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あの貼り紙を見つけてから数日が経った。エヌ氏はすっかり日常に呑みこまれて、紙のことなど記憶から消えかかっていた。
そんなエヌ氏が仕事の出先から本社に帰るときである。昼間の蒸し暑い空気に頭をぼーっとさせていると、見覚えのある貼り紙が視界に飛びこんできた。
「や、なんだ。こんなところにも貼ってあるのか」
街角の壁にそれは貼ってあった。エヌ氏が駆け寄る。紙と同じ高さに目線を合わせた。貼り紙には機械的な字で〈秘密結社、はじめました。〉と書かれていた。目を凝らして見てみるが、やはりほかにはなにもない。
「意味がわからないな」
エヌ氏がつぶやく。あいにく仕事があるので、このままずっと見ているわけにはいかない。しかたなく、エヌ氏はその場をあとにして、会社へ戻った。
仕事を終えた帰り道、エヌ氏は昼間の貼り紙のことなど忘れて、疲れた体をせっせと自宅まで運んでいた。夜でも街は明るい。
自宅までの帰り道の途中、昔からある本屋の前をとおったときである。
「あ、あの紙」
エヌ氏の目が〈秘密結社、はじめました。〉の文字を捉えた。本屋の外壁にしっかりと貼られている。
「こんなところにもあったのか」
エヌ氏は誘われるように貼り紙へ近づいていった。いままでに見たのと同じ紙のようだ。大きさも文字の形も変わらないように思える。エヌ氏は本屋に入り、店のなかにいるおばあさんに聞いた。
「すいません」
「あ、なんですか」
客が来るのが予想外といった感じでおばあさんが応対する。
「表に貼ってある貼り紙のことなのですけど」
「貼り紙ですか。そんなもの貼りましたかね」
おばあさんがレジのなかの椅子から立ちあがる。ゆっくりとした動作でレジを抜け出し、店のなかを歩いていく。頼みもしないのに、確かめに行ってくれるようだ。エヌ氏もあとをついていき、ふたりそろって店の外に出る。
おばあさんはしげしげと貼り紙を見つめて、言った。
「なんですか、これは」
「はあ、あなたが貼ったのではないのですか」
「こんなもの貼りませんよ」
おばあさんは笑ってそう言うと、「ああ、いそがしい」とつぶやきながら店のなかへ戻ってしまった。
「結局、なぞは解けずじまいか」
はじめはそこまで本気にしていなかったエヌ氏だが、こうも見かけると人間気になってくる。自宅へ帰りながら、注意深く街なかを見ると、貼り紙がはがされたあとがそこかしこにあるではないか。
ひょっとして、あの貼り紙がはがされたあとなのではないかしら。
こんなふうに思ったりもする。しかし、肝心の貼り紙に手がかりになるようなものはなにもない。どの貼り紙にも、書いてあるのは〈秘密結社、はじめました。〉の一文だけ。特殊な紙を使っている様子もないし、文字もよく見かける字体だ。なにかが隠されている気配も感じられない。なんのヒントも得られないまま、エヌ氏の夏はすぎていった。
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