第1夜

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第1夜

彼に着いて行った先は廃ビルの二階だった。ガランとした部屋の一角には、贅沢にビニールシートが敷かれていて、小さめの机やクッション、本や飲み物など、様々なものが置かれている。彼はその中から大きめのタオルを取り出すと「ん、タオル」とソラに手渡してきた。お礼の言葉を述べ、濡れた髪や顔、身体と拭いていく。流石にビショビショの服はタオルだけじゃどうしようもなかったけど、こんな状況で脱ぐ訳にもいかない。Tシャツの裾と丈を絞ると水が物凄い勢いで溢れてきて、外の雨の強さを再確認する。 「ココアとコーヒーどっちがいい? てか、まずいる?」 何やら作業をしていた彼が尋ねてくる。いるって言ったら図々しいかな。でもわざわざ聞いてくれてるってことは貰ってもいいのかな。なんてことを考えていると彼はわざとらしく大きなため息をついて反対方向を向いてしまった。またやってしまった。考えすぎて何も言えなくなるのが私の悪い癖だ。最初のうちはそんな考えるなって、と笑ってくれていた元友人たちも回数を重ねる毎に腹立ちを覚えていき、遂には彼女の元から離れていった。仕方ないことだとは思う。自分が悪いことも分かっている。それでも、他の人たちが当たり前にしている会話やじゃれあいと言ったものが、私にとってはとても高い壁に思えた。 みんなにとっては当たり前のこと。でも私にとってはとても難しいこと。どうして当たり前のことが当たり前のようにできないんだろう。私は普通じゃないの? 一度疑い始めた心は、壊れたスポーツカーのようなものだ。止め方も知らない、ひょっとしたら端から止め方なんてものは無いのかもしれない。それでもスピードだけはどんどん上がっていって、最終的には誰かを巻き込んで最悪の結末に至る。 そうしている内にソラは、次第に学校へ行けなくなった。自分のような異物がこんな煌びやかな当たり前に紛れ込んでいてはいけない。そう思ったのだ。その頃になると家族の中でも自分が異物だと感じるようになっていた。自分より一つ上で、友達も多くて勉強は出来ないけど運動は出来る、そして友達も多い姉。彼女はソラにとって憧れで、それと同時に劣等感の根源でもあった。小さい頃はいつか私もお姉ちゃんみたいに、と思っていたけれど、歳を重ねるにつれて自分と姉との埋めようが無い差というものに次々と気付いてしまった。憧れだったはずの姉を見るのがつらくなり、会話をすることが減り、終いには顔を合わせることすら無くなってしまった。その結果出来上がったのが、家にも学校にも居場所が無い、ソラという少女だった。 お世辞にも長いとは言えない自分の人生を振り返っていると、目の前に湯気を立てた二つのコップが差し出されていることに気付いた。顔を上げると、そこには呆れた目でこっちを見る彼が居た。 「考え事するのは勝手だけどさ、よくこの状況でそこまで周り放っとけるよね。そこまでいくと逆に尊敬するよ」 嫌味ったらしく言ってくる彼は、相変わらず呆れたような顔をしていた。差し出されたコップには恐らくコーヒーとココアがそれぞれ入っていて 「好きな方取りなよ。余った方俺飲むから」 と彼は言った。案外悪い人じゃないのかもしれない。我ながら単純だと思う。 床に敷かれたビニールシートの上に座って彼から貰ったココアを飲む。火傷しそうなほど熱くて、雨で冷えていた身体を内側から温めてくれる。それでも心は冷めたままだった。 しばらく無言のままココアを飲んでいると同じように無言でコーヒーを飲んでいた彼が口を開いた。 「で、何してたの? こんな天気のこんな時間にこんな場所で。しかも傘も差してないし、ひょっとして頭おかしい人? それなら声かけなきゃ良かったな」 「その質問、そっくりそのままお返しします。どう考えても住人って感じじゃないですよね?私は一回休憩にしようと思ってビルの中に入っただけです」 「休憩ねぇ。君の中で休憩っていうのはいきなり一人で泣き出すことを言うんだね。勉強になったよありがと」 「いちいち揚げ足を取らないでください。というか、私の質問にも答えてください。貴方はここで何してるんですか?」 自分でも驚くほどスラスラと話せている。多分、初対面だと言うのにここまでズケズケ嫌味を吐いてくるこの人のことを人間として認識していないのかもしれない。 「何してるって言われても、何もしてないよ。ただここに居て、時間を潰してるだけ。