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「──那奈」
それが名前だと気付くのに、ゆっくり一呼吸分はかかった。
「芦屋那奈。ちょっとは思い出してくれた?」
思っていた事が顔に出てしまっていたのだろうか。驚いて、変な声が出た。それをごまかすように咳払いをしてから、適当に笑ってやり過ごす。
正直、名前を聞いてもぴんとこなかったけれど、覚えていないとも言えなかった。ただ、この女性に、那奈さんに対して嫌な感じは全くなく、むしろ逆に、懐かしく思い始めていた。
大きく口を開けて笑うと、左の頬にえくぼができるのを僕は知っている。
──知っている?
思い出せそうな感覚はあるのに、次の瞬間には消えてなくなってしまう。
那奈さんが大きく口を開けて笑った。左の頬に、僕の知っているえくぼがくっきりとできている。
不思議と会話が尽きなかった。僕からすれば、ほとんど初対面に近い異性と、こんにも自然に会話をしたのは初めてだった。おまけに、一緒にいて楽しいのだから言う事はない。
「……あの」
「ん、どうしたの?」
「那奈さんて、呼んでもいいですか?」
そう言うと、ふふっと笑うから、照れ臭くて同じようにそうした。
「昔は那奈ちゃんて呼んでたのに、いつの間にか大人になっちゃったんだね……」
遠くを見つめる横顔が、どこか寂しげに見えたけれど、それはすぐに彼女の笑顔でかき消された。
「夏樹くん、いくつになったの?」
「今月で二十八です」
「そっか。なんだかあっという間だね。私より五つも年上になっちゃったか……」
不思議な言い方をすると思ったのも一瞬で、僕よりも年下だった事に驚いた。どうしてか、最初から年上だと思い込んでいたからだ。
「ねぇ、もうすぐ誕生日じゃなかったっけ?」
「え、明日です」
「それじゃあ明日は家族のみんなにお祝いしてもらうの?」
「いえ、特には。わざわざ誕生日にケーキをねだったりするような歳でもないですから」
答えながら、彼女と過ごしたいと思った。できるなら、二人きりで。
「ねぇ──」
呼ばれて、はっとなる。
「いつまで敬語で話してるの?」
「え、いつまでって、なんとなくこっちの方がしっくりくるって言うか……」
「そうなの? でも、私は昔みたいに気軽に話してほしいけどな」
拗ねたような顔をするものだから、思わず頬がにやけそうになる。
「それじゃあ、那奈がそう言うなら、そうしようかな」
照れ隠しから、冗談混じりにそう言うと、彼女は口元に手を添えて小さく笑った。
とりあえずは、間違ってはなかったようだ。
「夏樹くん、相変わらず女の子にモテるでしょ?」
「まぁ、モテなくはないかな」
相変わらずな僕の口調に、彼女がまた、大きく口を開けて笑った。こっちの方がいいと思った。遠慮なく笑う彼女の方が、好きだと思った。
──好き、だと思った?
風が、彼女の髪を揺らす。それだけで絵になるのだから、彼女こそモテないはずがないだろう。そんな事を考えていたら、いつの間に下ってきていたのか、山道が、土からコンクートに変わっている事に気が付いた。
次の曲がり角を曲がれば、国道が見える。
帰りたくない。まだ一緒にいたい。そう思っているのは、僕だけだろうか。とにかく、ここで何とかしなければ、強くそう思い、角を曲がったところで足を止めた。
「あの、いや、あのさ──」
ぎこちなくなるのは、タメ口で話さなければと思ったからだ。
彼女が真っ直ぐに僕を見つめるものだから、途端に緊張する。
「明日も会えないかな?」
「え……」
「だめ、かな?」
重ねて聞くと、首を横にふった。
「その、誕生日に私なんかと一緒でいいの?」
「もちろん!」
すかさずそう答えると、眉をひょいっと上げたものの、すぐに笑顔になった。
「でも、プレゼントなんて用意してないし……」
不安げにそんな事を言うものだから、それには全力でいらないと言った。むしろ、誘ったのは僕で、僕が一緒にいたいのだから、会ってくれるだけで十分だった。
「でもやっぱり、プレゼントほしいかも。明日の花火大会、一緒に行きたい、です……」
欲張りすぎたような気がして、思わず敬語になった。
「いいよ」
「本当に? じゃあ、ついでにもうひとつ。その、浴衣なんて着てくれたり、するのかな?」
どこか他人事のように言ってしまうのは、間違いなく照れ隠しだった。
「分かった。浴衣着てくるね」
ガッツポーズをしそうになっておかしな動きになるけれど、もはやごまかせていたかどうかは分からない。
帰り際、見送ると言ってきかない彼女に負け、登山口で別れた。
明日の夜七時、この場所で待ち合わせをした。
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