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カチューシャ
「珠理奈さんもいっしょだったらよかったのにね」表に出てスカイツリーを見上げた母はちょっと寂しそうだった。
「それはまた今度に取っておこうよ。一番残念がってたのは珠理奈だから」
「そうだよそうだよ。珠理奈さんが一番可哀そうだ」父もちょっぴり寂しそうな顔をした。
父母共に、やんちゃ坊主のような珠理奈を気に入ってくれたことが何よりもうれしかった。
『中村さん。はい!』あるとき突然口を開いた君は、満面の笑顔でシャキッと片手を上げた。
『いきなりなにそれ』
『練習。中村さんの』てへっ。
雷門とスカイツリーの観光を終えて、車で新宿に向かった。ネットで調べた歌声喫茶『ともしび』に向かったのだ。父の記憶では一階だったという話だが、今は場所を変えて営業しているようだ。後部座席の父はそれに備えてか、ご機嫌に歌い始めた。
りんごの花ほころび 川面に霞たち
君なき里にも 春はしのびよりぬ
「ほら、母さんも歌おうよ」恥ずかしがる母の肩に腕を回し、体を左右にゆすり始めた父と、否応なく体が揺れる母がルームミラーの中に映る。
岸辺に立ちて歌う カチューシャの歌
春風やさしくふき 夢がわくみ空よ
「それ、なんて歌だったっけ」
「カチューシャだよ。ABCがどうたらじゃないからな」
「AKBって言いたかった?」
「そんなものはどうでもいい。おれらには関係ないものな、母さん。そうそう、この歌ってね」
父の説明を聞きながら交差点に進入した刹那、ルームミラーからおろした視界の右手に急速に迫る黒いものが映った。右を見た僕は急ブレーキをかけた。その判断が正しかったのかは分からない。それは驚くほど強い衝撃を与えた。
視界に映った黒いものは信号を無視して突っ込んできた車だった。
車は大げさにスピンして景色が回った。けれど幸いなことに後続車に追突されることもなく、父母共にかすり傷程度ですんだ。
あれがふたりが乗る後部座席に激突していたらと思うとぞっとする事故だったけど、不幸中の幸いだった。
でも、その夜に予定していた君と僕の両親との食事会はキャンセルせざるを得なかった。
「あの夜は何を食べる予定にしていたの」君はちょっと上を見上げた。
「決めてはいなかったけど」
そう、当日にみんなで相談して決めようと思っていた僕は、「でも、お寿司だったかな。ふたりとも肉より魚が好きだから」と答えた。そのあとは居酒屋かな、ほら、いつものところさ。
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