24人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
1.無理です!
するりと腰に手を回される。
強くも弱くもない力で腰を引き寄せられれば、異性である宰相様の体温が伝わってきて、鼓動があり得ないくらいに速くなった。
こんなこと、今まで誰にもされたことがないのに。異性の胸に頬が触れる感触だって初めてだ。絶対に慣れない。慣れっこない。しかも今夜までに慣れろって!
あと三時間しかないっていうのに!
「一つ一つ覚えていけばいいのですよ」
宰相様は、とても優しい。
優しく、初心な私を解きほぐしてくれる。
でも――。
「さあ。次はキスをしてみましょう」
「ふわあああっ」
それは無理です!
*
顎をくいっとあげられ、アメジストのような瞳で至近距離で見つめられた瞬間、「やっぱり無理です!」と叫んでいた。
宰相様の腕から抜け出し、脱兎のごとく退く。そして壁際まで逃げたところで膝をついて懇願した。
「やっぱり私には無理です、隣国の王子をたぶらかすなんて!」
「たぶらかすなど、とんでもない」
宰相様は小さくため息をつくと、いつまでもびくついている私の元へ近寄ってきた。そしてその麗しい膝をつき、涙目の私にその麗しい顔を近づけ、「いいですか」とあらためて確認してきた。
「あなたは酒宴の席でルカ王子のおそばにいればいいのです。それだけですよ」
「それがどうしてこんなことになるんですか!」
「はて?」
「宰相様がそうおっしゃるから、だから私も了承したんです! なのにどうしてこんなことをしなくてはいけないのですかっ……!」
宰相様が私にこの特別な任を下されたと、そうメイド長経由で伺ったのはまだほんの一時間前のことだ。先月二十二歳になったというのにいまだ十六、七歳くらいに勘違いされる、こんなちんちくりん、かつ掃除係の私になぜ、と思わないでもなかったが、下っ端に断る権利なんてはなからない。
だから素直に引き受けたのに――。
「では今すぐ宰相様の執務室へ行くように」
そうメイド長に指示され、手に持っていたほうきとちりとりを取り上げられ――そしてこの部屋のドアをノックしたのがほんの三十分前のこと。そして初めてお会いした宰相様は、想像していた人とは真逆だった。つまり、まだお若く、理知的な面立ちながらその美しさは至宝級だったのである。
透き通る紫の瞳に眼鏡ごしに見つめられてぽーっとなってしまったのは、女ならば仕方ないと思う。ちんちくりんの私だって並の審美眼くらいは持ち合わせている。
宰相様は私を上から下まで眺めるや、「完璧ですね」と満足気につぶやいた。
そこから意味不明な質疑応答がはじまった。
「エリザベス・ウォーレン、ですね」
「は、はい」
あわててエプロンをつまんでお辞儀をすると「恋人はいますか」と訊ねられた。
「は?」
「いいから答えなさい」
「は。いません」
宰相様の事務的な言い方につられて、私まで硬い応じ方をしてしまった。けれど宰相様はそれに眉をひそめるでも笑うでもなく、
「では今まで誰かとつきあったことはありますか」
個人的なことにぐいぐい踏み込んできた。
「いいえ」
「一度たりとも?」
「は、はい」
「あなたは身持ちは硬い方ですか」
「それはもちろん。城務めのメイドであれば当然のことです」
何のために必要な情報なのだろう、そう思いつつも素直に応じていたら、
「パーフェクト。いいでしょう」
宰相様は眼鏡のフレームを押し上げ、その美しい紫の瞳で私をひたと見据えたのだった。
「では私があなたを教育してさしあげます」
それが宰相様にロックオンされた瞬間だった。
最初のコメントを投稿しよう!