第一話「告白」

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第一話「告白」

 ――ねぇ、音楽って何だろうね?    ランドセルを背負い、雑木林に挟まれたアスファルトを一緒に歩く女の子は、僕の一歩前に出て言った。右手で朝のひんやりとした空気をゆっくりと握る仕種が、世界の秘密に触れているかのように、僕の目に可愛く映った。  風でかすかに揺れる木々の枝葉が、カサカサと鳴る。葉が揺れて、雫が一瞬キラリと輝いて落ちるところが見えた。  彼女の、肩より少し長めのストレートも、綺麗に踊る。道には木々の葉が散っていて、昨日の雨でしっとりと濡れている。  彼女を取り巻く世界に魅入られていた僕は、え、何? と訊き返す。 「音楽って、何だろう?」と、白い長袖と、赤みがかった白のセミロングスカート姿で、くるりと僕のほうへふりむいて言った。髪が穏やかに波打ち、スカートと胸元の薄いピンクのリボンが、少し、フワリと揺れた。  ……音楽は、音楽でしょ? と、僕は視線を外して、一呼吸置いて答えた。 「そういうことじゃなくて、いったい、いつどこで産声をあげたかってことよ」彼女は頬を膨らませて、薄い唇を尖らせた。  さぁ? と、僕は首を傾げる。そんなこと、僕は考えたこともなかった。音楽は、始めから世界に存在しているものなのだと、当たり前のように無意識にあったのだ。 「もう。なんでもいいから、少しは考察しようよ。せっかくの私達共通の趣味なんだから」  靑埜(あおの)は頬と口をゆるませてから、僕の背中に周って抱きついてきた。拍子に、ショルダーバックに飾り付けていた物――十歳の誕生日に、彼女のお母さんから貰った木彫りの小鳥が、なぜか悲しげに揺れる。 「ねぇ、いいでしょ?」と、ささやく靑埜。  耳元で感じる、彼女の優しい声と、甘い吐息。思考回路が、靑埜で満ちていく。  彼女と僕は、生まれたときから家族ぐるみの付き合いとなるが、靑埜のこうした行動はいつも僕の鼓動を速め、緊張させる。首筋をくすぐる靑埜の甘い吐息や、服越しからでも伝わる肌の柔らかな温もりが、僕の心拍数を跳ね上げる。  彼女の圧倒的な存在感に、頭がヤラれそうになるが、「何でもいいのなら、何も音楽の起源でなくてもいいんじゃないのかな」と、誤摩化した。  しかし、いつものように彼女は、「今日も私が先に議題を提示したんだから、付き合ってよ」と、ゆずらなかった。  それはそれで、嫌ではない。いつものことだ。いつもの、ちっぽけだけど満ち足りた幸せ……。 「音楽ってさ、いつ、誰がうんだんだろうね? 最終的に、どうなるんだろう」僕から離れて、靑埜は言った。  最終的に、どうなる。 「音楽という一つの文化圏を超えて、『魅せる音楽』になっていくのかな? ふりつけとかコスプレとか……」  なぜだろう。彼女の言葉は、不思議にも、寂しく聞こえた。  僕達の日常は、いつまで続くのか。期待に不安が混在した謎に満ちる未来が、頭のなかでよぎる。何かが、足りなくなる感じ……。    ちりん、と鈴の音が、ふと頭の中で聞こえた。 「ねぇ、聞いてる?」  しかし、次の瞬間、彼女の言葉が耳に入り、僕の思考回路を浮遊する。再び靑埜で満ちる僕。彼女が発する全ての言葉のなかに、自分の心が、ゆっくりと沈んでいきそうだった。 「あ、ああ、聞いてるよ」  夏の静かな海中をたゆたうように、靑埜が発する一つひとつの言葉の深層部分を僕の心は漂う。 「音楽ってのは、つまり、人類の文化における共通語の一つでしょ? だからやっぱりまずは、純粋な言葉から産まれたんじゃないのかなぁ」 「例えば?」  僕は歩を止めて、少し考える。そして、雑木林のずっと先に広がる人工物のない、澄んだ青空を見上げて言ってみた。 「空とか海とか、鳥とか魚とか、そういう存在が音や鳴き声を発して、それが言葉の遺伝子として連なって言語になって、そして音楽になっていったんじゃないのかな?」  一つの言葉が、次の言葉を生み出す。生まれた言葉が、別の言葉を生み出し、連結する。連結した言葉が、さらに別の言葉をどこからか呼んでくる。呼ばれた言葉は新たな言葉を生み出す。……その連鎖が、全ての音の始まりのように、僕には思えた。 「たぶん、風景とか、そういう世界の情報のカケラを物語るものじゃない? 音楽は、世界の神秘や、その秘密に触れられる文化だと思う」  ふぅん、そうなのかな? と言い、再び歩を進める靑埜。  きっとそうだよ、と、僕は数秒遅れて彼女の後を追う。  木々から漂うかすかな香りに包まれている道を、しばらく黙って歩く。靑埜が前で、僕が後ろ。完璧な朝日が、彼女の髪の毛の先を鮮鋭に、湿ったアスファルトに影として縫い付けている。  