の哀しみは、周りのありとあらゆるものに、形なき姿でつもっていく。読書の後の胸の芯にも、小学生のころに靑埜と共有していた勉強用のノートにも、部屋に張られた海と空の写真に内包されている、僕達の物語にも。  望んでいた日常から拒絶された僕は、ようやく理解した。  世界は、愛し合うだけでは成り立たない。そんなに簡単なものではなく、傷つけ合って憎しみ合って儚い幻想的な霧のようで、必ず歪みが生じてほつれていく。  誰かのせいで。  何かのせいで。  まるで不幸の循環を呼ぶための、複雑な運命と人生の歯車が、タイミングを見計らってぴたりと嚙み合い、音もなく僕を崩していく。決して世界を物語らない絶望的な孤独感と完璧な孤立が広がっていき、音楽が失われていくように消えていく。音のない世界に物語はないと、僕は思い知った。                 ***  彼女、いたんだ。  突き付けられた現実の姿を直視できず、私は全速力で走って逃げた。走ることは、靑貴君よりも得意なこと。しかし、暗くなっていく空の下で、足の筋肉はすぐに鈍痛を訴え始めた。簡単に限界に達してしまった足が縺れる。  何人かの通行人が、転んだ私に眼をむけるけど、誰も手を差し出してはくれない。  制服を着ているから、むきだしになっている膝を打っただけでなく、皮膚も切れて痛かった。地面から、アスファルトの臭いが私の鼻をついてまわり、気持ち悪くなる。  私は、とにかく泣かないよう、立ち上がって歩くしかない。  雲は、今の私の足と同じように、どっしりと街の上空を動いていく。けれど、暗雲の粒子はまだ落ちない。地面は、赤い水滴を一滴ずつ吸っていく。  ちりん、と鈴の音が頭のなかで鳴った。  ……そうだよね。糸だけが、私達の確かな繋がりだった。でも、部活や新しい友達関係で、忙しくて全然会っていなかったもの。それどころか、最初の糸だってあれほどまでに遅かった。  濁った水を溜め込んでいる雲は、新宿の上空を覆う。生温かい湿った空気が、私の身体を撫でて、目の前にある世界の色彩を、ふっと消したように感じた。手足の傷もしみて、熱を帯びる。でも、胸の奥は急速に冷えていく。  なんとも弱い、いや、心ない現代的な繋がりなのだろうか。それだけの繋がりに意味はないと、私にははっきりと分かった。社会はそういうふうに、冷たく出来ている。  私は小学校を卒業してから、慣れない街と新たな生活に馴染もうとした。日々、それだけを意識しなければならなかった。片親という重みは、体験しなければ分からない。  どこにでも溢れているような、よこしまな噂が流れていても成すべきこと――新しい御近所づきあい、新しい街の姿の把握。引っ越し先の息苦しさに、慣れること。一つひとつの誤解を消す、その難しさ。そして多くの小学生が抱く、たまらなく怖いけれど、同じくらい期待もある、異様で謎に満ちた中学生活。何もかもが新鮮で怖かった。私は靑貴君なしで、やっていけるのだろうかと。  めまぐるしい変化に適応し、ようやく落ち着き始めたころに、どうにか私の切ない心の一部を析出して、メールで固形し、靑貴君に送った。靑貴君からのメールは、全て保護してある。  けれど、靑貴君は同じ制服を着た女の子と、仲良さそうに腕を組んでいた。  私が静岡に引っ越すこともあり、靑貴君が、いっそう遠のいた気がする。彼がどこにいるのか、分からなくなった。私の〝負の感情〟を消してくれるはずの彼は、もう、この世界のどこにもいない。  最初の雨粒が、逃げ場のない私を選ぶようにぽつりと目の下を流れた。まるで、私自身の涙のようにも思える。いや、もしかしたら、本当に涙だったのかもしれない。しかし、すぐに分からなくなった。アスファルトに、都会独特の空気と臭いで濁った水が落ちて、一滴いってきが地面を侵して灰色に染めていったからだ。今日の雨は、なかなか止むことを知らないで、ずっと降り続くのだろう。  雨でびしょ濡れになりながらぽつりと呟くと、何人かが足を止めて私を見たが、すぐに興味をなくしてどこかへ去って行った。  私は、靑貴君を簡単に忘れられるくらい、もっともっと速く走れるようになろうと決心した。もう、彼と会うこともないから、携帯電話の靑貴君のデータを全て消去した。  ストラップのアオショウビンを、近くのコンビニのゴミ箱に捨てた今では、お母さんから貰ったハンドウイルカだけが残り、悲しそうな瞳で、私をいつまでも見つめていた。いつまでも……。
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