朝が来るまでの暇つぶしと現実逃避だよ」 「朝……あの、今って何時ですか?」 「ん? 三時半過ぎたところ。あ、午前のだよ?」 「流石にそれくらい分かります。バカにしないでください」 「時間気にするってことは、終電逃したとか? わざわざ土砂降りの中傘差さずに夜中に出てくるなんてことは無いと思うけど」 「いや、そんなのじゃなくて……」 生きていける場所を探して彷徨ってました。なんて言える訳がない。初対面の人にいきなりそんなこと言ったらドン引きされるのがオチだ。いくら自分が異常な自覚があるとは言え、目の前で露骨にドン引きされたら少しはショックを受ける。 なんて言い訳すればいいのか悩んで口篭っていると、何かを察したのか彼は 「まあ、そんな時もあるよね。俺も、人のこと言えないし」 と呟き、それ以上何かを聞いてくることはしなかった。彼なりに気を使ってくれたのか、彼も彼で何か思うことがあったのかは分からない。 彼から貰ったココアがすっかり冷める頃になると、窓の外から聞こえる雨音は少しだけその鳴りを潜めていた。この感じだと、朝には止むか、小雨かになってると思う。むしろ朝なんて来ないで良いのだけど。そういえば、彼は初めて会ったときに同い年くらいと言っていたけどいったい幾つなのだろう。彼の方を見ると、彼は布団にくるまって眠っていた。この状況で周り放っておけるのを尊敬すると言っていたけど彼も大概じゃないだろうか。何処の誰とも知らない人が居る状態でこんな無防備に眠りこけるなんて警戒心が無いにも程がある。 改めて辺りを見渡してみる。電気は通っていないようだけれど、小型の発電機らしきものが置いてある。とは言え流石に照明を賄うほどの余裕は無いようで、ランタンを照明代わりにしているようだった。他には布団やラジオのような生活用品といったものもあり、食料さえ用意しておけば一先ず生活出来そうなほど充実していた。廃ビルにこんなに揃っている訳が無いし、恐らく彼が持ち込んだものだと思う。発電機なんて安くはないはずだし、いったいどこから調達してきたのだろう。もう少し詳しく探してみようと思い、寝ている彼の後ろの方を見ると、本が山のように積まれていた。小説やマンガ、教科書らしきものまで揃っていて、彼は本当に此処に住んでいるのかもしれないと思った。それからまた少し辺りを見てみたものの、それ以外にはこれといったものは置かれていないようだった。 またしても手持ち無沙汰になってしまった私は、買ってもらって以来、時計以外の役割を果たしたことの無い携帯を開いた。時刻はAM4:50。この時期なら雨が降っていなければもうすぐ太陽が顔を出す時間だ。あぁ、結局今日も朝が来てしまった。今日も私が生きていける場所は見つからなかった。またあの野良犬のような日常に戻らなければいけない。息を吐くくらい自然にそんなことを考えていると、後ろから呻き声が聞こえてきてビクッとする。どうやら彼が起きたようだ。彼は寝ぼけ眼で私を見ると 「……誰?」 と言った。寝起きは良くないタイプらしい。 「おはようございます。誰かも分からない人が居る前で眠りこけるなんて、大層な警戒心をお持ちですね」 「ん、あー……不法侵入して泣いてた子か。確かに不法侵入者の前で寝るなんてちょっと無防備だったね」 「不法侵入って言うなら貴方も同じでしょう。どう考えても正当に此処を借りてる風じゃないですから」 「こんな若造に廃ビルを貸す物好きが何処に居るってのさ。それに俺は有効活用してるだけだよ。別に荒らしてもないし、泥棒もしてないし」 「だとしても勝手に居座ってる時点でアウトですよ。しかも、こんなに色々持ち込んで」 「ん、ていうかさ。まだ帰ってなかったんだ。終電逃した訳じゃないって言ってたし、家、近所なんでしょ? なんでこんな所に居座ってるの?」 「それは……」 「それは?」 「……私が生きていける場所なんて、何処にも無いからですよ。家にも、学校にも」 言ってしまった。なんで言ってしまったんだ。こんな、見ず知らずの名前すら知らないような人に。引かれたんじゃないか、いや、引かれたところで何のデメリットがある?デメリットは無いけど目の前で引かれたら流石に堪えるな。何してるんだろ私。 お得意の自問自答を繰り返す。まるで学習能力を持っていない。ついさっき嫌味を言われたばかりだというのに。ハッと我に返り彼の方を見ると、彼は引いてる感じでも無く、寧ろ物珍しいものを見るような目を私に向けていた。