風の音に混じって、細く透明なさえずりが聞こえてきた。空に顔をむけると、二羽の青い鳥が、僕達の世界を見下ろしていた。  僕も、あの鳥のように高い場所から、世界の流れ、繋がり合い、新たな息吹を、彼女と見てみたい。 「靑貴(あおき)君って、聡明だね」と、靑埜は言った。  僕は彼女を視界に入れて、そう? と、首を傾げる。  うん。と、靑埜は頷いて、 「そういうところ、かっこいい。うん、やっぱり私達ならいつまでも大丈夫だね」と、微笑んだ。  当時、女の子から「好き」とか「かっこいい」と告げられることに慣れていない僕は照れてしまい、彼女を視界から外してしまった。  ……照れる一方で、〝何がいつまで大丈夫なのであろうか〟と、一瞬、疑問に思った。 「でもそれだったらさ、音の始まりって何かな? だって『海』も声に出すと、一つの音でしょ? 波の音が原点で、そこから『これは海の音だ!』って認識されて、そうやって音楽へと形になっていったのかな? 母なる海……みたいな感じで」と、指摘される僕。  そのようなことを言っていたら、〝無〟はどうやって〝有〟を創り出し、宇宙を創ったのかとか、物理学者がするような話から始めなければならなくなってしまう。音の起源は〝無〟が〝有〟になってからであるのかもしれない。  靑埜は吐息を一つ漏らし、「私達の考察対象は、あくまで音楽であって、宇宙ではないでしょ? 靑貴君って、たまに話を脱線させるよね」と、苦笑する。  横道それたのは、君が原因じゃないのか? と、僕は思いながら、再び前をむいた靑埜に気付かれないように、軽く溜め息をついた。  風に揺られ波打つ草や、雑木林の枝と葉のこすれる音を感じながら、音楽の起源について意見交換を再開することに決めた。  僕達の両親は、音楽家というわけではない。  四人は同じ大学のサークル仲間であり、何か世界の秘密に触れようとしていたという。大学卒業後も付き合いはあって、靑埜のお母さんと僕の父さんは今でも交流がある――靑埜のお父さんと僕の母さんは、ある日、行方が分からなくなった(ずっと後になって、その理由を僕達は知ることになる)。  僕達の方は、運動だけでなく読書と写真撮影も好きで、よくお互いに読んだ本の意見と感想の交換をしている。撮影した写真も見せあっている。  僕は、風と雲の流れや、時間の経過で変化する空が好きで、様々な姿を一眼レフで集める。毎日、朝・昼・夜で違ってくる空。僕にとって空との出会いは、常に一期一会で、同じ空を写真以外で見ることは、かなわない。少し寂しいアルバムだが、次の出会いを楽しみに待つこともできる。  靑埜も、僕と似たような理由だろうか、海の写真を撮る。  彼女は、水平線のむこうがわにある何かを見つめて、時間帯やアングルなどを工夫する。ファインダーの先にある小さな揺らぎ、淡い陰影など、世界のカケラを鮮明に記録する。世界のカケラを、そのまま再現している。  僕が撮った空の写真は、靑埜と僕の部屋の天井いっぱいに張る。靑埜が撮った海の写真は、彼女と僕の部屋の壁に張っている。二人の部屋の天井は、ミニチュアサイズの空と雲が広がり、横の壁は蒼海と水平線をずっと遠くまで写し出す。  二人の部屋は、カメラで再現された空と海によって、一つの風景を表現し、青と白の小さな世界となっていた。  そのようにして、お互いに物事を分かち合う趣味ができた。結果、感受性も強くなっていき、僕らはクラスメイトより、一段早く大人になっていた。少なくとも、このときまで僕は、そう思っていた。 「ねぇ、学校まで競争しよう」と、急に靑埜は走りだした。  ホントにいつもいきなりだなと思いながら、「ちょっ、待ってよ、靑埜!」と追いかける。  入口が、植林のトンネルになっている自然公園に入る。そのまま遊歩道を通り、公園の出口から人通りもまばらな民家が続く坂道の一番下まで、僕ら二人は一気に駆けぬけていった。 「私を追い越せたら、私の人生全部あげてもいいよ!」  彼女は僕に追い越されることもなく、こちらに顔だけをむけて、微笑みながら言った。  あのころは本当に、茫洋たる世界に散りばめられた一つひとつのカケラを、本や雑誌やテレビ、あるいは旅行から得て、お互いに交感し、共有したものが靑埜と僕の全てだった。  靑埜のお父さんと僕の母さんが、数年間、〝具体性のない何か手が届かないもの〟に触れようとしていたこと。その二人が〝共有した魂の情報〟というものに、僕達は迫りたい一心で、精神的な情報のやりとりを始めたのだ。  精神的な情報のやりとり――すなわち、魂の交感だ。  遅いぞ、靑貴! と、靑埜は丸く微笑んだ表情で、朝特有の冷気をはらんだ優しい風に乗せて、声を届けてきた。  急いで追いかけるが、結局僕はどれだけの速さで生きようとも、いつまでも彼女に追いつけないでいた。