思い出

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  下澤裕貴にとって天川麻弥との思い出はニつしかない。  一つは青空をボッーと眺めている姿だった。20人足らずしかいない中学校の教室の窓側の席。天川麻弥は双子の妹の沙弥の席に座って、ゆっくり流れる雲を眺めていた。  黄昏れている訳じゃないし、物思いに耽っているわけでもない。強いて言うなら授業よりも青空の方が見ていて面白いというくらいだったのだろう。  その何気ない後ろ姿。それが下澤裕貴には今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯火に見えた。 「天川沙弥。いつまでぼーっとしているんだ? 授業中だぞ! もう少しで終わりだから最後まで授業に集中しなさい」  授業中ずっと眺めていたので先生も痺れを切らし注意した。天川姉妹は鏡に写したようにそっくりな双子だ。先生も顔では見分けがつかず、席で判断して妹の名前を呼んだ。本当の妹の沙弥は廊下側の麻弥の席に入れ替わり座っているとは露ほども思わず……。 「はーい、ごめんなさーい。はんせーしてまーす!」     反省の色がまるでない謝罪の言葉。話し方は妹の沙弥に似せている。クラスの中にクスクスと笑いが起こるものの、妹の沙弥だけは不機嫌そうに姉を見ていた。 「静かにしろー! 授業続けるぞ」  空気が柔らかくなった教室で授業が再開される。そしてまた、麻弥は空を見上げた。  窓から風が進入してきた。ノートと教科書もバタバタと騒ぐ。  ーーその瞬間、麻弥と目が合った。  中学生活の中で麻弥と目が合ったのはこれが始めてだ。仲が良いわけでも悪いわけでもなくて……お互いに関わる機会が無かった。沙弥と口論している姿や仲よさげに話している姿。どの麻弥の姿も裕貴が一方的に目で追っていただけ。  だから、麻弥と目が合ったとき急激に頬が熱くなった。離れていても麻弥の大きな瞳は黒真珠のように綺麗で神秘的だ。  麻弥に気を取られたせいで風のイタズラで教科書のページが捲れた。それと机の上のプリントが宙へ舞う。  授業開始直後に渡された進路調査の紙。朝のホームルームで配布するのを忘れていたそうだ。  行きたい高校は決まっている。用紙にも“文陽高校”と書いてあり、授業後に直ぐに提出するつもりだ。まだ変更する猶予はあるが、進路先を教師や親と相談する上で指針となる大切なプリント。  空を漂った裕貴の進路調査票は静かに床へ落ちた。
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