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のろのろと歩いている。
ぎりぎり、前方の安全を確認できるくらいまで顔を下に向けて。
何も代わり映えのない今日という一日が、また始まる。
靴箱から上靴を取り履き替えると、重たい足取りで教室へと向かう。
耳にさしてあるイヤフォンが僕から外の世界を防いでくれている。
僕の在籍する一年五組の教室があるのは、校舎の四階。三階が二年生、二階が三年生。
重い足取りで一段一段ゆっくりと登っていると、三階から四階へ向かう階段の踊り場に、誰かを待っている様子で女子が一人で立っていた。
ゆるりと巻いた亜麻色の髪、少し丸みのある輪郭、大きく可愛らしい瞳、だけど彼女の瞳や仕草から、おどおどとした様子が見て取れる。
多分、人見知りな性格なんだろう。それが、こんなたくさんの生徒が通る階段の踊り場で立っているというのは、さぞかし苦痛だろう。
僕は、そんな彼女を一瞥すると、少し歩く速度を早めた。
「お、お、おはようございます」
彼女の前を通り過ぎようとした時、明らかに彼女が僕にむかって挨拶をした。
それはイヤフォンをさしている僕にもはっきりと聞こえるくらいの、大きく震えた声だった。僕はびっくりして彼女へ視線を向けた。
彼女は顔を真っ赤にして震え、スカートをぎゅっと握りしめている。そしてその瞳からは、さっきのおどおどとした様子は見られず、強く力がこもっていた。
「お、おはよう……」
我に返り慌てて挨拶を返すと、彼女はばっと頭を下げ、慌てて階段をかけ登って行った。
呆気にとられていた僕の後ろから、おはようと栗原が声をかけてきた。僕も栗原におはようと返して歩き出すと、栗原も僕の歩調に合わせ階段を登り、教室へと向かった。
一緒に教室まで歩いたけど、特に何の会話もなく二人とも無言のままだった。
教室へと入ると栗原はクラスメイトたちへ、いつもの明るい調子で挨拶をし、自分の席へ座った。
僕は僕でイヤフォンを耳にさしたまま、のろのろと自分の席へ座る。
て言うか、さっきの女子は誰だろうか。
僕を待っていたのだろうか。ただ挨拶をするために、あんなにたくさんの生徒が通る場所で。
ちくり…
思わず眉間に皺を寄せる。
僕は鞄を枕替わりにして顔を伏せ、目を閉じた。
さっきの彼女の表情……
どこかで見た事がある気がした。強く真剣な力のこもった眼差し。
どこだっけ……
どこで見たんだっけ……
ちくり……
考えようと、思い出そうとすると、こめかみに痛みが走る。
やめよう、考えるのをやめよう。
僕は体を起こし、鞄から教科書などを取り出した。
しばらくすると教室へ担任が入ってきた。散らばって話しをしていたクラスメイトたちは、教室のそれぞれの場所に戻ると、少しざわめきが残ってはいたが、教壇の方へ顔を向け、ごにょごにょとよく聞き取れない担任の話しに耳を傾けている。
僕は、よく聞こえないなら聞かなくても一緒だろうと、机の中からポータブルオーディオを取り出し、イヤフォンを耳にさす。
そしてまだ、誰もいない静かな運動場に顔を向け、小さなため息をひとつついた。
退屈で退屈でしょうがなかった時間がゆっくりと過ぎていき、昼休みを知らせるチャイムが学校中に響き渡る。
僕はいつもの場所へ行こうと席を離れた。
教室ではクラスメイトが、仲の良いものでかたまり、昼ご飯の準備を始めたり、購買か食堂へ行くため急いで教室を出ていく。
僕は一人で教室から出ると、廊下にいる生徒たちを上手く避けながら、中庭に向かい歩いている。すると下へ降りる階段の手前に、今朝、踊り場にいた女子がこちらを見つめていた。
「こ、こんにちは!!」
