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家に戻り、もはや物置きと化している僕の部屋に入るなり急いでエアコンの電源を入れた。年代物の室外機が低い音を立てて回るのを聞きながら、ぼんやりと天井を見つめた。
芦屋那奈。正直、未だに彼女が誰なのか思い出せないでいた。彼女の話す様子から、僕たちは学生の頃に何度も会っている。それなのに、どうして思い出せないのだろう。
その日の夜、僕がまだあの山で駆け回って遊んでいた頃の話を家族にすると、みんな懐かしそうにああでもないこうでもないと話が盛り上がった。その勢いで、僕が学生の頃に仲の良かった女友達がいなったかそれとなく聞いてみたけれど、思い出せないのか、本当にいなかったのか、誰も那奈さんの事は覚えていなかった。
翌日、午後もだいぶ回ってから目が覚め、だらだらと一階に降りると、誰もいない代わりに、台所のテーブルの上には、海苔で巻かれたおにぎりと、丁寧にも置き手紙が置いてあった。手紙の最後にわざわざ「母」と書かなくても、そう思いながらも、こういう気遣いはめちゃくちゃありがたい。
適当につけたバラエティ番組をラジオ代わりに、スマホをいじりながらおにぎりを食べる。そうしながら、昨日彼女の連絡先を聞かなかった事を後悔していた。口約束だけの「また明日」は、正直不安でしかない。
物置き兼自分の部屋へ戻り、持って帰ってきた服を広げた。それなりのティーシャツが三枚と、今着ている寝間着同然のティーシャツが一枚、それだけだった。昨日も大して変わらない格好だったのだからと、自分に言い聞かす。とりあえずは、その中でも一番のそれなりを選んだ。
出かける前にシャワーを浴び、ついでに歯も磨いた。
待ち合わせの場所までは、実家から歩いて二十分かからないくらいだ。
国道から一本路地に入ると、昨日と変わらない景色の中に那奈さんが立っていた。淡い白色の浴衣を着た彼女は、僕を見つけるなり一気に笑顔になった。
おかげさまで、心臓が跳ね上がる。
「待たせちゃったかな?」
彼女の前に行くなり、それらしい事を言っている自分がなんだか歯がゆくて仕方ない。
「ううん、待ってないよ」
「良かった。その、浴衣すごく似合ってます。すごく、可愛い、です……」
言いながら、あからさまに照れてしまった。けれど彼女は、それを笑ったりはせず、ありがとうと言ってくれた。
「夏樹くん、誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう」
顔を合わせ、二人してふっと笑顔になる。
「ねぇ、どこで花火見るのか、もう決めてたりするの?」
言われてはっとなった。その事に関しては、一ミリも考えていなかったからだ。花火がどうとか言うよりも、彼女の事で頭がいっぱいだった。
一応は、悩んでいるふりをして見せた。
「学生の頃はいつも川原のあたりで見てたかな。逆に言えば、そこばっかだったから、他の場所をあんまり知らないんだ」
「それじゃあ、花火がよく見える穴場があるんだけど、そこでもいい?」
「もちろん! そんな場所があるなんて、初めて聞いたかも」
そう言うと彼女は、山の方を指差した。
「昨日歩いた場所よりも近いから。ただね、ちょっと暗いから、足元気を付けてね」
登山口を少し上がったところから脇道へそれ、細い道を歩いていく。
彼女の肩が触れそうなほどの距離にあり、意識せずにはいられなかった。
「そこを右に曲がった場所なんだけど」
そう言って小走りになる彼女が、数歩先で振り向いた。この場所だと、笑顔で教えてくれる。
思わず声が出た。
「こんな場所があったなんて全然知らなかった」
素直に感動していると、「私も最近知ったの」、と彼女が言った。
名前の知らない大小それぞれの木が一本づつあり、それらの周りは自然とひらけていた。街路灯がぼんやりと照らしてくれるのも、雰囲気があって悪くなかった。
眼下には、低い町並みが見下ろせる。
「こんな場所で大丈夫だった?」
「大丈夫もなにも、最高なんだけど」
僕がそう言うと、良かったと言いながら安心した顔をした。
大きな木の根元に並んで腰を下ろす。
太陽が山の峰に吸い込まれ、どんどん夜へと変わっていく。
星が小さく輝き始めるのを眺めていると、肩の力がすっと抜けていくようだった。
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