5月1日夜(下澤裕貴)

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『下澤くん。よく聞いて』 「うん」  麻弥の雰囲気が冷淡なものに変わった。それはきっと災いを知らせるためだ。感情に流されないように、感情を殺して冷静さを失わように。 “麻弥さんは僕を助けようとしてくれてるんだ”  言葉で受け取らなくても伝わってくる。冷淡な対応の奥でゆらゆら揺れる温かな気持ち。 『シートベルトをしっかり締めること。それから鞄を胸で抱きしめること。それから私の合図で身を屈めて。どんな状況でも私の言葉だけを聞いていて』    スマホにイヤホンを繋ぐ。これで両手が塞がっても麻弥の声を聞ける。シートベルトを確認し、鞄を抱く。何故こんな事をさせたのか想像はつく。鞄の中身は着替えやタオル。少しでも衝撃を和らげるためのクッションにするつもりだ。 「麻弥さん。ありがとう。今度お礼するよ」  暫しの沈黙。裕貴の耳に届くのは同級生の雑談。それと不思議な音。なんというか……ジェットエンジンのような、巨大なエネルギーが高速で移動するような……。 『下澤くん!』  麻弥の叫びと同時にバスが急旋回した。シートベルトをしていなかった生徒が飛ばされ座席に打ち付けられる。それだけでは終わらない。急ブレーキで旋回したバスはガードレールに激しく衝突し、火花を散らして停車した。 「いってー。何があったんだ?」  浩一は頭を座席にぶつけたらしく、額を抑えている。 「無事か? 浩一」 「なんとか……」  シートベルトがなければ今、呻いている生徒たちと同じになっていた。シートベルトの大切さをヒシヒシと感じる。 『まだっ!』  麻弥の声で危機感が呼び戻された。  バスの側面に棍棒で殴られたような衝撃が走った。車体は凹みガードレールの方へ押しやられる。 「土砂崩れ……!」  その瞬間バスは大量の土に飲み込まれた。  『私に合わせて! 下澤くん!』  窓が割れて大小様々な石と土砂が流れ込んできた。 『7……』  ガードレールが限界を迎えた。道路から引き抜かれ、支えを失ったバスは道路の外へ飛び出した。 『6……』  車体が回転しながら山の斜面を押し流されていく。 『5……』  まるで嵐の海を小舟で航海しているようなものだ。いつ土砂の中に沈むかも分からない。 『4……』  裕貴は鞄を強く抱き、歯を強く食いしばって耐える。目がまわるとか三半規管が狂うとかそんな生易しいものじゃない。ただただ、怖い。圧倒的な力で無慈悲に命を奪いにきている。 『3……』  冷たい土砂が顔にかかる。石の散弾に打たれる。 『2……』  死が背中を掴んでいる。死へ引き摺りこまれそうだ。 『1……』  だけどこの声が腕を引っ張ってくれている。死の中へ落ちないように引っ張り上げてくれている。 『ふせてっ!!』  裕貴が頭を伏せた瞬間、裕貴の背中の僅か上を大きな岩が飛んで行った。奥で卵が潰れたような音がしたが、気にかける余裕はない。麻弥の指示に従い頭を下げていなかったら、今頃、裕貴の首はもげていたかもしれないのだ。今は他人の命より自分の命の灯火が消えないように願うしかない。  押し流されたバスは大樹へ衝突して止まった。そして土砂が飲み込むと裕貴の意識も落ちていった。    
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