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秋の足音が近づいてきたころ、エヌ氏はなじみの喫茶店にいた。吹く風は涼しく、太陽の光はどことなく優しくなっている。
カウンター席に座っているエヌ氏が店主に話しかけた。
「最近、あの貼り紙を見なくなったな」
「あの貼り紙ってなんですか」
「ほら、この店にも貼ってあっただろう。〈秘密結社、はじめました。〉と書かれた貼り紙が」
「ああ、そんなこともありましたね。この店にもってことは、ほかにも貼ってある場所があったのですか」
店主がコーヒーを差し出しながら聞いてくる。落ち着く香りがエヌ氏の顔へ立ちのぼってきた。
「あったさ。何か所も」
「へえ、へんな趣味のやつがいるものですね」
「いいや、趣味であんな手の込んだことはしないだろう」
「じゃあ、なんですか。本当に秘密結社があるとでも。さすがにそれは妄想がすぎますって」
店主が笑う。エヌ氏はコーヒーに口をつけ、真剣に考えていた。その苦みがエヌ氏の脳によい刺激を与えてくれることを期待して。しかし、思いつくのはいたって凡庸な思考ばかり。しかたないのでその平凡な考えを店主へ披露してみる。
「本当に秘密結社を作ったのはいいが、ひとが集まらなかったのではないか。あの紙、連絡先もなにも書かれていなかったし」
「はは、なんで書かないんですか。来てほしいなら、書くべきでしょう」
「それは、秘密だからさ。わたしたちが気づかなかっただけで、会員だけの連絡方法があるのかもしれない」
「そんなのありませんって。考えすぎですよ」
店主がばかにする。ここまであからさまにばかにされては、ただでは引き下がれない。せめて、あの貼り紙を貼った主くらいは突きとめてみたいものだ。
黙ってコーヒーを飲みながら、エヌ氏はある決意をした。来年の夏、あの貼り紙そっくりのものを作って街なかに貼ってやろう。偽物があらわれたとなれば、向こうからコンタクトを図ってくるにちがいない。
「ふふ、楽しくなってきたぞ。来年の夏が待ちどおしい」
エヌ氏はひとりつぶやいた。
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