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第3夜
あの廃ビルに通うようになってから、早いもので一ヶ月が経とうとしていた。流石にそれだけの時間を過ごすと少しはココロという人間のことが分かってきた。
彼は優しい、のだと思う。本人は否定しているけれど。でも、きっと、彼は優しい人だ。そもそも、優しくなくて本当に酷い人なら、学校でも友達は居ないだろうし、あの日、あの土砂降りの雨の日。私に言葉をかけてタオルを貸してくれたりなんて絶対にしていなかったと思う。しかし、そう思っている反面、彼も私と同じで、普通というレールから逸しているのだろうとも思っていた。
そもそも、ほぼ毎日のようにあの廃ビルに通っているなんて、その時点で何か常識から外れている。あそこに置かれた様々な生活用品は、やはりココロが持ち込んだものだった。本人になんでそこまでしてあのビルに居座るのかと聞いたことがある。すると彼は「必要だったから」という淡白な答えを返してきた。物を持ち込んだ理由じゃなくて居座る理由を、と聞こうとして、辞めた。
彼は時々、不思議な表情をする。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも呆れているのか。何を思ってその表情をするのかは私には分からなかったけれど、彼がその表情を浮かべるときは、彼にとって何か良くないときなのだということだけは分かっていた。その時も、彼は不思議な表情を浮かべていた。だから私はそれ以上深くを触れることはしなかった。
さっき、少しはココロという人間のことが分かってきた。と言ったが、あれは多分嘘だ。私が知っているのは、あくまで“私から見たココロくん”でしかないのだ。いつか、このまま廃ビルで彼との時間を重ねていけば、もっと深くまで彼を知ることが出来るのだろうか。願わくば、そのときには私のことも、深くまで知ってほしい。
なんてことを考えているうちに、いつしか時計はその日の仕事を終えようかとしていた。最後の電車が間もなく始まり、街の空気が終わりへと向かっていくこの時間。最近の私の当たり前がようやく始まるのだ。
廃ビルに着くと、いつも通り彼が先に来て本を読んでいた。「こんばんは」と挨拶をすると視線を一瞬だけこちらに向けて「ん、こんばんは」とだけ返す。初めの頃は冷たい反応だと思っていた。もしかしたら私が来るのは迷惑なんじゃないか、と。でも最近では、これは冷たいのではなくて素っ気ないだけなのだと気付いた。多分、彼は挨拶とかお礼とか、後は褒められるとか。そういった誰かとの前向きなコミュニケーションが好きではないのだ。その証拠に、彼は私が隣に座るといつも決まって
「今日も、ココアでいい?」
と聞いてくれる。大丈夫です、と返して用意をしてくれる彼から目線を外す。外した先には今まで彼が読んでいたらしき本が置かれていた。私が来ると、彼はいつも本を読んでいる。此処に積まれている本は全て彼の私物で、聞いた話によると、昔から本を読むのは好きだったらしい。好きなジャンルは?と聞くと特に無いと答えるのが彼らしいなと思った。
「はい、ココアお待たせ」
「あ、ありがとうございます」
さっきの挨拶もそうだけど、やはり一ヶ月、それも毎日のように通っているとお互いの中にある種の決まり事のようなものが出来てくる。私が来て、彼がココアを作ってくれるときに彼はいつも自分用のコーヒーを用意していた。砂糖はともかく、ミルクなんて保存しておける環境じゃないし、というか、ひょっとしたら砂糖も此処には置いてないかもしれない。
「ずっと気になってたんですけど」
「ん?なに?」
「ココロくんっていつもコーヒー飲んでますよね。それってブラックなんですか?」
「そうだよ。ミルクなんて置けないし、砂糖も持ってきてないからね」
「へぇ……そういうとこだけ大人ですね。私は、ミルク無いと飲めないですもん」
「俺が大人なんじゃなくてソラが子供なんだよ」
「安定の嫌味ですね。褒めてるんですから素直に受け取ればいいじゃないですか」
「え、今の褒めてた?」
「どう聞いても褒めてますよ」
「割とからかってた気もするけどね。まあ、俺も人のことは言えないよ。本当は、カフェオレが一番好きだし」
「へぇー、私と同じですね。子供です」
「はいはい。そういうことにしとくよ」
カフェオレが好きだと言いながらも真っ黒なブラックコーヒーを流し込む彼は、少しだけ歳上にも見える。絶対本人には言わないけれど。
「まあでもあれかな。カフェオレは好きだけど、別にコーヒーは好きな訳じゃないよ」
「え?こんなにいつも飲んでるのにですか?」
「好きだから飲んでる訳じゃないよ。なんていうか、やっぱ、苦くても、好きじゃなくても飲み込まなきゃいけないときって、あるじゃん?だから、その練習みたいな感じ」
そう言ったココロくんはなんてね、と茶化すように笑っていた。けれどその笑顔を崩したときは、もう何度も見たことのある不思議な表情を浮かべていた。
多分、ココロくんは自分で気付いていない。自分がどんな顔をしているのか。どこか寂しそうで、何かに怒っているかのような表情をしていることに。何の自慢にもならないが、私は昔から人の顔色を伺って生きてきた。だから、人の表情から何かを読み取るということは、きっと他の人よりも得意だと思う。そんな私だからこそ気付いてしまうのだろうか、それとも他の人、例えば学校の友達の中にもそれに気付いている人は居るのだろうか。もし、他にも気付いている人が居るのなら、その人はそうなったとき、ココロくんにどう接しているのだろう。
「またなんかめんどうなこと考えてるでしょ」
「へ?」
