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ともしび
君を郷里に連れ帰った年の秋、両親が東京に出てきた。観光もかねて君に会うため。
「珠理奈さんは元気なの」東京駅で出迎えた母の第一声はそれだった。
「うん、元気だよ。急いでるときは電車の中を走りそうになる子だから。今日もすごく楽しみにしてるよ」
「あはは。元気が何よりよ。家に来た時にさ、アワビの味噌漬けの作り方を教えてほしいって言ってたから、お前んちに明日クール便で届くからね。旬じゃないんだけど漁師の坂上さんになんとか頼んどいたから。でもさ、あれはアワビじゃなくて小ぶりのトコブシだって、母さん教えたかしらね? 忘れちゃったんだけど」
「ああ、そんなこと言ってた。アワビの赤ちゃんだとかなんだとか。違うんだと突っ込んだけど、赤ちゃんって譲らない。ちょっと頑固なんだよ。でも美味しいよねトコブシ」
「味はアワビに劣らないからね。熱を加えても硬くなりにくいから煮ても焼いても最高だし」
母の作るトコブシの味噌漬けは、表現を迷うほどに美味しい。酒が異様に進むのだ。それを炙ってもまた旨い。人生の中で食べたものの内、トビウオの塩焼きと並んでたぶんトップクラスだ。
トビウオの塩焼きはそのままでは塩辛すぎて食べられないから、焼いてから熱湯をかけて塩を抜くのだ。このふたつに並ぶほどの美味をあげるならくさやの干物ぐらいだ。
「それより疲れなかった?」
「まあね。ちょっと疲れたけど富士山が見えてよかったよ。お父さんは寝てたけど」
「寝ちゃだめか?」母の後ろで父がふわぁとあくびをした。
電話で確認しておいた父の希望は、雷門とスカイツリーだった。
「遠いんかね」父の間延びした声がした。
「ああ、車で来たから、あっという間についちゃうよ。それに、雷門のある通りからスカイツリーが見えるし。母さんの希望は?」
「どこでもいいよ」と笑った。お前と父さんがいればさ。
「三泊四日の強行軍だから、これから向かうからね。今夜と明日はゆっくりしよう」
「珠理奈さんは夜には来られるんでしょ?」
「うん。今日は事務所の引っ越しで休めなかったからね。明日とあさっては一緒にいられるよ」
「それからさ」ちょっと恥ずかしそうに父が口を開いた。
「ともしびに行きたいな」
「ともしび? 何それ」
「歌声喫茶だよ。昔なんだけど、新宿のともしびに連れて行ってもらったことがあるんだ」
「へえ、父さん東京に来たことがあるんだ」
「研修だったな。一回きりだったけど」
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