そして前へ(最終話)

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そして前へ(最終話)

 それでも、もう少しなら。権威を振りかざすのではないからと伺うようにそろり…と、リチャードは指をロインの顎から喉をなぞるように滑らせた。 「あ……」  温かくてしっかりした指が鎖骨の形を確かめるように辿っていく。触れられたところから体温が戻っていく。 「五年間待ったご褒美をくれる?」 「ご…ほうびですか?」  そう、と子供のように言ったリチャードの言葉の意味に気づいてロインが慌てて身じろぐ。 「だ、だめです」 「何で?」  だって…と、言いながら何でだめなのかをロインは考える。今までバッツにだって請われればすぐに身を差し出していたのに。  なんでこんなに戸惑うのか、自分の気持ちに思考がついていかない。感情の伴う行為に対して、こんなにも臆病になるのはどうしてなのか。  そして今まで自分は体を合わせていても心が、目が、抱いている相手を見ていなかったんだとロインは気づいた。  流されるように体を繋げるのはもう止めにするとロインは思う。 「何でだめなのか、説明して欲しい」 「ダメと言ったらダメなんですよ。何見舞いに来て盛ってるんですかっ、リチャード様」  リチャードの問いに大声で答えたのは、ロインでは無かった。 「ロインはまだ、体調が万全じゃないんですよ。早くその馬鹿でかくて重たい体をどかしてください」 「ヘッド、君がなんでここにいる?」  心底がっくりした顔でリチャードが部屋から入ってきた自分の大柄な部下を見上げた。 「あなたが、ロインに正式に枢密使になった事を伝えると、執務室から飛び出して行った事にそこにいた魔導師全員が危機感を覚えたんですよ」 「あいつらっ、余計なことを」 「普段の行いの悪さを棚にあげて何を仰ってるんです。この五年間どれだけ未遂事故があったと思ってるんです」  ロインが不審を滲ませてリチャードを見ると、彼は決まり悪そうに目を逸らした。 「我慢してたんじゃなくて、我々が我慢させてたんだ。ったく、目を離すとロインの練習を覗き見しに行くんだからな。この万年発情魔導師はっ」  ――そうだったのかとロインは自分勝手に上級魔導師のたわむれだと思っていた自分を反省した。ずっと見ていたなんてさらっと言うけどそれが大変だったことは明白だ。  一人で頑張ってきたと思っていたのに、それは自分の不幸を自慢するような独りよがりな思いだった。 「今から、あなたには逃亡している魔導師の最後の一人を捕縛する指揮を執ってもらいます。さっさと行ってください」 「い、今? しかもそんな事。私が出て行く案件じゃないだろう?」 「主、直々のご指名です」 「主が?」  イーヴァルアイの名前を出されてしまっては反論する余地も無い。リチャードは、わざと聞かせるように大きくため息をついた。 「なんで細かい案件に主が指揮者を指名なんか」 「ルーク様のご進言によるものです」 「なんだと」  その名前に頭から湯気を立ててリチャードが寝台から飛び降りる。 「リチャード様が衰弱している魔導師を手篭めにしようとするからとルーク様が、主にご相談においでになったそうです。そこで主が急ぎ、逃亡中の魔導師を捕縛する件をリチャード様にさせろと命を下されたんです」 「……あんの、腹黒魔導師めっ」  廊下でリチャードと会った、その足で主の部屋に直行したのかとリチャードが歯噛みする。しおらしい態度にまた騙されてしまった。 「くそっ」 「まさか、お断りにはなりませんよね、リチャード様。ロインの世話はここにいるガーネットにさせますからご心配なくちゃっちゃと仕事に行ってください」  ううううっと唸りながら頭を抱えるリチャードに「はい、これ資料です」と、ヘッドが書類を渡した。 「行ってくる」  踵を返してロインの枕元にやって来たリチャードが素早くロインに啄ばむような口付けをして、後ろの魔導師を見る。 「行かなきゃだめか?」 「ダメです」  ヘッドに一睨みすると、リチャードはローブを翻して部屋を出て行った。 「ロイン、体を治したらすぐに仕事だ。ザーリア州で魔導師が税を横領しているらしいとの密告があった」 「早く良くなって行こうぜ、ロイン」  ヘッドの後ろからひょっこりと顔を出したガーネットにロインの顔にも笑顔が浮かぶ。 「おまえこそ、怪我はいいのか? 随分酷くやられていたのに」 「ああ、なんとルーク様から治癒の術を施していただいたんだ。俺のは外側だけだったから、傷が治ればすぐだったけど。おまえは酷く出血して……心配した」 「心配かけたな。でもさ、今度もおまえと一緒なんて大丈夫かな」 「そんな」  ガーネットが傷ついた顔をする。それにも笑えてロインはお腹を抱えた。 「嘘だよ、今度はさくっと決めよう、ガーネット」 「ああ、勿論」  こんな穏やかな掛け合いが楽しいとは思わなかった。変わっていく。何もかも。でも、変わったのは自分なのだとロインは気づく。周りは何も変わっていない。  自分が変わらなくてはいけなかった。自分を追い詰めていたのは自分だった。  少しづつ変わっていこう。つまづきながら。寄り道しながら。  ここが同じ冷涼な国、レイモンドールだとは思えない南国のような気温のザーリア州で頭に花籠を載せてロインは眩しそうにザーリア州城内の御用門の前で目を細める。 「絶対無理だって」  横から同じように籠を頭にのせたガーネットがぶつくさと言う。 「どっから見ても、オレ花売り娘に見えない」  ロインから見ても実はやや強引だとは思ったが、明日は州候の愛息の誕生日。城中を花で飾り立てる計画で、出入りの業者だけでは足りず、街の花売りまでが集められているのだった。これに便乗しない手は無い。  本当のところ、ガーネットは撒き餌だ。不審がられて騒ぎになったその隙に城内に入ってやろうと画策しているのは内緒だ。ガーネットを適当に慰めようと口を開こうとしたが、そこにかけられた言葉にロインの足が止まる。 「早く、候子をたぶらかせて情報を取れよ、ロイン。こんな花より、私の蜜のほうが美味しいです。吸っちゃって下さいとかなんとか言っちゃって……」  いきなり名前を言われて、ガーネットとロインが顔を見合わせた。門壁の上から聞こえた声は聞き覚えがあり、しかも内容が下品だ。 「ルーク様っ?」 「おまえたち、ついておいで。何、魔導師が一般人みたいに真面目に城門で待ってるんだよ、本当バカだね」  灰色の長い尻尾をゆらりと揺らしながら猫が門の端の石垣の一端に顎をしゃくる。 「もう会わないんじゃないんですかっ」  強い口調で言うロインに猫は、前足で顔を拭くと「にゃあ」と鳴いた。 「元の姿では会わない。猫ならおまえとことに及べないし、いいかなと…あっ、こらっ、何するっ」  ロインに首ねっこをつかまれた猫が暴れる。 「根性の悪い猫にちょっとお仕置きを」  そのまま猫を掴んだまま、ロインはガーネットに呼び掛けた。 「ガーネット、行こう」 「おおっ」  悪くないとロインは笑う。こんな日常も悪くない。  石垣に開けられた暗闇に二人と一匹が消えた。       了
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