驚いた事に彼女は、今朝と同じ位の大きな声で僕に挨拶をしてきた。驚いたのは僕だけではなく、周りにいた他の生徒も同じで、じろじろと彼女へ視線を向けた。
「え、なに?」
「びっくりしたぁ」
周りが少しざわざわしている。
そりゃそうだ。いきなり、あんな大きな声で挨拶をしたら僕だけではなく、周りもびっくりするだろうから。
そんな周りの様子に、彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤にして、ぷるぷると震えている。
こんな事になるなんて、最初から分かっていたはずだろう。なんでそこまでして僕のようなやつに、挨拶をするんだろうか。
「…あ、うん、こんにちは」
僕はイヤフォンを片耳から外し、彼女に挨拶を返した。
無視して行こうと思ったけど、彼女を見ていると返さなきゃいけないと思ったからだ。
僕の声が聞こえたのか彼女は僕の方へ少し潤んだ瞳を向けると、とても嬉しそうに、にこっと笑顔をうかべた。
そしてぺこりと頭を下げ、廊下を僕と反対方向へと走っていく。
ちくり…
あぁ……あの笑顔はどこかで見たな。
こめかみに走る痛みと同時に、僕はなにか思い出しそうになった。
彼女が去ると他の生徒たちも、ばらばらとそれぞれの目的のために去っていく。
僕も気を取り直して中庭に向かい歩き始めた。
「ねぇ、あんた」
階段を降り、中庭へ出る扉を開けようとした時に、後ろから声を掛けられた。
この声は……栗原だ。
さっきの一件でイヤフォンを片耳から外したままだった。両耳にさしていたなら、気づかない振りもできたんだろうけど。
僕は、仕方なく栗原の方を向いた。
「…なに?」
「あんた、今からいつもの所に行くんでしょ。私も一緒に良い?」
栗原は何を考えているのか、僕について行こうとしている。せっかくの一人になれる昼休みが、またこの前のように栗原のせいで潰されてしまう。
「嫌だ」
僕がぼそっと返事をすると、つかつかと歩み寄ってきて僕を見上げた。
「良いじゃん、別に」
「僕に関わるなって言ったはずだけど」
僕は栗原の視線から顔を逸らしながら、もごもごとそう言うと、栗原は僕の胸をこつんと小突いた。
「良いから行くよ、昼休みが終わっちゃうから」
私にはあんたの意思なんて関係ないよ……と言わんばかりに扉を開け、この前、栗原と話しをしたベンチに向かって歩き始めた。
僕は仕方なしに栗原の後ろをついて行き、ベンチに向かった。
栗原は自分の座っているベンチの横をぽんぽんと叩き、ここに座りなよと目で訴えた。
僕は栗原の横に座ると、ビニール袋からサンドイッチを取り出し封を開けた。
その横で栗原は、膝に載せた弁当箱の包を解き、いただきますと小さな声で言い弁当を食べ始めた。そしてしばらくすると、僕がサンドイッチをもしゃもしゃと食べているのをじっと見ている。
「あんた、いつもコンビニなの?」
「うん、自分で作るのもめんどうだし、買った方が楽だから」
サンドイッチを口に頬張り、もごもごと答えながら次に食べるおにぎりを取り出す。
「自分で作るって……親は作ってくれないの?」
「僕は一人暮らしだから」
話しながら封を開けていたためだからか、おにぎりの開け方を失敗して海苔が変な破れ方をしてしまった。
「あんた、不器用だね」
海苔がぐちゃぐちゃになったおにぎりを見て、栗原があははっと大きな声で笑った。
それから、とりあえず昼ご飯を食べ終わるまでは、お互いに特に話す事もなかった。
「ごちそうさまでした」
栗原はそう言うと丁寧に弁当箱を包み、自分の横にちょこんとおいた。
「あんたさ、遥香になにかした?」
栗原は僕の方をじっと見つめ尋ねてきたが、その前に山川さんがどんな子かも知らない。
