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「それにしても、随分と急いでいるんだな」
「そうよ。突然電話してきて、今日婚姻届を出したいから帰ってもいいか、なんて」
本題が来た。ふたりとも怒っているわけではなさそうだけど、困惑しているのは確かだ。とっさに身を固くしたわたしの手を、巧の大きな手が包み込む。
「突然で悪いとは思ってる。でも、これを出してから東京に戻りたいんだ」
「派遣期間はあと1年以上残ってるんだろう?終わってからではだめなのか」
「いまじゃないとだめなんだ。彼女を……麻紀を、絶対に離したくないから」
思わず隣に視線を向けると、いつになく真剣な横顔がご両親をまっすぐ捉えていた。
「麻紀さんはどう考えているんだ?いわゆる、その……別居婚になるわけだろう」
「そうよね。新婚なのに離れ離れなんて、麻紀さんが……お嫁さんが可哀想。それも、巧の都合で」
お嫁さん──お母さんの口から飛び出した単語にどぎまぎしながら、ゆっくりと呼吸を整える。
「わたしは部下として3年間、巧さんを見てきました。丁寧な仕事ぶりや豊富な知識、上司や部下からはもちろん、外部の人からも慕われる人柄……そんな巧さんがいなくなってしまって、うちの部署としてはかなりの痛手です。こんなとき桐島さんがいたら、って、未だにみんなで話しているくらいです」
お父さんが照れくさそうに笑い、お母さんが「ちょっと褒めすぎじゃない?」とコーヒーカップに手を伸ばす。
「正直、寂しさはあります。早く一緒に暮らしたいとも思います。ですが、巧さんがどんな覚悟を持っていまの立場にいるのか、どんな思いを持って日々の激務をこなしているのか……少しはわかっているつもりです」
「麻紀……」
「わたしは仕事面でも他の面でも至らないところばかりですが、これからは妻として彼を全力で応援したい、どんなことがあっても巧さんと支え合って生きていきたい。そう、思っています」
巧が東京へ旅立ってしまった日、ひとりぼっちの部屋で考えた。離れ離れが怖くてたまらない反面、彼を支えられるような女性になりたいと。
いろいろな夜があった。だめかもしれないと不安になった夜も、会いたくて電話だけでは足りない夜も、無理やり時間を忘れて愛し合った夜も。
乗り越えてきたいまならわかる。わたしたちはもう、ふたりじゃないと生きていけない。
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