急に声をかけられて気の抜けた声が出てしまった。ココロくんは、「何その声」と言いながらクスリと笑う。
「ソラが何考えてるのか俺は分からないけどさ。何かを考えてるんだなってのは、見てたら分かるよ。難しいかもしれないけど、そんな深く考えなくてもいいんだよ。況してや、俺と話してるときくらいはさ」
ココロくんはそう言って私を励ましてくれた。私はその言葉が凄く嬉しかった。励ましてくれたことが嬉しかったのではない、私と同じだったことが嬉しかったのだ。ココロくんは私が考えていたのと同じことを私に言ってくれた。「何を考えてるのかは分からないけど、何かを考えているのは分かる」と、そう言ったのだ。
何歩譲っても表情豊かとは呼べない私の心情を、彼は読み取ってくれる。何を考えているか分からないと突き放すのではなく、分からないけどこれだけは分かると、その上でそんなこと気にしなくてもいいんだよ。と言ってくれた。今まで私が関わってきた人でそんな言葉を投げかけてはくれた人は居ない。家族ですらそうだったから、そういう反応をされるのが当たり前だと思っていた。それなのに、出逢って一ヶ月程度の彼が、またしても私の中の当たり前を塗り替えたのだ。
「そう、ですね。今更ココロくんに気を遣うなんて無駄遣いですもんね」
「励ましてやったのにそういうこと言う?嫌味な奴だな」
「ココロくんにだけは嫌味な奴呼ばわりされたくないです。それに、私が嫌味な奴なんだったらそれは多分……」
「多分?」
「どっかの誰かさんのが移ったのかもしれませんね」
「ふふ、そうかもね。ソラって、単純な奴だと思うし」
頬の筋肉が勝手に
上がっていくのが自分でも分かった。笑顔が自然と出てくるなんていつぶりだろう。直ぐに思い出せないということは、それだけ昔のことなんだろうと思う。彼と居る間は少しだけ、ほんの少しだけだけど、私は普通になれて、生きていける気がする。
「とにかく、ココロくんに対して気を遣うのはもう辞めにします。使うだけ疲れるだけです」
「そう。俺もその方が楽だし、そうしてくれたら助かる」
「そうです、私もうココロくんに気を遣いません。だから……」
「ん? 」
「ココロくんも、気を遣わないでください。私だって、見てたら分かるんですよ? ココロくんが何かを考えているときくらい。勿論、何を考えているのかは分かりませんけど、ココロくん、何処か寂しそうな顔してますから」
「……」
沈黙が流れる。気を遣わないとは言ったものの、気を遣わないことと失礼なのとは似ているようで大きく違う。親しき仲にも礼儀ありというか、人間として必要最低限のマナーというか。あれ? ひょっとして私地雷踏んだ? でも、ここで言っておかないと彼は多分、その何かのことをずっと気にしてしまうのだろうという変な確信があった。
「……ソラが羨ましいよ、俺は」
「え……?」
怒鳴られる覚悟をしていた私は、まさかの羨ましがられるという自体に面食らってしまった。羨ましいって、私が? こんな、人間擬きのような私が?この人は何を言っているんだろう。
「ソラはさ、裏表無しに相手のこと思いやって考えれてるじゃん。それが相手にとってどうかは別として、自然とそういう考えが出来てるから。それが、俺は、羨ましいよ」
「……私は、こんな自分嫌いです。むしろ、ココロくんみたいに知らない人にも優しく出来る方が羨ましいです……」
「いつも言ってるけどさ。俺は、優しくなんてないんだよ。ただ、誰かに必要と思ってほしいだけなんだ。見返りを求めている行動は優しさなんかじゃ、ないよ」
そんなことない、と言おうとした。けれど、その言葉が喉から前に進んでくれない。言いたかった言葉が、ランタンの灯りに照らされることはなかった。
「まあ、ソラは行動出来るのが羨ましいと思ってるんだろうし、俺は考えられるのが羨ましいと思ってる。お互い、無いものねだりなんだろうね」
「そう、なのかもしれないです。でも……」
「でも? 」
「私は、此処に居て、ココロくんと居る間だけは、普通に話せるんです。気を遣いすぎることも、それで疎まれるのを怖がることも無く、少しだけでも普通に近付けるんです。だから、楽だし、楽しいんです」
「……うん」
「だから、ココロくんにも、楽になってほしいです。普段がどうかは知らないですけど、この廃ビルで、私と居るときくらいは、難しいこと考えずに、ありのままで、居てほしいです。ありのままの、ココロくんが見たい、です。」
「……そっか」
「はい……」
またしても静寂に包まれる。深夜の廃ビルは少し繁華街の奥にあるのも相まって、時たま遠くの方から車の音が聞こえるだけで、それ以外は何も聞こえない。
私は夜が好きだ。幸も不幸も、綺麗も汚いも全て隠して、包み込んでくれる気がする。そのくせ、空はスポットライトのように私たちを照らしてくれるから。どんなに異常な私でも、夜は受け入れてくれる。それはまるで、ココロくんみたいだな。と思った。
「あのさ」
「はい? 」
「いつか、いつになるかは分からないけど。いつか、ソラにはちゃんと話すから」
「……はい、分かりました」
「だから、そのいつかが来るまで、もう少し待ってて。お願い」
「はい、私は、いつまでも待ちます。楽になれるときは、一緒に楽になりましょう」
「……うん」
それだけ言うとココロくんは再び口を閉じる。私もそれ以上口を開くことはせず、彼の隣で空を眺めることにした。直後、隣から小さな声で聞こえた言葉は聞こえてないフリをした。
眺めた空には、綺麗な月が浮かんでいた。普段もよく見る月だったけれど、今日の月は、私たちの行く末を静かに、それでいて力強く見守ってくれているようにも思えた。
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