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なぞの秘密結社のなぞ
夏の盛りのある日、エヌ氏がなじみの喫茶店へ行くと、店先に妙な貼り紙がしてあった。
〈秘密結社、はじめました。〉
プリントされたような字でこう書かれている。
「や、変わったことをはじめたな。それともこの暑さでおかしくなってしまったか」
エヌ氏が額の汗をぬぐう。一刻もはやく熱気から逃れるため、エヌ氏は店内へ入った。
「いらっしゃい」
「きみも妙なものをはじめたね。あれはいったいどういうつもりなんだい」
「なんのことです」
店主が怪訝な顔をする。エヌ氏がカウンター席に腰を下ろしながら、店の外を示した。
「外に貼ってあるだろう。秘密結社はじめました、と。そうだな、コーヒーをもらおうか。あ、いや、こう暑いんだ。なにか冷たいものを作ってくれ」
エヌ氏が注文をする。店主は注文を受けたことで無意識に手を動かしながら言った。
「や、また貼ってあるのですか」
「またって。きみが貼ったのではないのかい」
「とんでもない。あんな意味のわからない文章をわたしが書くわけがないでしょう。たちの悪いいたずらですよ。まったく困ったものだ」
「そんな腹を立てなくてもいいじゃないか。みな、この暑さでまいってしまっているのだろう」
「くだらない理由でいたずらをされたのでは、たまったものではありませんよ。変なうわさを立てられたら困るのはわたしです。あそこの店はなぞの宗教にはまっているなどと言われてみなさい。客がはなれてしまいます」
「ふむ、それは困るな。なじみの店がなくなるのはさびしいものだ」
「とにかく、わたしは貼り紙をはがしてきます」
そう言うと、店主は注文どおりの冷たい飲みものを出してきた。柑橘系の香りのする、炭酸の効いた飲みものだった。エヌ氏に注文の品を提供した店主は、そのまま店の外へ向かっていった。とびらが開かれると、四角い枠から夏の景色が飛びこんでくる。真夏の日差しに照らされた街並みはまぶしく、白一色にかがやいて見えた。やがて、その光のなかから紙を手に持った人影が湧き出てきた。
店主のご帰還である。
「だれがこんなことを」
ぶつぶつ言いながら店主が紙を眺めている。エヌ氏は飲みものをひと口飲んだ。舌の上でレモンの香りがぱちぱちはじける。その香りが鼻から抜けると、体温がすこし下がった気がした。
「ちょっと、見せてくれよ」
「かまわないけど、特別なんにも書いてないですよ」
店主が例の貼り紙をエヌ氏に渡す。エヌ氏はそれを受け取って、カウンターの上に置いた。しわを伸ばすように手のひらで撫でていく。
「ふむ、たしかになにも書かれていない」
その紙には〈秘密結社、はじめました。〉以外になんの文字も記されていない。小さな文字が隠されているかと思ったのだが、当てが外れたようだ。
「一応、裏側も調べてみるか。本当の秘密結社なら手の込んだ隠しかたをするはずだ」
「むだですよ。本物のわけがないじゃないですか」
店主の言うことを無視して、エヌ氏は紙をひっくり返した。しかし、裏面はまっ白。新品のコピー用紙みたいだ。
「ほら、言ったでしょう」
「ふうむ、世のなかにはへんなことをするやつがいるものだな」
「わたしたちには理解のおよばない変人なのでしょう。まったく、ひとに迷惑をかけずにやってもらいたいものだ」
「ごもっともな意見だな」
エヌ氏が頭の上へ紙を持ち上げる。店内の照明に透かしてみせたが、なにも浮かびあがるものはない。
「そんなに興味がありますか」
「すこしでもひまをつぶせたらと思ってね。そうだ、あぶり出しという手法を使っているのかもしれないな」
「いろいろ妄想するのはかまわないですけど、やるなら自分の家でやってくださいよ。わたしはその紙に迷惑しているんですから」
「わかっているよ。わたしだって、そこまで本気なわけではない」
それから、エヌ氏は一杯の飲みものをできるだけゆっくり飲み干して、時間をつぶした。だが、その時間を使っても紙についてなんら進展はなかった。ただのいたずらなのか、それとも本当に秘密結社のしわざなのかすら不明である。
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