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「ただこうしてぼんやりと眺めているだけなのに、無条件に癒される気がする」
思わず本音が出た。
「普段、そんなに忙しいの?」
なんとなく意味が違う気がして、言葉を考える。
「仕事が忙しいのは忙しいんだけど、何て言うか、空を見上げる事をいつの間にかしなくなってたんだなって思ってさ。別に、時間がないわけでもないんだけどね」
「そっか。じゃあ、今日はいっぱい癒されてね」
そう言うと、後れ毛を耳にかけた。その仕草に、いちいち見とれてしまう。
今日は、髪の毛を結んでいるから昨日とはまた少し雰囲気が違う。大人っぽくて、色っぽい。
控えめに言って、ものすごくキスしたい。
彼女の首元をこっそり見つめ、顎先から唇に視線を運ぶ。
──キスしたい。
花火が打ち上がるまで、あとどれくらいだろう。彼女との会話すら、次第に上の空になってきた。
「那奈さん……」
ほとんど無意識に彼女の名前を呼んでいた。
自分が何を言おうとしているのか、分かっているからどうしようもなく緊張した。言わないという選択肢は、微塵もなかった。
「あの──」
言いかけたところで、伸びてきた彼女の手が僕の髪に触れるから、その続きを飲み込んだ。
「葉っぱ、ついてるよ」
ありがとうがうまく言えず、適当な相づちを打つ。彼女が手を引っ込める前に、その手をさっとつかんだ。
「ずっと、那奈さんの事好きだった」
そう言った瞬間、「ずっと」と言った自分に首を傾げた。間違ってはいないのに、違和感を感じた。
「夏樹くん?」
彼女の声にすっと息を吸い込んだ。
「突然こんな、驚いたよね」
「そんな事……」
彼女が動揺しているように見えた。それでも、気持ちばかりが高ぶり、つかんでいる彼女の手を自分の方へと引き寄せた。そして、返事も待たずにキスをした。
「……僕と、付き合ってください」
順番が反対だと思ったけれど、今さらだった。
「那奈さんの事、絶対大事にするから」
僕が言い終わると同時に、心臓に響くほどの音と共に花火が打ち上がった。一瞬気を取られ、また、彼女に意識を戻す。
「ごめん、なんか僕、タイミング間違えたかな」
冗談にするつもりはないけれど、どうしようもなくて、可笑しくもないのに笑ってやり過ごす。
「……これは、初めて話すかもね。本当はね、なかなかあきらめてくれないから困ってた。だけど、そう思いながらも、気付けば夏樹くんのこと目で追うようになってた」
彼女がいったい何の話をしているのか分からなかった。
「立場とか、年齢とか、もちろん色々悩んだけど、悩んでる間も、結局は夏樹くんの事考えてるから、それってもう、好きなのに、あの時は焦らしすぎちゃったかな」
わけが分からないのに、彼女の事が好きな気持ちだけは確かだった。
「……僕の事、今でも好き?」
「好きだよ」
そう言って、僕のおでこに自分のそれをくっつけた。
「キスしてもいい?」
小さく頷く彼女の頬に手を添え、ゆっくりと唇を近付ける。キスをする時、僕の服をぎゅっと握るその癖が可愛くて、何度か彼女をからかった事がある。そんな事を懐かしく思った。途端、電子音のような高音が頭の中で鳴り響いた。昨日と同じだ。こんな時に、そう思いながらも、顔を離して彼女の様子を見る。彼女は微笑んでいる。だからとりあえず、ほっとした。
大きな花火が空に咲き、次第にその音が耳に戻ってきた。隣を見ると、楽しそうな横顔に、つられて僕まで笑顔になる。正直なところ、花火よりも那奈さんを見ていた時間の方が長い。
金色に輝く花火と連続的な大きな音に、そろそろ終盤なのだろうと思った。
「花火、綺麗だったね」
そう言った彼女の笑顔に、思い切り胸がしめつけられる。呼吸が浅くなり、苦しくてどうしようもない。苦しくて、苦しくて……
彼女が僕の涙を拭ってくれるまで、自分が泣いている事に気付かなかった。驚いたと同時に、たまらなくなって彼女を抱きしめた。耳元で囁かれた「ありがとう」が「ごめんね」に聞こえ、堪えきれずに再び涙がこぼれた。刹那、身体中に鳥肌が立ち、頭の中に学生の頃の映像が流れ始めた。
高校三年の春、体育館。クラス替え、窓際の席。スーツを着た女の人が、黒板に名前を書いている。振り返ったその人は、生徒たちに向かって自己紹介をしている。
──嘘だ。
廊下ですれ違う時には決まって目配せをした。待ち合わせは放課後の美術室。初めてのキス。初めての……
──嘘だ。
「……芦屋先生? 那奈、ちゃん?」
忘れていた大事な何かは、僕の記憶だ。
「私、そろそろ行かないと」
「え──」
「思い出してくれたの?」
「うん……」
高校三年の春、教育実習でやって来た芦屋先生に、僕は一目惚れをした。なんとか彼女を振り向かせたくて、会うたびに好きだの付き合ってほしいだのと言い続け、押しに押しまくった結果、こっそりと付き合うようになった。
あの頃は、毎日が楽しくて仕方なかった。高校生の僕を、ちゃんと男として見てくれていた。だからつい、僕まで大人になった気でいた。
その年の花火大会、十年前の今日、彼女は待ち合わせ場所に来なかった。
交通事故に巻き込まれ、僕の前から突然いなくなってしまった。泣き続けた記憶の先を、正直よく覚えていない。けれど、そんな大事な事をどうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。
「もうそろそろ大丈夫かなって、思ったから。私だって、ずっと忘れられたままじゃ悲しいもの。だから、楽しかった思い出だけを、ほんの少しだけでいいから、夏樹くんの心の隅に残しておいてくれたら嬉しいなって」
彼女がおもむろに立ち上がるから、反射的に僕もそうした。
「遅くなってごめんね、一緒に花火が見れて嬉しかった。ありがとう」
にっこり微笑むと、胸元で小さく手をふった。
また、いなくなってしまう。分かっているのに、声が出なかった。ただ静かに、涙がこぼれた。
彼女がいなくなった方を見つめていると、やりきれない気持ちに押し潰されそうになる。意識して踏ん張っていないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。拳をぎゅっと握り、眉根に力を込め、必死に那奈ちゃんの笑顔をまぶたの裏に張り付ける。
しばらくそうしていると、不意に体の力が抜け、ふわふわと心が穏やかになっていく感じがした。
もう歩ける、そう思い、ゆっくりと歩き出す。
登山口まで戻ると、妙に気分がすっきりとしていた。数分前までの出来事が嘘のように、那奈ちゃんとの思い出にふっと口元が緩んだ。そんな自分に、僕自身が驚いた。もしかすると、僕がもう泣かないように、楽しい思い出だけを残してくれたのかもしれない。悲しいという感覚が、全くと言っていいほどなかったからだ。
夜空を見上げると、見た事ないほどの満点の星々が輝いていた。僕はそれを、彼女からの誕生日プレゼントだと思った。
完
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