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倉橋夏樹の場合
地元にある三百メートルほどの山は、幼い頃友達とよく遊んだ場所だ。もちろん地元の人たちにも親しまれていたし、その低さから、登山初心者にも人気の山だ。
お盆休みに帰省した翌日、寝坊した僕は一人でお墓参りに行く事になった。その帰り道、久しぶりの帰省という事もあり、見慣れたはずの風景に懐かしさがこみ上げ、足は自然と子供の頃に駆け回っていた、例の山へと向かっていた。
国道から一本路地に入ると、あの日と何も変わらない景色がそこにあった。
緑色が濃い木々のトンネルの下を歩きながら、ここで遊んでいた頃の事を思い出して思わず頬が緩んだ。
友達と作った秘密基地の場所はさすがに覚えていないけれど、立入禁止の看板の向こう側へ行ってみたくて、錆びたくさりをこっそりとまたいだあの日のドキドキは今でもよく覚えている。うるさいセミの声や、山水がせせらぎとなって流れ出ていた場所は、きっとこの先も変わらないだろう。そんな事を思いながらしばらく歩いていると、不意に、大事な何かを忘れているような気がした。子供の頃の思い出なのか、今現在の事なのか。
すると突然、周りの音がすっと消え、電子音のような高音が頭の中でぐわんぐわんと鳴り響いた。思わず足を止め、ぎゅっと目をつむる。耳鳴りなのかめまいなのか、それが治まるのを待った。
次第に周りの音が戻ってくる。何だったのだろうと思いつつも、深くは気にせず再び歩き出す。向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。女性だということはすぐに分かったけれど、登山客ではなさそうな服装から、地元の人なのだろうと勝手な想像をし、気に留める事なく山道の端を歩き進める。一歩、また一歩とその女性に近付くにつれ、不思議な感覚に襲われた。膝よりも少し長めのクリーム色のワンピースを、なぜだか僕は覚えていると思った。次の瞬間、その女性と目が合い、はっとなって視線を逸らした。刹那、甘い花の香りが鼻をついた。この香りを、またしても覚えていると思った。
「久しぶりね」
すれ違いざまにその女性が僕に言った。けれど、久しぶりも何も、初めて見る顔だ。
「──覚えてないかな?」
まるで、小さな子供にでも話すような口調だと思った。
「あの、失礼ですけど僕とはどこで……」
そこまで話すと、女性は笑いながら「ごめんごめん」と言った。
「いきなりでびっくりしたよね? そっか、覚えてないか。もうずいぶん昔にね、私たち何度も会ってるんだけど……」
そう言われても、覚えていないものは覚えていなかった。
「夏樹くん、でしょ? 倉橋夏樹くん」
名前を言われ、どうして知っているのかと聞きそうになり、寸前で思いとどまった。代わりに、頷いて答える。
「良かった、間違ってなくて」
笑った顔に、心臓が大きく跳ねた。
「なんだかまた大きくなった?」
年齢を言われたのかと思いきや、右手を僕の頭上高くに上げるから、身長の事を言われているのだと分かった。
不思議な人だと思った。大人に向かって「大きくなった」はなかなか言わない台詞だ。
高く上げたその手で、そのまま僕の頭を柔らかく撫でるから、思い切り動揺した。
「お友達は元気にしてる?」
いったいどの友達の事を言っているのか分からなかったけれど、知っている限りで周りの奴らはみんな元気だ。だからまた、頷いてそうだと答えた。すると、良かったと言わんばかりに目を細めるから、すっと吸い込んだ息をうまく吐き出せなかった。
「今日は一人なの?」
女性が聞いた。
「え、はい」
「そう。どこまで行くの?」
「適当にぶらぶらしてるだけです」
会話が、噛み合っているようで、噛み合っていない気がした。
「ねぇ、私も一緒に行ってもいい?」
「えっ、ああ、はい……」
答えると、嬉しそうに微笑んだ。
この女性からすれば、来た道を戻るかたちになるのだけれど、それでもいいのだろうか。とは思ったけれど、口にはしなかった。
小さな歩幅に合わせながら、ゆっくりと山道を登っていく。
「夏樹くんは元気にしてた?」
「おかげさまで、元気でしたよ」
名前が、どうしても思い出せない。聞いてもいいものだろうかと悩んでいると、隣で小さく笑うのが分かった。
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