沈黙が流れる。非常に気まずい。引かれて黙っているなら未だしも、珍しい目で見られたのは初めてだった。だからこそ逆にどうしたら良いのかが分からない。恥ずかしさと気まずさと口走った後悔でアタフタする。この人と居るとアタフタしてばっかりだ。 沈黙を破ったのは彼の方だった。と言っても言葉を発した訳では無い。彼はしばしの沈黙を経て、突然笑い出したのだ。 予想外で戸惑っている状態で、更に予想外を重ねられてはもう手の施しようがない。何も出来ず呆然としていると、一通り笑い終わったのか彼はようやく言葉を発した。 「へぇ、面白いこと」 「面白くなんて、ないです。貴方にとっては面白くても、私にとっては重要な悩みなんです」 「そりゃそうじゃない? 悩みなんて、他人からしたら些細でどうでもいいことなのがほとんどだ。それでも、自分の中では大きなことだから悩むんだよ。考えすぎって言われても、卑屈だとか強欲だとか言われてもね」 そんな風に言った人は初めてだった。馬鹿にする訳でも、気休めの言葉をかける訳でも、況してやこちらを責め立てる訳でも無く、そんなものだと諦めたようなセリフを投げてきたのは。 「生きる場所がないから、今日こんな所に来たの?」 「そう、です。フラフラと彷徨ってました」 「そっか……それじゃあさ、夜になったら此処に来なよ」 「え?」 三つ目の予想外。野球のストライクならバッター交代だ。 「だって、生きていける場所が見つからないんでしょ? 今ある場所の何処にも無いなら、新しく見つけた此処を生きていける場所にしたら良いじゃん。別に君一人来た所で困ることはないし。そもそも、俺も不法滞在だしね」 新しい見方だ。私は今ある何処かに自分の居場所を探してばかりで、新しく作るなんてことはこれっぽっちも考えたことが無かった。だとしても知り合ったばかりの人、しかも男の人と毎晩一緒に過ごすのは流石に……。 「まあ、来るか来ないかは好きにしなよ。来なくても困らないし、来ても困らないし。気が向いたらココアくらいは出してあげるよ」 「……そうですね。私も、気が向いたら明日も来ます。」 そう言ってお茶を濁すことにした。これならどうするのも私の勝手だ。元々、誰かに従って来るような所じゃないけれど。 「ん、了解。帰るならそこの傘持って行っていいよ。どうせ安物だし、この雨だと傘差さずに歩くのはめんどくさいでしょ」 「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて頂いて行きます」 外は弱まってはいるものの、まだまだ小雨と言うには強いくらいの雨が降り続いている。こういう気遣いは出来るのに、どうして一々嫌味ったらしい言い方しかしないのだろうかこの人は。 部屋を出て、出口へと続く階段に足を進めようと思ったその時。ふと、私の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。別に、知らなくてもどうということは無い疑問だったけれど、言うなればほんの気まぐれ程度に。私は彼に振り返り、こう投げかけた。 「そういえば、名前なんて言うんですか?」 虚をつかれた表情を浮かべた彼は、少しの間何かを考えるような仕草を見せて 「……ココロ。また会うことがあったら好きに呼びなよ」 「ココロくん、ですか……」 「……そっちは?」 「ソラ、です」 「そう……一応、覚えとく」 そう言い残して彼は再び布団にくるまり、そっぽを向いてしまった。もう帰れということだと察し、私はそのままそれ以上何も言わずに廃ビルを後にした。 外に出ると、やっぱり雨はまだ降っていて、帰るのが億劫になる。普段も家に帰るときは億劫だけれど、今日のそれはいつもと違う風にも思えた。 帰り道、さっき出逢った彼。ココロのことを考える。彼は何者で、何の意図があってあのビルに居るのか。普段は何処に住んで何をしているのか。思い返せば思い返すほど、疑問しか出てこなくて、考えるのを辞めた。そういえば、彼と話している間はスラスラと話せていたなぁ。ということに気付き、嬉しくなる。こんな私でも誰かと普通のやり取りが出来るんだ。と思うと、何年ぶりになるのかは分からないけど自然と胸に温かさが産まれた。 雨降りの空は、相変わらず曇って重苦しい。それでも、夜と比べると、少しだけ雲が減り向こう側が見えた。ような気がした。
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