いつまでも……。                 ***  そのことが起きたのは、空気の汚れた部分を小雨が吸い取り終えた、少し鼠色が空に残る放課後が始まってからのことだった。  帰りのホームルームが終了し、教室から廊下へ出ると、暗いなと感じた。決して、節電による消灯だけが、廊下を暗くしているのではない。年々暗くなっていくような気さえする。 「美空、どうした?」  立ち止まって蛍光灯を見上げている僕に、このときの友達は何を思ったのだろう? 「いや、何でもないよ」と僕は言って、すぐに歩き出す。 「このあとさ、どうする? どこかで遊ばねえ?」  もうひとりの友達が言った。 「ごめん。先約があるから、先に帰るよ」  街には明るさが戻り、まるで何事もなかったかのように賑やかだ。以前は、お花見はおろか結婚式さえ見送る事態にまで、全国は黄昏時を迎えていた。テレビでは自粛ムードとか、ボランティアとか、思いやりとか綺麗な言葉が投げられたが、僕は、電車などでお年寄りに座席を譲るCMに、多少の苛立ち感を覚えていた。 「先約って?」と、友達が訊いた。 「いや、まあ、ちょっと……」  しかし実態は、牛乳や水に普段買わない缶詰などの買い溜め争いが、コンビニとかで発生していた。電車での座席の奪い合いと、対して変わらないように思えた。被災地は、ゴミ箱なのだろうか? 寄付品もその多くがゴミで、分別作業から行われていたらしい。時間と労力の無駄遣いで、そのぶんだけ支援が遅れてしまう。何もかもが矛盾だらけのこの世界で、何のために僕達は生きているのだろう? 「靑貴君! 待って、靑貴君」  螺旋階段をおりるところで、僕は彼女に呼ばれた。 「先約って、やっぱりそうか。いいよな、美空は」とか「今日もデートか!」と、からかわれる。 「はは、わりぃ……」と、僕は自分でも分かるくらいに赤く染まった頬を、右手の人差指で軽く掻きながら二人の友達を見送り、靑埜を待った。  めずらしく息を切らしながら、階段をおりてきた彼女に僕は訊いた。 「試験、どうだった?」 「私の校内模試は晴天下の予報だよ。靑貴君の答案用紙の晴れ具合は?」 「僕も同じくらいだから、一緒の中学に行けるかも」  瞬間、靑埜の呼吸が整った。  え、あ、うん。たぶん、そうだね……。    僕の、希望に満ちた未来への期待に対し、彼女は笑顔を曇らせ、横をむいた。 「何か、あったの?」 「ちょっと、ね」  靑埜にしては、めずらしく言葉数が少ない(もっと深く訊くことができればよかったのに、と、今の僕はいつも思う)。  訊きたいけど訊けない沈黙に包まれて、校舎の正面玄関を出る。夕陽でオレンジ色に染まっていく雨上がりの空を、ふたりで見上げた。 「放課後の風って、気持ち良いよね」僕は言った。 「うん、そうだね」  ……また、静けさに包まれる。何か言わなければならないのに、何も言えることのできない沈黙。  僕はゆっくり歩き、靑埜はもっとゆっくり歩いた。僕のほんの少し後ろを歩く彼女は、本当に靑埜なのだろうか。  何かあったの? と、僕はもう一度訊こうとした。すると、靑埜は歩を止めた。僕は、顔と身体を靑埜へむける。彼女は、少し顔をうつむかせていた。目の輪郭は前髪の奥へと、隠れてしまっている。  僕の後ろにいる彼女を見るのは、これが初めてだ。いつだって僕の前にいて、先を走る靑埜なのに。  僕は、まるで身体の輪郭さえぼやけていきそうな靑埜の、言葉を待った。  しばらくしていると、彼女は顔を上げた。靑埜の浮かべる微笑が、夕陽に照らされているせいなのか、揺らいで見える。顔の一つひとつのパーツが、別の世界に迷い込んだように、不安と哀しみに満ちていた。  何をしてあげればいいのか思案するも、一方で、どうしようもないくらいに今の彼女が美しくて、愛おしくなった。夕空から降り注ぐ淡い光の粒子が、靑埜をこの世界から刳り抜いて、かすかに浮かせているように見えたからだ。  僕の視界に立つ靑埜の背景は、太陽を中心とした光芒がその世界に描かれている。優しい輪郭の雲達が、雨上がりの夕空を流れる。靑埜が翼を失くした天使のように見えて、視界の中心に定まった。 「うん。今朝起きたとき、仕事場にいるお母さんから電話があってね、」と、話し始める靑埜。 「さっきもお母さんの携帯に電話して、説得してみたんだけどね……」  か細く揺れる靑埜の一言ひとことは、静かに降る雨のように、ゆっくりだった。いつもの話し方とは違う一粒の涙にも似た告白は、僕の胸に落ちて波紋を生んだ。その波紋が広がるのを感じ、僕のある想いをスッと冷たくする。僕と彼女の距離を、はっきりと決定づけるものだったのだ。
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