「いや……」
少しうんざり気味にそう答えた。
「じゃぁ、あの朝と昼の挨拶は何?普段の遥香はあんな大きな声で挨拶しないよ」
「あの子が……山川さんだったんだ」
「あの子が遥香って、あんた、知らなかったの?」
「うん」
栗原は僕を少し呆れた様子で見ている。
「でも、遥香はあんたの事を結構前から知ってる素振りだったけどなぁ…本当に知らなかった?」
僕は栗原の質問に無言で頷くしかできなかった。
ちくり…
痛みが走ると、無意識のうちにこめかみを押さえた。そんな様子に気づいた栗原が心配そうにこちらを見ている。
「具合悪いの?」
僕は大丈夫と、首を左右に振った。
「あの子、人見知りで控えめな性格だから、今日のあれをみてあんたと何かあったのかなぁって心配になって………」
栗原は僕の方を見ず、視線は良く晴れた雲一つない空に向いている。
「バスケやってた時は、その時だけスイッチ入って積極的になれてたんだけどね」
「バスケ部?」
「そう、うちらこれでも県大会まで行けたんだよ」
栗原はえへんと無い胸を張った。
「遥香は中学校まででやめちゃったけどね」
少し寂しそうに言うと携帯を開き、待ち受け画面を見た。待ち受け画面は白いユニフォームで撮ったバスケ部の集合写真だった。
「あっ、もう昼休み終わっちゃうよ」
携帯の待ち受けを見て時間に気づいたのか、慌てて僕に早く行くよと促した。
僕ら二人は急いで教室へと戻り、何事もなかったかのようにそれぞれの席について、次の授業の準備をした。
僕と栗原が一緒に教室へと入ってきた事に対し、誰も気に留めていないようであり、僕はほっとした。
別にやましい事がなくても、誰もいない中庭で一緒にお昼ご飯を食べていた事に対し、変に勘ぐられるのもめんどくさい。
クラスメイトからしてみれば、クラスの中心にいる栗原と、空気のような僕に接点があるなんて思わないだろう。
僕は、ぼけっと教壇の方へ視線を向けていた。
また昼休みが潰されたな。
未だに中学校の部活の写真を待ち受けにしてるなんて、よっぽど楽しかったんだろうな。
ちらりとしか見ていない集合写真、小さくてよく見えなかった集合写真。
拡大して見せてもらってもいない。
なのに、あの白いユニフォームには見覚えがある。
ちくり
痛みが走る。
目を閉じると、頭の中に濃い霧がかかったような記憶が甦ってきた。あまりにも不鮮明すぎてそれがいつなのか、そしてどこなのかもよく分からないが、誰かが僕の前に顔を伏せて座り込んでいる風景が見えた。
あの白いユニフォームをきた女の子。
僕と女の子は何かを話しているようだが、何を言っているのかまでは分からない。だが僕に向ける彼女の口調は弱々しいかと思えば、一転して荒々しくなっている事だけが分かった。
しかし、その不鮮明だった記憶が次第にはっきりとしてくるのが分かる。僕の前に座っている女の子の顔は未だにぼやけているが、その話しの内容が所々だけど聞こえてくるようになっている。
「私は……みんなと頑張ってきたから‼」
濃い霧のかかった中で、女の子が僕に向かって叫んでいる。
記憶の中の全体はぼやっとしているのに、なぜか力強く真剣な眼差しだという事は分かった。
「もう逃げないから、くよくよしないから」
「だから見てて」
そう言うとにこっと笑い、僕の前から走り去って行くその後ろ姿を見送っている。
これは去年の夏、県大会初日の出来事だ。
僕はすっかり頭の奥底にしまい込んでいた記憶の一欠片を取り出してしまった。
あぁ、思い出した。
あの女の子は……山川さんだ。
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